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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(18)

第1話あらすじ

  ●月夜の誓い

少し欠けた月が天高く座し、冴え冴えとした光を注いでいる。美咲は窓辺にイスを寄せて、月をぼんやりと見ていた。

心は、五年前を漂っていた。

最初の病院で「異常無し」と言われた時は、素直にそうなのかと思った。
だが一向に治る兆しがなく、病院を変えた。

そしてまた、「原因不明」とか、「検査結果は異常無し」などと言われた。

とりあえずで出された薬。
症状は一時的に治まったが、結局治らなかった。

そんなことを何度も繰り返し、行き着いたのが、高坂総合病院。
だがそこでも言われたことは同じ――

「異常……無し……」

それは他でもない、雪洋が放った言葉。

あの頃何度も唱えた言葉に涙が落ちる。
この涙は五年前のもの。
思い出しているだけ。

わかっている。
「今」の涙ではない。

その後の五年間は、体が痛くて部屋で一人泣いていることしか思い出せない。

どうして自分だけがこんな目に遭うのか、この痛みはなんなのかと、そればかりを思っていた。
何より医者を信用できなくなったことで、ますます逃げ場を失った。

「う……っ」

声を押し殺して泣く。
でも嗚咽は激しくなり、止める事ができない。

ドアがかすかにノックされた。
――雪洋だ。

「美咲……」

寝た子を起こさないような優しい声。
雪洋の耳にも嗚咽が届いたのだろう。ベッドではなく窓辺にいる美咲を見ても、雪洋は何も言わない。

ベッドからタオルケット取り、そっと美咲に羽織らせる。小刻みに震える肩に雪洋の手が置かれた。その手のあたたかさに、心がほぐれる。

雪洋のことで泣いているというのに、当の雪洋に慰められている。

もしも今、五年前の医者はあなたなのかと尋ねたら、雪洋はどうするだろうか。

感謝の気持ちを表したとき、雪洋はいつも困ったような顔をする。
照れているのだと思っていたが、あれは感謝されることに苦しんでいたのかも知れない。

肩から雪洋の手が離れる。
今度は優しく頭をなでられ、また手が離れた。

触れていないことが妙に寂しくて振り返ると、いつもと変わらない雪洋がそこにいる。
いつもと同じように、美咲を見守っている。

美咲はゆっくりと、雪洋のみぞおちへ顔を埋めた。

――五年前のことを話せば、先生はきっと、私の前からいなくなってしまう。

雪洋の服にしがみつく。
もう白衣がなくても平気になった。

離れてほしくない――
そう願っている自分がいる。

美咲の体が、ぬくもりに包まれる。
雪洋の腕が、優しく包み込んでくれていた。

傷つけたくない。
まだ離れたくない。

でもこのままここで一緒に暮らすには、気持ちがあまりにも混乱している。

雪洋の気持ちが、知りたい。

「先生……」
「ん?」

雪洋が美咲の髪を手櫛で梳く。

「先生は……誰かを傷つけたことがありますか?」

手櫛が止まる。
雪洋が今どんな表情をしているのか、見る勇気はない。

「――ありますよ」
月明かりのように、静かな声が降りてくる。

「ありますとも。――軽薄な言葉で、ひどく傷つけてしまった人がいます」

顔を上げると、雪洋が見つめていた。
美咲の前髪を指で流す雪洋は微笑んでいる。
美咲のことを言っているかどうかはわからない。

裁きたいのではない。

これからも敬愛し、一緒に過ごしていくために、どうしても雪洋の真意に触れておきたい。

信じられる部分が、ほしい。

「それで、それからどうなったんですか?」
「やり直すために、それまで自分が持っていたものを手放しました」

高坂総合病院を辞めたこと……だろうか。
だとしたら、雪洋が傷つけてしまった人というのは、美咲のこと――

「なんでそこまで……。責任、ですか?」

責任――
自分で言って吐き気を覚える。

責任を取るという行為に心はあるのか。義務とか世間体とか、外側だけの行為にしか思えない。
雪洋が自分にしてくれたこれまでのことが、そんな無味な行為だったのかと思いたくない。

責任感に縛られるだけで、そこに雪洋の心はなかった――それだけは、嫌だ。

雪洋は天井を見上げ、責任、とつぶやいた。

「謝るだけでは足りないし、解決する話でもない。私自身も納得できない。たしかに責任を感じての部分もあるでしょう。でもね――」

美咲を見つめ、そっと髪に触れる。

「その人のおかげで、と言ったら叱られるかも知れませんが、私は初心を思い出し、やり直すきっかけをもらいました。とても感謝しています。
でもその人は、慢心した私のせいでひどい仕打ちを受けました。だから私は、その人のために、できることすべてを費やしたい。
それが償いであり、恩返しであり、私の初心にも通じることなんです。そのために持っていたものを手放したんです。――これ、責任だけの話じゃないですよね」

雪洋がまっすぐに美咲を見つめて微笑んだ。

祖父のように、一人一人をしっかり診る医者になること――それがきっと、雪洋の初心。

「だから今の自分になったことに後悔はありません。責任を取るだけだったら、こんなふうには思えないはずです」

良かった……
空気が抜けるように、美咲が抱いていた不愉快さと不安が、胸の中から出ていった。

これで明日からまた、今までと同じ気持ちで雪洋のそばにいられる。

「でもね……」
微笑んでいた雪洋の目に、静けさが宿る。
「その人にまだ、言っていないことがあるんです」

胸がドクンと高鳴った。

雪洋が窓の外を見つめる。
月に向けた雪洋の表情は、美咲にはひどく苦しんでいるように見えた。時折見せる、あの目を細める仕草だ。

「それを言えば、私はきっとその人から憎まれ、恨まれるでしょう。でも目的を遂げられそうになったら、私の口から真実を告げます。ずっと隠していたことを――」

雪洋が目を細めたまま、月を見つめ続ける。
月に、立ち会いを求めるかのように。

「……嫌われるとわかっているのに、わざわざ言うんですか?」
「はい。許されようとは思っていません」
「じゃあその人は、先生から二度も傷つけられるの?」

雪洋は困ったように薄く笑った。
それに、と美咲は続ける。

「相手も辛いけど、二度も傷つけなきゃいけない先生も……きっと辛い思いをします」

雪洋は苦笑して「ありがとう」と告げた。

「美咲は優しい子ですね。でもいいんです。憎まれる覚悟はできています。いえ、最初から憎まれているのですから」

――五年前の医者たちは嫌いです。
前に美咲が言った言葉。
口から出てしまった言葉は、もう戻せない。

雪洋はそんな自虐的な思いで接していたのか。
――これではいけない。

「……その人はきっと、先生が真実を打ち明けても、嫌わないと思います」

今はこのくらいのことしか言えない。

「だって先生は悪い人じゃないもの。そりゃたまには辛辣なことも言うけど、でも根は誠実ですごく優しいって私知ってます。だからその人もきっと、絶対――」

絶対に、憎んだりしない。
たとえ五年前のことを、打ち明けられたとしても――

「ありがとう、美咲。でも最初からそうだったわけではないんですよ。今に至るには長い時が必要でした」

雪洋は眉を軽く上げて、わざとおどけているようだった。

私たちは、出会い方が悪かったのかも知れない。
でもあの日出会わなければ、私たちは今、ここにはいない。

「ねえ先生。他の病院に行ったとしても、私の病気は根治することができないんですよね? 同じようにステロイド飲んで、血液サラサラにして、傷を作らないようにって言われるだけなんですよね?」
「そうですねえ、やることに大差ないと思いますよ。転院してみたくなりましたか?」

ううん、と首を振る。

「大差あります。先生は私を、一人でも生きていけるようにしてくれてるんだもの」

服にしがみついていた手を、雪洋の背中にまわす。もう他の医者ではだめだ。

離れたくない。
離したくない。

――離してほしくない。

「この体質と真剣に向かい合ってくれたのは、先生だけだもの」
ぎゅうっと雪洋を抱きしめる。

――なんだ私、わかってるじゃないの。
あんなに落ち込んでいたのが嘘のようだ。

気持ちの整理はついた。

「これからもついていきます。最後まで、先生についていきます」

応えるように、雪洋も抱きしめてくれた。

単なる医者と患者とか、男と女とか、そういう関係は、とうに通り越していたと思う。

でなければ今美咲は、雪洋といなかった。

ただまっすぐに雪洋を信頼してついていく。
それが美咲のやるべきこと。

つくづくよくわかっているじゃないかと、美咲は自分に呆れて苦笑した。

「ありがとう、美咲」

物寂しい雪洋の表情と声音は、五年前の自分を責めているのか。あるいは五年前のことを言わずに接している、今の自分を責めているのか。
――その両方か。

「さ、もうベッドに入りなさい」

これではいけない。
雪洋がその表情をし続けることは、何とかしなければいけない。


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