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修復建築家「ヴィオレ・ル・デュク」#2

前回の記事に続きヴィオレ・ル・デュクについて記述する。この記事は『ヴィオレ・ル・デュク―歴史再生のラショナリスト (SD選書)』に基づく。

1.エコール・デ・ボザールの入学を拒否

ヴィオレ・ル・デュクは伯父など周囲からエコール・デ・ボザールへ入学し、本格的な建築を学ぶように勧められたが、ボザール受験を拒否する。

1831年の彼による日記に次のように述べられている。

「エコール・デ・ボザールは建築家を型にはめ込む鋳型だ。彼らはみんな同じようになって、ボザールから出て行く。(中略) 入学して年月が経つと、みんなただの練粉になってしまい、自分自身というものを全く失ってしまう。」

「僕の運命は、岩の中に自分の道を掘り進んでゆくことだと考えている。(中略) 僕の一生は息をつく踊り場のない階段のようなものだ。」
決意を固くしたヴィオレ・ル・デュクは、翌年の旅に出発し、多数の歴史的建造物をスケッチした。

2.イタリアへの旅

ヴィオレ・ル・デュクは自らの建築観を明確にするため、すべての芸術家にとって憧れの地であったイタリアへ旅することにした。

最初の到着地ジェノヴァで、ジェノヴァ大聖堂を目の前にして、彼はその美しさに心を奪われた。イタリアの教会堂建築との出会いは、感激的であったが、彼が父親に送った手紙の中で、自国フランスのシャルトル大聖堂の優越性を確認していることがわかっている。

次の目的地はナポリ。ここでもいくつかスケッチをしながら、古代美術なども見たりした。父親宛の手紙の中で、古代美術に対する賞賛の気持ちを表明する一方、イタリアとフランスとで全く風土が異なるにもかかわらず、フランス人たちがイタリア様式を模倣するのは間違っているのではないかと問うている。風土と慣習の差異を無視して古典建築のオーダーを上っ面だけ模倣してきたエコール・デ・ボザールの教育への批判にも繋がっていく。

3.中世ゴシック建築への敬愛を深める

ナポリの次にシチリア島のパレルモに滞在する。デュクはこの町が気に入り15日間も滞在する。特にアグリジェントの神殿建築に関するスケッチは多く残しており、こちらの建物も賞賛している。また、ここでも自国フランスの中世ゴシック建築と比較して評価している。
「(前略)前者は荘重で力強く華麗であり、想像力をかき立て、中世ゴシック建築はキリスト教詩のように悲しく、神秘的かつ瞑想的だ。謙虚な気持ちを奮い立たせ、心を揺り動かす。」

イタリア旅行が終わりに近づくにつれて、ヴィオレ・ル・デュクの反古典主義態度が明確に表れ、フランスの中世ゴシック建築への敬愛が確立された。彼は確信をもってゴシック建築の復原をしていくこととなる。

4.メリメとの出会い

約一年半のイタリア旅行に終止符を打ち、パリに戻ったちょうどその頃。歴史的記念物総監のプロスペル・メリメが中世建築に理解ある修復建築家を探し求めていた。そして、メリメとヴィオレ・ル・デュクの運命的な出会いはヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂修復を機に生まれる。

ラ・マドレーヌ教会堂

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