見出し画像

プラトニックを殺す_vol1

【序章】


殴り書きの文字で埋まった原稿用紙が書斎に散らばり、その一枚をぐしゃっと握りつぶす一人の少女。
セーラー服のリボンをほどきながらする舌打ちは、苛立ちを隠せないことを主張していた。
蔵森沙也加は、小説家だ。しかも誰もが一度は耳にしたことのある「瀧見エマ」という有名作家。
新作書籍を出す度ランキング一位をかっさらい、ドラマ化・映画化など幅広く活躍する瀧見エマの正体が現役女子高生などと、誰が想像するだろうか。

「月ィ!奈波呼んできて!」

そしてこの少女がとんでもなく破天荒なことを知るものは、数少ない。


【1.歪な関係】

「奈波、足」

目の前の女性に、沙也加は冷たく言葉を吐き捨てる。
膝をついて沙也加の足に触れる彼女は春山奈波。沙也加の担当編集者だ。
締切をすぐに忘れる沙也加に頭を悩ませていた編集長が、奈波を沙也加宅に寝泊まりさせることにした。
それから沙也加の"お遊び"は始まった。

「先生、締め切りが」
「いいから、足」

ふらり、と足を揺らす沙也加。
奈波は生唾を飲むと、足先に唇をつけ、舐めた。
沙也加はそれは楽しそうに奈波の後頭部を見つた後、指の爪にペディキュアを塗り始める。
本日の沙也加は小説を書く気はなさそうだった。

「今日は何色を?」
「赤。奈波、好きでしょ?」
「……私は薄紅色が好きだっていつも言ってるじゃない。頭悪いの?」

ちく、と奈波が毒づくが、当人はさして気にしていない様子。
もっと言えば、いつものことだとばかりの態度。
奈波は華奢な脚を指先でなぞり、白く柔らかな肌に頬を添える。
このお人形こそ、私の担当作家"瀧見エマ"。
そんなお人形は、恍惚の表情を浮かべる奈波を一蹴して、散らばっている原稿用紙をぺらぺらとつまらなそうに眺めていた。

「つまらない言い回し」

自分の書いた文章へのダメ出し。
これが始まると沙也加は止まらない。すべてに目を通しひたすらダメ出しを始める。
締切を守らない原因の一つだ。

「並びが違う。ぶれてる。はしたない」

しまった、と慌てた奈波は、沙也加から用紙を半ば無理やり奪い去り

「先生、もうその辺にしましょう」

とぎこちなく笑う。
ふん、と不満そうにため息をついた沙也加はそっぽを向く。

「そういえば、月はいつまでいるの?」

ふと、沙也加がひときわ背が高い背中に問いかけた。

「……護衛が必要なくなるまでですかね」

低く、大人しい声。残念ながら疲労が声に出ているが、腰にはしっかり拳銃が装備してあった。
つまり、彼女は警官だ。

「私の家に警官はいらないんだけど」
「と言われましても。Sの正体が分からない以上、私も配属されるのは妥当かと」
「ちぃ」

そう。月葉が沙也加宅にやってきたのは、沙也加宅に届いた一通の手紙がきっかけである。
差出人は"S"という謎の人物から。
その手紙の中には「瀧見エマ、楽しいゲームの始まりだ」と書かれたカード。
そしてそのカードの端には、血痕がついていたのだ。
沙也加自身そのカードにひどく興奮し楽しそうだとはしゃいだが、奈波の冷静な判断により葉が派遣された。

奈波が転がり込み、葉が派遣され、奇妙な三人共同生活が始まったのはつい三か月前のこと。
普段からお気に入りだった奈波を傍に置く一方、葉は常に隅に隅に追いやられている。
二か月前までは何もなければ邸宅の外の玄関で警備させるほど遠くに隔離していた。
やっと邸宅内に入って警備することが許されたと思えば"警官はいらない"発言だ。
葉にとっては居心地の悪い環境だろう。
もちろん、沙也加にとっても居心地のいい環境ではないはずだ。沙也加は警官が苦手なのだから。

「月。二時間ほど部屋の外にいて」
「はい」

艶かしい瞳が奈波を捕らえる。その瞳が合図だ。
奥の寝室に足をもつらせながら向かい、ベッドになだれ込む。
むっちりと肉付きがよく胸があり、しかし腰は引き締まっている女に抱きつく華奢で小さな娘は子供のように無邪気に笑っていた。

「ほんと、ころころ表情変わるね」
「そう?カメレオンになれそう?」
「それはやめてほしい。私、爬虫類苦手なの」
「変なの。奈波ってば、いつも蛇みたいにしつこいのに」

意地悪く笑う沙也加の唇を塞いで、奈波は今日も蛇になる。

【2.あるべき警官の姿】

事が終わり満足した沙也加はベッドに沈み、すやすやと猫のようにまあるくなって寝息を立てている。
沙也加はよく眠る。放っておけば半日以上は夢の中だ。
寝起きは悪いし活動開始までの"やる気ゲージ"がなかなかたまらないなんとも燃費の悪いタイプだが、一度集中し始めると半日、いや長ければ一日中休まず執筆している。
周りの声も聞こえないため、強制的に食事をとらせるときは体に触れて声をかけないと気づかない。
その声かけ役は担当編集者の奈波だ。

奈波はすやすやと心地よさそうに眠る沙也加の傍に腰掛け、よく手入れされた眠り姫の髪を撫でている。

「……今日もおやすみの日ですか?先生」

返事はない。あるのはすー、すー、という寝息のみ。
顔を上げ、警官を視界にいれると不思議そうに小首を傾げて彼女は問うた。

「月さんは、先生に毛嫌いされても悲しい顔一つしませんよね」
「はい。慣れていますので」
「警官は正義の味方でしょう?なのに毛嫌いされることに慣れているんですか?」
「現実は、助けを求める全員の正義の味方にはなれませんから」

奈波はハッとした。
つまり、助けを求めてくる人に手を差し伸べることができない事案も多くあり、その人たちからしたら警官は"どうせ助けてくれない職業の人"として認定されてしまうのだ。
そしてその認定が覆ることは、相当のことがない限りないのだろう。

彼女は、それでも国民の味方でいようともがいている。

「……立派ですね」
「どうも」

眠り姫はごろりと寝返りを打ち奈波の腰に手を回す。
ちょうどいい場所に抱き枕があった、とばかりにぎゅうと腰に抱きつく沙也加に、さすがの奈波も苦笑いだ。
奈波にとって彼女が眠っている状況はあまりよいことではない。
そろそろ執筆をはじめてくれないと、締切に間に合わないのだ。

「先生」
「無理やり起こすと逆に書かないと思いますよ」
「月さんの言う通りなんですけどね……締切が。ああっ、もう最悪だなぁ!」

りーん。家のベルが鳴った。来客の予定はなかったはずだ。
葉は長い廊下をコツコツと歩き階段を下ると、重い扉を開ける。
だが、見渡しても人の姿は見当たらない。

「……これは」

ただ足元に真っ白な封筒が一通落ちていた。いや、置かれていた。
手に取った手紙の裏には"S"の文字。

「S……またか」

葉の顔色が曇る。再び周りを見渡すが、人の気配はなかった。
だがベルが鳴ったということは、”S“もしくは”S“と通じている誰かがついさっきまでここにいたということだ。
扉を閉め、鍵をかける。葉は、敷地内に侵入を許してしまった自分が不甲斐ないと悔し気に唇を噛みしめた。

ゆっくりとした足取りで二人のいる部屋へ戻ると、眠たげに目をこする沙也加がいた。時刻は夕方六時を回っている。もう夕食時だ。

「ごはんは食べますか?」
「うーん……まだいらない……。それより何持ってるの?」
「これは……」

押し黙っていると、眠たげにしていた沙也加の目つきが鋭くなった。
ピリッとした空気が部屋を包み込み、ベッドから降りた沙也加は葉のもとへ歩み寄り、手紙を奪い去る。

「……S、ね。私がはしゃぐから隠そうとでもしたの?」
「……はい」
「ふざけないで!私には知る権利がある!」
「ごもっともです」
「これだから警官は嫌い」

踵を返すと、沙也加はベッドに座っている奈波の傍まで戻り隣に腰掛け、手紙を開けた。
中には以前同様一枚のカード。それと、映画のチケットが一枚。

「明日君の最寄り駅にある映画館で映画を観るよ。観る映画は「少女旋律血痕」。
 君も観たかったミステリー映画だろう?チケットを入れておいたよ。
 まさかここまでしてあげたのに観に来ないなんて、怖気づいてるのかな?私をみつけてごらん、エマ」

「少女旋律血痕……!旋律と戦慄、血痕と結婚がかかった超大作……!
 ふっ。怖気づく?この瀧見エマが怖気づくわけないじゃない!」
「沙也加、ダメ」
「うるさい!チケットがあるのに行かない理由なんてない!」
「沙也加、お願いだから行かないで。危ない」
「うるさい!!うるさいうるさいうるさい!!!ただの担当編集者のくせに首を突っ込むな!!」

沙也加は時々、人殺しの目つきになる。声を荒げ、思ってもいない暴言を吐く。それは決まって自分の思い通りにならないときだ。
奈波は息を飲み、葉へ視線を向ける。葉は沙也加に歩み寄ると、奈波を殴ろうとした細い腕を掴んだ。

「行っていいですよ。ただし私も同行します。だから落ち着いてください」
「……。わかった」

怒りで震えていた腕から力が抜けるのを確認し、葉は手を離す。
深呼吸を数度繰り返す沙也加は、すっと立ち上がると奈波に軽く口づけを落として部屋を出た。
葉は慌てて追いかけ廊下を歩く後姿に「どちらへ」と声をかける。

「シャワー。頭冷やしてくる」

振り返った沙也加は困ったように笑っていた。


【3. イマジネーションのため】

沙也加は時々暴力的になる。だが、それは意志を持って暴力を振るおうとしているわけではない。
パン、と頭の中で何かがはじけ飛び、正気でいられなくなるそうだ。
それは家であろうが外であろが、場所も人も関係なく無差別に起こる。

シャワーから出る水がばちゃばちゃと地面を殴る。
水が叩きつけられてかわいそう、と思う人もいれば、水で地面が殴られてかわいそうと思う人もいる。
見方によってすべてはがらりと変わる。そのことを沙也加は身をもって熟知していた。

「……みんな、Sに会わずして最初から悪者扱い。会ってみなければわからないのに」

肌を伝う水滴はゆっくりと下へ下へと流れ、地面についた。
きゅ、と蛇口をひねりシャワーの水を止めると、濡れた髪をそろえながら風呂場から出る。
鏡に映った沙也加は、自分のことを「もやしみたい」と笑った。

「沙也加?まだシャワー?」
「……いまあがったところ」
「扉、開けてもいい?」
「……奈波。扉の前で座ってごらん」

数秒沈黙が続いた後、扉の向こうでぺたんと座り込む音が微かに聞こえた。
奈波は扉に耳をあて「はい、どうしました」と囁く。
沙也加も同じように扉にぺたりとくっつきながら座り、扉越しに奈波に問う。

「こわかったろう?」
「……ええ、こわかった」
「ごめん。だけどどうして避けようとしなかったの?」
「殴られてもいいと思ったので。そのまま手を引いてキスでもしてしまおうかとも思ったかな」
「あはは、さすが私の担当。肝が据わってる」
「月さんが止めなければ、いつものように殴られていたし。イレギュラー登場で私の顔に傷がつく数も減るかな……なんてね」

奈波はふふっと笑いながら言った。
そう。葉が来るまでは止める人がおらず決まって手をあげられていたのだ。
二人にとって葉という存在はイレギュラーであり、二人の間に邪魔がはいったと考えても強ち間違いではない。

二人を知るものは、二人について口を揃えていう。

歪な関係だ、と。

「執筆、ネタ切れだったの忘れてた」
「……じゃあ、ごはん、食べる?」
「……そのごはん、美味しい?」
「とっても。……だって沙也加、私の体好きでしょ?」

隔てられていた扉がゆっくりと開く。
奈波がするりと這うように隙間から隔たりを超えると、沙也加の上に覆いかぶさりちゅっと口づけを落とす。

「おなかいっぱいなるかな」
「試してから考えるの」

ちゅ、と口づけを落としたが最後、二人の間から会話が消えた。
沙也加にとって奈波は、イマジネーションを膨らませるための道具でしかないのだ。
奈波もそれを、よく熟知している。

絡み合う肌と肌、熱を持った舌が太ももを這う。
沙也加がぐにゃりと身体を逸らすと、奈波は追うように沙也加にしがみつく。

「ああ……そう。いい色が見えてくる」
「もっと、味わってよく見てください」

深い口づけに沙也加は脳髄まで溺れていく。

歪な関係。それはどこまでも深く、終わりなく歪み続ける。

【4.対峙する日】

翌日、沙也加は葉と共に最寄り駅の映画館にいた。

「本当に来んのかなー」
「さあ、どうでしょう」

指定された「少女旋律血痕」、席は一番後ろ。葉はなるべく近くの席をとって周囲の警戒をしている。
一方で沙也加は楽しそうにきょろきょろと"S"の姿を探している。
しかし場内には沙也加と葉の二人のみ。

上映ブザーが鳴り響き、場内が暗くなる。
沙也加はいささか不満そうにしながら映画を観るために、意識を集中させる。その時。
すり足のスニーカーの音。暗くて姿はわからないが、誰かが入ってきた。
そして徐に沙也加の二つ隣に座り、脚を組む。

「やあ、君がエマだね」
「……ずるいなあ。上映が始まってからくるなんて」
「君だってずるいな。護衛を連れてくるなんて聞いてないよ」

ハスキーな声だが、相手は女性だろう。
それは足音の軽さからもわかる。拳銃に手をかけながら葉はそう推理した。
ぱちん、ぱちん、と指を鳴らす"S"は、つまらなそうに映画を観ながら沙也加に声をかける。

「エマ、君の本当の名前はなに?」
「名乗ってはいけません」
「瀧見エマ。有名作家でありながら実名も性別も、私生活もすべて不明。
 謎の作家としても有名だよね。Wikipediaにすらまったく情報がないんだもの」
「そんなこと話に来たの?なんだ、Sってただのファン?だったらあんたと観る気はないし帰るわ」
「ただのファンと一緒にしてほしくないなあ。ああ、でも今日君のことを一つ知れたから今は満足かな」

不安定な音色で放たれる言葉が君が悪く、不協和音に近い。
沙也加は面倒くさそうにため息を一つ吐き、場内から立ち去ろうと立ち上がる。
その腕を強く握った"S"は、楽しそうに笑いながら沙也加を見上げた。

「エマは、女の子だったんだね」

その瞳に光はなかった。黒く渦巻く闇だけが広がっている。
笑っているのに、笑っていなかった。沙也加は目を丸くしてその手を振りほどく。
これ以上近づいたら、その闇に飲まれそうだ。

「いくよ」
「はい」

だけどその闇が、ひどく魅力的でもあった。

「またね、エマ」

そんな捨て台詞を吐くと、沙也加にそれ以上近づく事なく“S”は去っていった。驚くほど呆気なく、だ。

【5.嫌われ警官の意思】

「またね、エマ」

そのハスキーな声が耳から離れない。
ぐらぐらと頭の中で同じ言葉がリピートされる。
あの黒い瞳の奥は、何を見ていたのだろう。
沙也加は暗く渦巻く闇に呑み込まれかけていた。

「先生?」

葉に肩を触れられはっと顔をあげた沙也加は、同時に襲ってきた腕の痛みに眉を顰めた。

「い、った……」
「先生、どこか怪我を?」

あの時強く握られた腕には、ほんのりと爪痕が残っている。
爪を立てていたのか、あの女。
爪痕の端からじわりと滲む血に気付いた葉は、細い指先でその血を拭った。

「触るな!」
「あまり大声を出さないでください。大した傷ではないとはいえ、血を流したまま歩かれては困ります」
「不平等に正義感を振り回す職業についている人間は嫌いだ」
「……そうですか」

その時葉は瞬時に察した。否、改めて実感した。
沙也加は警官に助けを求めたことがあるのだろう。
警官に泣いて縋って、それでもその時警官は"救ってくれなかった"のだ。
助けを求めにやってくる人は後を絶たない。
必然的に優先順位を決める他なく、救えない人も出てくるのが現実。
そして沙也加はその一人となってしまったが故、警官が嫌いなのだろう。

「帰りましょう。少し回り道をしますがいいですか」
「そこまで警戒する必要ある?家、もうバレてるのに」
「それでも、念には念を」
「……そう」

以前葉は、奈波に言った。
"信頼されず、結局は守ってくれないのだと思われていても、それでも真摯に守るのが自分の務めだ"と。
嫌がる沙也加の手を離れないように強く握る葉は、まだ幼い沙也加を見下ろして目を細める。
沙也加にとって葉の言葉はひどく掠れ、嘘にまみれて聞こえているのだろう。
それでもそれがひどく透明で真実に聞こえる日が来ることを、葉は信じてやまない。

「あなたを守ることが、私の仕事なので」
「きもちわるい」

それでも葉は、瀧見エマを守り続ける。


【6.孤独な消耗品】

「またね、エマ。またね、エマ。またね、エマ」

原稿用紙に筆を走らせながら沙也加はお経のようにあの日のワードを繰り返し呟いていた。
吐き捨てられる"またね、エマ"と書きなぐられるストーリー。

"S"は瀧見エマを知っている。しかし蔵森沙也加のことは何も知らない。
瀧見エマはいつも思うのだ。この世に本当の自分を知っている人間など誰一人いないのだと。
瀧見エマという作家も、その作家が生み出す小説も消耗品でしかない。
「いらない」と一蹴されればあっという間に消えていく。

「またね、エマ」

"S"もまた、いつか瀧見エマに飽きて瀧見エマのことなど「ああ、いたなあそんな人」と忘れていくのだろう。
筆を走らせていた手がぴたりと止まる。不愉快、不愉快極まりない。
どうせすぐ私のことなど飽きてしまうくせに、またねなどと戯言を。

「ちっ」
「先生、あと数ページです」
「うるさい黙って!!」
「……すみません」
「人が集中しているときに話しかけるなんてあんたそれでも私の担当!?編集者だって作家と一緒で代わりはいくらでもいるんだよ!!それでもあんたを選んでるのにあんたは私の邪魔をするっていうの!?」

机をガンッとヒールで蹴る。バラバラと原稿用紙が地面に散らばり、奈波は必死にそれをかき集めている。

「ばかばかしい。見苦しい。そんな紙切れになんの価値があるっていうの」
「先生の書いたお話ですよ!?」
「それがばかばかしいんだよ!!有名作家なんて溢れるほどいる。私はその中の一人なだけ!!ちっぽけな私の作品になんの価値があるっていうの!!」

瀧見エマだったらこんな風に声を荒げない。
瀧見エマだったら女子高生のはずがない。
瀧見エマだったら頭脳明晰で経験豊富なはず。
ネットやメディアで広がる勝手な瀧見エマのイメージは、所詮ただのイメージである。

瀧見エマは蔵森沙也加という一人の女子高生だ。
たった一人からの感想で嬉しくなり、たった一人からの批判で落ち込むちっぽけな少女。
ちっぽけな少女に備わっている"才能"は少女を変わった人と認識させ、特別視させる。
瀧見エマであることの重圧など、誰が理解できようか。

深呼吸を数度繰り返した沙也加は、奈波の差し出した缶ジュースの蓋を開けながら目を細めた。

「奈波、ごめん」
「いいえ。私が至りませんでした。でも先生、少し休憩しませんか」
「……いい。後少しだから」
「先生の代わりは、いないんですよ」

その言葉が何より嬉しく、重圧になることを一般人は理解できない。
担当編集者である奈波でさえも。


【7.ただの女の子】

「ふうー……」

納期ギリギリで書き終えた原稿をチェックしている奈波の横で、沙也加は精いっぱいの伸びをしていた。
凝り固まった体をほぐすように伸びたり首を回したり、何度も吐き出されるため息。

「ねえー、疲れたー」
「ええ。お疲れ様です。もう少し余裕のある納品をしてくれるとありがたいんですけどね」
「うっさいなあ。私が機嫌損ねてあんたんとでは出さないっていったら困るくせに」
「それはとーっても困りますね」

カーテンの隙間から差し込む光、時計は午前七時を指している。
デスクから離れ部屋着から制服へ着替えた沙也加は、通学カバンを持って奈波の頬に口づけを落とす。
原稿に夢中だった奈波はハッと沙也加へ顔を向けた。

「学校、行ってきます」
「徹夜明けで、ですか」
「瀧見エマは徹夜だけど、蔵森沙也加は寝てる設定~。月ィ、車~」
「かしこまりました」

心配そうな奈波を他所に、沙也加はスカートをひらりとなびかせながら外に出る。
ああ、今は夏だったっけ。夢中になっていると季節感覚も曜日感覚も忘れてしまう。
葉の運転する車の助手席に気だるげに乗ると、学校に着くまでの道中、沙也加は仮眠をとる。
隣で熟睡している沙也加は瀧見エマの顔ではなく、一人の女子高生だ。
あどけなく、危うい無垢な少女。
こんな幼い少女が一世を風靡している瀧見エマだなんて、誰が思うのだろうか。

「まだこんなに幼いのに、きっととんでもない重圧を抱えているのでしょうね」

点滅する黄色信号。
車を停めれば赤信号。青信号になるのを待つ間、ハンドルに指を滑らせながら沙也加に視線を向ける。

「……あなたはいつか、警察官のことを見直してくれるのでしょうか。
 せめて、私のことだけは、なんてワガママですね」

ハンドルをぎゅっと握る。
不甲斐ない警察官のせいで沙也加は傷ついた。そのことは沙也加の反応をみれば察するのは容易い。
その傷を癒せるのは、また同じ警察官であることも葉は知っている。

信号は青。車は再発進する。
僅かな振動にふっと薄く目を開けた沙也加は、「まま」と呟いた後、再び眠りについた。

学校に着くと、沙也加は普通の女の子として学校の門をくぐる。
教室の扉をがらりと開ければ、仲のいい友達がひらひらと手を振りながら沙也加の名前を呼ぶ。

「沙也加ー!おはよー!」
「おはよう、今日も元気だね」
「ちょっと沙也加昨日ちゃんと寝たー?クマやばいよー?」
「ずーっとスマホみてちょっとだけ夜更かし」
「やばー!やめたほうがいいってー!」

ここでは瀧見エマではなく、蔵森沙也加として存在できる。
それが沙也加にとって居心地がいいのだ。
しかし隣の席にいる男子生徒は著・瀧見エマの本を読んでいる。
どこにいっても瀧見エマはついてくる。
めんどくさそうにため息をつくと、友達は前のめりに顔を覗きこんでくる。

「ほーんとため息ばっか。いいこと逃げちゃうよ?」
「ごめんごめん。気を付けるよ」
「はい、にーって笑って―!」

頬を強引にむにっと持ち上げられる。無邪気な友達は沙也加にとって拠り所でもある。
わかった、と笑えば、友達はよかったと笑い返してくる。
それは沙也加のためを想っての笑顔であり、沙也加にとってそれはいつになっても新鮮なものだった。
チャイムが鳴り、教師が教室に入ってくる。
授業が始まると、沙也加はすぐにうたた寝を始める。
寝不足のまま授業を受けるというのは酷なもの。ついには机に突っ伏して本格的に眠りについた。

「……はあ。蔵森さんはまた居眠りですか」

困ったように眉を顰める教師もまた、繰り返される居眠りに対処を諦めた様子で。
そのまま眠り続けた沙也加は、とある夢をみた。それは、幼い頃に起きたつらい出来事。

ちらつく刃物、背の高い男、冷たい警官。
早く醒めてほしいと願いながら、沙也加は夢を見続けていた。


【8.少女は夢を見る】

「ただいま」

玄関で靴を脱ぎ、親へ挨拶をしなければと急ぎ足でリビングに向かう。
ばらばらっと書類が乱暴に散らばる音に目を丸くした沙也加は、その足を速めた。
だが、

「来るな、沙也加!」

低い父親の声にその足は止まる。
親の言うことは絶対だ。だが、嫌な予感がする、とその時沙也加は思った。
忍び足でリビングへ向かい、顔を覗かせると、背の高い男が一人ぽつんと佇んでいた。
見知らぬ男だった。そしてその男は、血のついた刃物を手にしている。

「……っ」
「あれ、君……先生のお子さんだったよね」

先生。それは父親のことだろう。
沙也加の父親も作家であった。過激的な内容を書く人であったから敵も多かったのかもしれない。
だが、だからといって襲われるまでの理由はあったのだろうか。
夢の中の沙也加はぐるぐると悩んでいた。

「そうだ、いいこと思いついた。
 先生を刺したのはこの娘さん。日々暴力を受けていた娘さんは父親を恨み、
 守ってくれもしなかった母親もを恨み刺し殺した。……どうだろうか?」

そう言いながら、男は沙也加に血の付いた刃物を無理やり握らせた。
確かに沙也加は父親から暴力を受けていた。事実それは今の沙也加にも引き継がれている。

「ああ、もしもし警察ですか?蔵森の編集担当なんですが、
 蔵森さん宅に来たら誰かに刺されていて……はい……はい……」
「……ちょ、ちょっと」
「はい、その……刃物を持った蔵森さんの娘さんは、います……」

そう言いながら、男はにたりと笑った。

到着した警官に事情を話しても、刃物に付着していた指紋は沙也加のものだけであったため容疑者として何度も取り調べを受けた。
何度事実を説明しても、警官は冷たかった。
残酷なほど冷酷で、疑ってかかり、言いたくもないことを聞き出そうとする。
聴取をされればされるほど、身が削れていく。
最終的に沙也加は無実の証明がされたが、冷たく疑ってかかる警官の記憶は、消えることがないだろう。

「お前がやったんだろ」「嘘をつくな」「未成年だからって許されると思うな」

「……っは」

がた、と机に膝をぶつけながら目を覚ます。
ここは、教室。目線の先には、教師。

「蔵森さん、居眠りはほどほどにしてくださいね」
「……夢」

沙也加は、夢でよかったと唇を噛みしめた。

両親が殺害されたあの事件は、沙也加にとって深い傷。
忘れようとしても忘れられない、フラッシュバックするほどのトラウマ。
けれど父親が、何故あの人に殺されたのか。その理由は未だわかっていない。
正確には、あの男が自白した内容に沙也加は違和感を感じているのだ。

「まるで私と奈波の関係だったのに、恨んでいたなんて」

そんなこと、あり得るんだろうか。
もしあり得るなら私はいつか、あの日のように奈波に――。

「先生」

不意に肩に添えられた手にびくりと体が跳ね、ばっと振り向く沙也加。
そこには葉の姿があった。

「道端でぼうっとされては危ないです」
「……そうだね」
「……。車へどうぞ」

やけに素直だな、と葉は思った。
先ほどの驚き方といい、なにかを考えていたのだろうと想像がつく。
しかし詮索は葉の仕事ではない。葉は沙也加を車に乗せて家へ向かった。


【9.等身大の少女を愛せ】

同時刻、奈波は沙也加の書き上げた原稿を会社に提出していた。
奈波の上司である武山 愛は、煙草を吸いながらその原稿をぱらぱらと読んでいる。

「エマちゃん、最近調子悪い?」
「いえ、いつも通り……情緒不安定です」
「ふっふふ、いつも通り、ねー。内容はいつも通り最高なんだけど、殴り書きにもほどがあるんだわ」
「Sが、問題かと」
「ああ、Sね。この文字の乱れ、初めて見る。……明日にでも顔を出そうかしらね」
「先生、喜ぶと思います」

愛はそりゃそうだろう、と原稿を読みながら呟く。
ぐしゃ、と煙草の火を消すと、その原稿をとんとん、と指先で軽く叩き奈波を見上げる。
それは"これでOK"の合図。
奈波は一礼すると、すぐに会社を後にした。
乱れた文字をなぞりながら、愛は苦い顔をする。

「……しっかし、相変わらずギリギリに提出してくるんだから」

困るんだよなあ、と頭を掻く愛だったが、そのことについて沙也加を責めたことは一度もない。
機嫌を損ねたらそれきり関係が崩れてしまうことを誰より一番わかっているからだ。

「誰に似たんだか」

机の引き出しをがらりと開ける。取り出したのは一枚の写真。
そこには、沙也加とその両親の笑顔が写っていた。

それから数日後。
りーん、と沙也加宅のベルが鳴る。
葉はいつものように長い廊下をコツコツと歩き階段を下り重い扉を開けと、
そこにはよっ、とにこやかに挨拶をしてくる愛がいた。

「どうぞ。先生がお待ちです」

長い廊下を進み沙也加のいる部屋を覗くと、彼女は原稿と睨めっこしながらぶつぶつ独り言を呟いていた。
どうやら自分の書いた内容に納得がいっていないようだ。
愛は呆れたように軽く笑うと、コツコツとヒールを鳴らし沙也加の傍で立ち止まる。

「エーマ」

夢中でなにも聞こえていないのだろう、反応はない。
それも愛はお見通しだった。
ぐしゃぐしゃと乱暴に沙也加の頭を撫でると、さすがに驚いた様子で顔をあげた。

「……!愛さん!なんで?」
「まーったく。今日行くからねって言ったでしょー?」
「あれ……そうだっけ」

忘れてた、と苦笑する沙也加は普段より言動が幼く見える。
それは相手が愛だからだということは、奈波も葉も周知している。
沙也加にとって愛は年の近い母のようなものなのだ。

「愛さん、この間の原稿最高だったでしょ?」
「ああ、とってもよかったよ。すごく頑張ったじゃない」
「ええ、もっと褒めてくれてもいいのに」
「褒めてるよ。なあに、ご褒美でもほしいのかしら?」
「愛さんに褒められることが一番のご褒美だから他には何もいらないよ」

褒められ足りない、といったところだろう。
困ったな、と顔を顰めている愛の横で、沙也加は散らばった原稿をまとめている奈波にちっと舌打ちをする。

「そんなもの放っておけばいいのに」
「困ります。没の原稿ではないのでしょう?」
「どうせまた散らばるんだから出来上がってからまとめればいい」

息詰まったら最初から書き直し。そんなこと日常茶飯事だ。
きっとまた最初から書き直すことになるのだろうと沙也加自身気付いている。
そしてまた奈波も同じく察している。それでも奈波は没になるであろう原稿をかき集めるのだ。
そんな奈波の行動が理解できない沙也加は、苛立ちを隠せないようだった。

「沙也加。沙也加にとって没になるかもしれない原稿も、私たちにとっては貴重な原稿なんだよ」
「……没は没。ただの紙切れでしかなくなるよ」
「沙也加にとっては、ね」
「……愛さんも、奈波と同じ立場だったら同じことする?」
「するさ。だからあんまり奈波をいじめないであげて」

ぐぐ、と口ごもった後、沙也加は渋々頷いた。
そしてその後、甘えるように愛にぎゅっと抱きついてか細い声で呟く。

「今日は一緒に夜ご飯食べていって」
「……仕方ないなあ」

coming soon

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?