見出し画像

「私」という人間を考察してみる

久しぶりに書く気になったので開いてみた。
この気まぐれにやって来る書きたくなる感じは何だろうか。不思議だな。
毎日続けようと決めると、途端にやりたくなくなる天邪鬼な性質は本当に厄介で、何処にいても何をするにも継続出来ないとは一体どういう事だろう。
いや、ただの意思の弱いダメ人間なだけなんだが。

まぁいいや。気を取り直して。
前回(と言っても10ヶ月も前なのね)書いた記事の最後に、いつか書きたかったことをメモのように記していたのを、さっき「前何書いたんだっけ?」と読んでて見つけた。

子どもの頃からそうだけど、どうも自分が自分じゃないというか、何ですかね……上手いこと説明出来ないけど、違和感があるというか、ふわふわしたまま生きてきたなぁ。

雨の日の髪の毛ぐらいにまとまらず

今までこの違和感についてどこかにはっきり書いたこともなかったと思うし、そんなに他人に話したことも無かったような気がする。
言うほど深く考えた事が無い、とも言うが。
まぁ人に話したところで、「何か言い出した」で終わりなんだけども。

せっかくなので、使ったことないnoteっぽい機能を使って考察しま(使いたいだけ)


自分の苗字に対する違和感


いつの頃からかは記憶にないが、恐らく小学生の頃には既に自分の苗字に妙な違和感を覚えていた。
苗字を呼ばれても、一瞬「自分のことだとわからない」とでも言おうか。

言っておくが私は両親と妹二人の五人家族で、時々祖母や祖父と暮らした、至って普通の、所謂一般的なご家庭に生まれ育った。

小学一年生の頃に亡くなった母方の祖父が家に居たのは、どういう理由か寝たきりで、恐らく祖母だけでは介護が不可能だったからだろうと思う。
そのことに関してそう言えば聞いたことがない。

それから何年も後に一緒に住んだ祖母は父方の祖母だ。
祖母が当時住んでいた京都から見知らぬ土地の我が家に住むことになった経緯も、子供だった私にはわからない。

さて。私が小学五年生の時、両親が離婚した。その翌年よりを戻したが、結局、いつだったかな……恐らく中学に上がる前後に母が出て行った。
子供3人は当初父親と暮らしていたが、途中で母の所に行って……その後また父親の所に戻って……いやどうだったかな。
もう記憶も曖昧だし、割とその辺はどうでもいい事なので飛ばそう。
生い立ちを書くと複雑で面倒臭いし、思い出したい歴史でもなかったわ。

とにかく母と暮らす事になって、その時苗字をどうするか聞かれたことがあったんですよ。
このまま父の姓を名乗るか、それとも母の旧姓を名乗るか。
既に苗字に違和感があった私は「母の旧姓+自分の名前」を想像し、母には悪いが「まだ父の姓の方がマシ」と、今に至るまで苗字は一つだ。

そう言えば母は今も別れた旦那の苗字なんだけど、一体どう思っているのだろうか。あの時、元の姓に戻りたかったのではなかろうか?
今度聞いてみよう。覚えてたら(フラグ)
閑話休題。

そんな事が諸々ありながらも、生まれて此の方一度も苗字が変わった事もないのに、学校や職場や銀行や役所や病院など、苗字で呼ばれる場面に出くわす度に、「えーと私のことだな?」といちいち考えるのは何か変だ。
気をつけていないと、今でも名を呼ばれてスルーすることもある程、苗字が自分に馴染んでいない。

友人たちにも、苗字より下の名前で呼んでくれと頼むことも多かった。
苗字で呼ばれても自分だとわからないからだ。

そう考えると、「そんなことある?」と誰彼構わず聞いて回りたくもなる。

余談だが、私の苗字はひらがな三文字なのに、どうも四文字の方がしっくりくる気がずっとしている。
中でも私がよく例に出すのは「たかはし」だ。
私が子供の頃に大好きだったプロ野球選手の苗字だからかも知れないし、他の苗字を想像したことがないからかも知れないけど、「四文字の苗字と言えば?」の答えは「たかはし」だった。

今ふと他の四文字を考えてみようとしたんだけど、パッと脳裏に浮かんだのは「ゆきむら」。たくさんあるのに何故だろう。謎だ。
ちなみに母の旧姓は二文字。論外である。


自分の事なのにまるで他人事のような感覚


ところで私の頭の中には、「私」が三人いる。
ハイ、更におかしなこと言い始めたよ〜!とお思いでしょう。わかる。
ビリー・ミリガンに代表されるような、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)とかではないです。
これはただの例え話であって、別の人格が私の中にいるわけではありませんので誤解無きよう。

一人でぼんやり考え事をしている時、頭の中ではああでもないこうでもないと「私」と「私」が言いたい放題言い合いをしていて、それをちょっと離れた場所にある木の陰から見ている三人目の「私」が話をまとめる、という感じだ。
これはただの想像というか妄想で、思考から結論までを擬人化しているに過ぎないとは思うけど、何か昔からそんな様な映像が頭に浮かんでいた。

そもそも私は優柔不断なのだと思う。
AもBもどちらでも良かったり、どちらも良かったり、どちらもイヤだったりして選べない事が多々ある。
それをどちらかに判断するのは客観的に見ている「三人目」で、「決められないなら」と明後日の方向から決定したりする。

これらを踏まえて無理矢理結論づけると、「三人経由している時点でどうにも他人事のような感じになる」のでは無いか?と。
結論を出す時、自分の意思というより「誰かのオススメ」で選択する事は結構多いような気もするから、余計自分の事として捉えられないのかもしれない。

例を挙げてみよう。

上の記事は私がnoteで初めて投稿したものだけど、内容はヘビィなはずなのに、文体がヒジョーに飄々としていて、読まされた方は「何の話……」かも知れない。
これを書くにあたって改めて読んでみたけど、一体誰の話なんだ?と思うほどに他人事。

書いている時、「明るく書こう」とか「笑わせてやろう」などと全く考えておらず、思った事を素直に文字にするとああなっただけで、読み返してみても齟齬は全く見当たらない。
寧ろ思った通りに書けて割と満足している。

エコーとマンモの結果、乳がんの疑いがあるから細胞診もしましょうと。

「えーやっぱりー?!やっちゃったなぁ〜」

というのが紛れもなく正しい最初の感想。

とか、

で、MRIの結果、リンパ腺と骨盤近くの骨に転移が見られるとのこと。
つまりステージ4である(転移してたらそうらしい)

「あら〜これは余命宣告系のあかんやつやな…」

ここまで来ても、色んな所で見かける「頭が真っ白に」とか「死にたく無い」とかそういう感情が全く湧かないから不思議だ。

とか、私が見聞きしたがん宣告された人の話の中に、こんな感想を語っているがん患者はいなかった。
ちょっと頭おかしいのでは?と自分を疑うくらい悲壮感が無い。

思い立ったのでがん宣告された時の頭の中を会話形式にしてみよう。

A「乳がんだって」
B「oh……ハズレ引いたわ」
A「気づいた時に病院行けば良かったのに」
B「えーあん時でもそこそこの大きさの塊だったじゃん」
A「脂肪の塊説、見事に外れたな」
B「それな」
C

「えーやっぱりー?!やっちゃったなぁ〜」

ということになろうか。
この時はあまりヤイヤイやらずにすんなり受け止めた感じだったけど、これも「今思えばこんな感じ」という妄想である。

あれからもうすぐ二年経つけど、未だに自分ががん患者という実感も、死ぬかもしれないという緊迫感も恐怖心も無い。
何なら普段そんな事は忘れていて、それを思い出すのは服薬時間前と通院日くらいで、やっぱり他人事だ。


不可思議な「私」


今回は常に「何言ってんだ」みたいな事しか書いてないな。
自分でも、自分の事がもう一つ計りかねるのでね、他の人に聞いてみたいもんだ。

「私ってどういう人間だと思いますか?」

私は割合偽善者で、他人が羨ましく、何か才能があったんじゃないかなと思うこともあるけど、でも意思が弱い怠け者なので継続できないから何者にもなれないのは当然で、数字に弱過ぎて時間とかお金とか適当だし、熱し易く冷め易い。夢中になるけど数年で飽きる事も多い。波のようなマイブーム。
几帳面だったり神経質な面もあるけど、ざっくりとか大体とかいい加減な面もある。情に流されやすく、人の感情を気にすることもあれば、他人のことなどどうでもいい時もある。気が済むまで人にやさしくありたくもある。
自分がイヤな事はしたくないし、他人がイヤな事もしたくない。
外面を気にする事はほぼ無くて表裏一体で、空気は読める方だと思うが無視する事もある。言いたい事は全部言いたいし、イヤだと思ったら抗う。
輪の中に退屈している人がいると、盛り上げなければ!という謎の使命感を覚える。人前でのスピーチはキライじゃ無いのにあがり症。喋るの好きだし皆を楽しませるのも好きだけど、人の話を聞くのも好き。結構短気。我慢とか忍耐とかキライなくせに、根性とか気合いとかは好き。正直者。

考えるとまだあるけど今日はこの辺にしといてやろう(誰)
書いた人物像を読み返して思う。
余りにも矛盾だらけの生き物。この統一感の無さよ。

馴染まない苗字。
「私」として生きているはずなのに妙な他人事感。
矛盾する性格。

一体「私」は何なんだ。

そうして長々書いて何度読み返してみても、私は「私」のことがよくわからないのだった。

(画像はnoteクリエイター様から。描いたご本人はそう言う意味じゃないだろうけど、思考する感じで目を引いたもので)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?