見出し画像

死体から芽が出る

今日の話題は不謹慎だし読んで不快になると思われる。

そのことに注意して読んでいただきたい。

私は「死」を目にしたことが1回だけしかない。

幼少期から通っていた理髪店の主人が亡くなった時だ。
小学生にして初めて死体を目にした。

その時悲しい、とは思わなかった。
というよりも何を思っていいか分からなかった。

悲しくなるのが正解なのだろうかと思っていた。
だが周りはみんな悲しそうな表情をし、涙を流しているものもいる。
私もとりあえず涙を流した。なんとかして泣いた記憶がある。

死に触れると人は強くなる。

私はそう思っている。
よく子供の時にペットを飼った方がよい、と耳にする。
子供の時に動物への愛護心を育て、さらに思春期あたりの時に寿命で亡くなるのを見て、死を教えることができるからだ。

また大事な人が亡くなったりすると、その人のために頑張れたりする。
「あの人が天国から見ているから頑張る」的なやつだ。

つまりこう考えることができる。

一歩間違えれば宗教まがいな発想だが(もはやそうかもしれない)誰かが死ぬことで、周りの人に精神的な恩恵を施す可能性があるのだ。

人生を「自分」という主人公が経験値を貯めるゲームだとする。

すると死とは「自分」の経験値をゼロにする行為になる。
(MineCraftみたい)

しかし、ただゼロになるわけでは無い。周りの人との関係性に応じて経験値を配布してゼロになる。

ゲーム的に例えるとこういう感じだ。

現在、高齢化社会で若者への負担が増加していると聞くが、ここで高齢者に朗報である。

あなたたちが「死」に向かうことで、周りの人に「死の経験」という種を撒くことができるのだ。

高齢者は「自分」を犠牲にして減少。種を撒かれた若者たちは、何かしらの精神的成長を遂げ社会に貢献するだろう。

選択の一つとして入れてみるのはいかがだろうか。

ーーーーー

ここからは余談だが、
まずは酷く倫理性に欠けることを書いてしまい申し訳ないと書き留めておく。

この考えは、私の「死」に対する経験値が足りないが故の発想であることは自覚している。他者から見ると共感できないのは当然だ。冷静に客観視しても何言ってるんだと私は思う。

もともとは「死」に対してのプラス面を考えたことがきっかけだ。
マイナスでどんよりとしたイメージしかない概念に対して、光を見つけようとした結果なのだが、、、
やはり問題発言である。

あくまで一個人の一考えとして見過ごして頂きたい。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?