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タイの朝ごはんと船上ランチ

 その日、僕たちは三人で来ていたタイのダイビングツアーの最終日だった。
 最終宿泊地はバンコック。泊まった宿は旅上手のIさんがインターネットで調べてきた安宿だ。
 予約していたにも関わらず部屋の準備はできておらず、しかも部屋割りはくじ引きというとんでもない宿だったが、市街地から近く、立地は悪くない。
 僕の引いた部屋の眼下には大きな市場が見える。
 この市場は一晩中活気があり、夜中まで中華鍋をお玉が叩く音と酔客の喧騒があたりに充満していた。
 部屋にエアコンはなく、天井で大きな扇風機が回っているだけ。
 仕方がないので窓を開け放って寝るのだが、スパイシーな食べ物のにおいと喧騒とでなかなか寝付くことができなかった。
 一晩中、中華料理を飽食する浅い夢を見ていた気がする。
 ところでダイビング直後に飛行機に乗るのは絶対の禁忌だ。気圧が下がると体内に溶け込んだ窒素が気体化して、最悪どこかで空気塞栓を起こしてしまう(これをエア・エンボリズムと言う)。
 なので、最終日の今日はダイビングはせずにのんびりと地上で過ごす予定になっていた。
 空腹に耐えかね、それに熱気にもヤラれ、昨日飲みすぎて二日酔いと頭痛でフラフラする朝の八時頃に朦朧とした頭を抱えたままホテルのロビーに降りる。
 ロビーにはいつも元気なHがちょうど朝のランニングを終わらせて帰ってきたところだった。
 彼は毎日必ず十キロほどランニングする。出張中でも旅行中でも、あるいは一人でも集団で行動していてもこれは変わらない。たとえ雪が降ろうが台風だろうが必ずランニングをするという。
 そうしないとあっというまに太ってしまうのだそうだ。
 確かに、最初に会った時のHは丸かった。
 だが今はアスリートを絵に描いたような体型だ。分厚い胸と広い肩、逆三角形の背中に逞しい脚。
 もやしのような僕とは正反対だ。
 こいつ、昨晩の飲みで少なくとも僕の倍は飲んでいた。
 それなのに、なんでこいつはこんなに元気なんだ?
「おはよーございまっす」
 汗でドロドロになっているHがまだ足踏みをしながら片手を上げる。
「H、朝飯はどう? もう食べた?」
「いや、まだですよ。じゃあ、行きますか。ちょっとシャワー浴びて着替えてきます」

+ + +

 東南アジアの人たちの朝食は基本へヴィーだ。
 例えばシンガポール。シンガポールでポピュラーな朝ご飯はバクテー(肉骨茶と書く。でもお茶は入っていない)という香辛料がよく効いた豚のアバラ肉のスープだし、台湾の朝食は塩味の豆乳スープや中華粥に油条(ユージャオ、中華風のお麩みたいなものだ)を浸しながら、点心風のおかずを山ほど食べる。ヴェトナムの朝ご飯といえばなんといってもフォーだし、香港の朝ご飯は朝飲茶と呼ばれる飲茶で点心をつまむ。
 基本、アジアの朝ご飯は外食だ。
 これは、ひょっとすると日本の駅そばと似た感覚なのかも知れない。
 そして、タイの屋台料理と言えばなんと言ってもカオマンガイ(タイ風チキンライス)だ。鶏の代わりに豚足を使ったカオカームーというメニューもあり、さらにはこれらのミックスもある。
 これらは、多少乱暴にまとめると鶏出汁で炊いたジャスミンライスに何かが乗っていて、そこにタレがかかっているというかなりシンプルな食べ物だ。しかし、これが旨い。
 朝から食べるには少々重いのだが、出勤前に食べる人も少なくないらしく、店は九時前から開いていた。
 店は屋台と店舗のミックスのようなオープンテラス風の店だ。
 入り口にキッチンがあり、小柄な老人が無心に豚足の鍋を混ぜている。奥の方は生活空間になっているようで、小上がりに腰かけた子供が足をぶらぶらさせながら何やら謎の物体を食べている。
 椅子はベンチ、コカ・コーラのロゴが書いてある。テーブルには一応白いビニールのテーブルクロスがかけられていたが、テーブルの足は工事現場の足場だった。
「ここ、地球の歩き方に書いてあったんだよ。おいしいらしい」
「ほお」
 Hが周囲を見回す。
「いかにもタイって雰囲気ですねえ」
 席に着いてしばらく待たされたのち、控えめな雰囲気の中年の女性がオーダーを取りに来る。
 タイ語で話しているので何を言っているのかさっぱりだったが、そういう外国人を気遣ってか、メニューには写真が添えられていた。
「とりあえず、僕はカオカームーにする。Hはどうする?」
「じゃあ、俺も豚足で」
「これ、カオカームー二つ」
 女性に写真を示し、指を二本立てて見せる。
 何事か呟きながら女性が手にした伝票にメモを取る。
「飲み物はどうするのかって聞いているみたいですね」
 オーダーしても帰らない女性を見て、Hが言った。
 彼は英語が苦手だ。タイで英語もクソもないと思うのだが、コミュニケーションは僕に任せることにしたらしい。
「水、二つ。In a bottle. Please do not open the cap」
 ミネラルウォーターの瓶に入っていても、栓が開いている場合は油断ができない。最悪空き瓶に水道水を詰めたものが供される。
「水は、怖いっすね。ちょっと行ってきます」
 女性が去ったのち、Hが立ち上がった。
「行くって、どこへよ」
「近所にコンビニ風の店があったんですよ……行ってきます」
 小走りに店を飛び出していったHはすぐに緑色のビンを二つ持って帰ってきた。
「やっぱ、これですよね、二日酔いの朝は」
 それは、緑色のラベルに象の絵が描かれたビールだった。
 頭痛を抱えたこの状況でビールかよ……
 だが、乾いた喉にビールは確かにうまかった。Hがもう一度買出しに行くくらいに。
 朝食もうまかった。あっというまに皿は空になり、さらにおつまみの揚げた豚をオーダーした。
「今日の午後はどうします?」
 早くも三本目のビールを開けながら、Hが俺に尋ねる。
「Iさん次第かなあ。どうしてるんだ、彼女は?」
「一度ノックしたんですけどね、唸り声しか聞こえませんでした。死んでいるんだと思います」
 確かに、Iさんもえらく飲んでいた。
 Iさんは一度エンジンがかかると限界を超えて飲んでしまう悪い癖がある。しかも絡み癖もある。
 途中、何度も帰ろうと言ったのだが、彼女は頑として俺たちの助言を受け入れなかった。結局、飲み足りないと猛り狂うIさんを二人で引きずるようにして宿に帰ってきたのが昨日の晩の一時過ぎ。あれだけテキーラを飲んでいれば、そりゃあ今朝は地獄だろう。
「この後、トローリングにでも行こうか。のんびり船にでも乗っていれば二日酔いも覚めるだろう」
「でも彼女、船酔いひどいじゃないですか」
「知らんがな。今そんな状態なんだったら、昼過ぎたって船酔いで気持ち悪いんだか、二日酔いで気持ち悪いんだか判らないだろ? シミラン諸島であれだけ揺られて大丈夫だったんだからたぶん平気だよ。それに、でかい魚釣ってみたいとは思わん?」
「釣れればですけどね、まあ、楽しいかも知れないですけど」
 Hは気乗りしない様子だ。
「じゃあ、Hはどうしたいの?」
「ふうむ」
 ビールのボトルの先端をつまんで振りながらHが考え込む。
「確かに他にしたいこともないですね。じゃあ、行きますか、釣れない釣り」

プーケット

 釣れない釣りとはよく言ったものだ。
 朝食の帰りに少し足を延ばして寄ったツアー会社にお願いしてチャーターした船は木造で、どうやら漁師家族がたまに出艇しているツアーのようだった。
 木造船にはレーダーも、魚群探知機も装備されておらず、つまり釣果はかなり運任せだ。
 そのうえ、30過ぎと思われる船長は明らかにやる気がなかった。
 その息子と思われる小学生高学年くらいの子供が手伝いに乗船していたが、子供の方がずっとやる気がある。身振り手振りで俺たちに飲み物を振る舞い、釣りの仕方について説明してくれる。
 何を言っているのかはさっぱり判らなかったが、実演付きなのでとりあえず理解はできた。
 要するにビニールでできたイカのような針のついた竿を舷側から突き出し、それを吹き流しのように流して魚を誘えという事らしい。
 デッキには一応ベルトのついたファイティング・チェアも設えてある。
 まるきり釣れないって訳でもなさそうだ。
 ところが、透明な海に魚影はまったく見えなかった。
 今どきの日本の釣船は無線と魚探、レーダーを装備して、周囲の船と連絡を取り合いながら魚影を探す。だが、この船にそうした近代的な漁法はまったく期待できなかった。
 魚がいれば喰いつくこともあるだろうが、いないのでは釣れる訳がない。カメかイルカでもいればまだ気分も盛り上がるだろうが、それすらいない。
 ただ単に青い海の上を遊覧船に乗って漂っているのと大して変わらなかった。
「……魚、いないっすね」
 Hは早くも諦めると、Tシャツを脱いで上半身裸になった。
 糸を出しっぱなしの竿をホルダーに差し、ビール片手にアッパーデッキ(というか、キャビンの屋上)へと向かう。
「どこ行くの?」
「上で日焼けしてきます」
 Iさんはキャビンの中で唸りながら横になっている。まだテキーラが抜けないようだ。
 結局、2時間近くトローリングしていたが、魚はついに現れなかった。
 さすがにまずいと思ったのか、船長が子供に何か指示を出している。
 子供はすぐにこちらに走って来ると、身振りで竿をしまえと僕に言った。
 船は進路を変えると、近くの島に向かって走り出した。
「あれ? もうおしまいっすか?」
 上からHが顔を出す。
「判らん。なんか竿しまえって。釣れないのかって聞いたらこんなことしてた」
 さっき子供がしていた肩を竦めるしぐさを真似して見せる。
 言葉が通じないから肩を竦めたのか、あるいは魚はいないということで肩を竦めたのかはまったくもって不明だ。
「ふーん。まあ、なんちゃってツアーですしね」
 しばらく走ったのち、船はきれいな島のそばで停船した。
 またぱたぱたと子供が働き、キャビンの床にある倉庫から違う竿を出している。
 どうやらロックフィッシュ(根魚)を狙うらしい。太くて短い竿には見覚えがある。
 子供は手際よく針に魚のきれっぱしをつけると、竿を俺に渡した。
 これを底まで落として、少しシャクれということらしい。
「……アタマ痛……」
 船が停まったことに気づき、Iさんもよろよろとキャビンから起きだしてきた。
 見れば、隣では子供も竿を一心に振っている。
 ひょっとして、昼飯調達か? 食料、積んでない?
 これはいけない。
「H、昼飯はこれにかかってるようだぞ。降りてきて手伝え」
 三人で両舷に陣取り、やる気なく竿をしゃくる。
 だが、すぐにアタリが来ると三人とも俄然やる気になった。
「さすがタイ、よく釣れますねえ」
 竿を入れるたびに赤いメバルのような魚がひっかかる。
「わあ、へんなの釣れた」
 背後でIさんが悲鳴を上げた。
 彼女が釣り上げたのは銀色のひし形の魚だった。三十センチくらいはあるだろう。たぶん、アジの一種だ。中華料理屋でこれを蒸した料理を見たことがある。
 船長もやってくると、その魚を恭しくIさんの針から取り外した。
 どうやら高級魚らしい。その魚は別のコンテナに厳重に仕舞われてしまった。
「あれは楽しみですね。おととい行った中華料理屋にありましたよ」
「だな、あれがメインだね」
「へへ、お手柄?」
 ひとしきり赤い魚を釣ると、船は再び外洋に向けて走り出した。
 今度はツアーのスケジュールに入っているランチとシュノーケリングのスポットに向かうようだ。
 船尾では例の子供が手際よく魚をさばいている。
 スクリューの真上、海上に張り出した手すりも何もないデッキの上にアヒルのように座って中腰で魚をさばいている姿は健気を通り越して涙ぐましい。
 結構揺れるのだが、平気なようだ。
「ああやって、ムエタイの足腰が鍛えられるんですかね」
 感心したようにHが子供の背中を眺めている。
 ランチは停船した船内で船長が調理した魚の揚げ物、フライドチキンとチャーハンだった。五人で食べるには多すぎる量だ。
 一緒に食べようと彼らを手招きしたが、彼らは別の場所で食べている。どうやら、お客さんとは同席しないルールのようだ。
 チャーハンはとてもうまかった。魚はタイ風のニョクマムの香るタレがかかっていてこれもうまい。フライドチキンは、まあ、普通だった。
 それにしても中華料理屋にありそうな大火力のガスレンジとプロパンガスを積んでいるところ、さすが東南アジアの船だ。
「例の魚、ないですね?」
 Hがテーブルの上を見回す。
「後から出てくるのかな?」
 しかし、その後もその魚が出てくる様子はなく、昼食はお開きになった。
 残飯を子供が下げ、何をするのかと見ていたらそのままざばっと洋上投棄している。
 魚もわかっているのだろう。すぐに四方八方からカラフルな魚が集まってきた。
 なるほど、魚の寄せ餌だ。
 洋上投棄もできて一挙両得ということらしい。
 この入り江は国立公園の一部であるため、スキューバダイビングが禁止されている。洋上投棄はOKというところが不思議だったが、おかげで水質はとてつもなく良かった。
 はっきりいって、透明度に関していえばシミラン諸島よりもはるかに高い。三十メートルは確実に超えているだろうという、まるで真水のような透明度だ。
 子供がさかんに海に飛び込むしぐさをする。
「ここでシュノーケリングして遊べと、そういう事ですかね」
 僕らが水に入ると、その子供もデッキの上から元気よく海に飛び込んだ。
 片付けが終わったので少しは遊んでよいという事になったのだろう。
 例の銀色の魚のことはすぐに忘れ、僕たちはしばらく透明な海でのシュノーケリングを楽しんだ。
 天候は快晴、少し雲が出ているが、気になるほどではない。
 海は真っ青で、その中を赤や黄色、青い魚が群れを成して泳いでいる。
「いいところっすね」
 空を見上げながら浮かぶHが言う。
「そうだね。こういうところならもっと潜りたい。シミランはもう、いいや」
「流れ、速かったですもんね。でも、もう少しがんばってもらわないと。待ちくたびれました」
「スキューバつけてる時に息上がったら死んじゃうよ」
 ひどい二日酔いだったIさんも楽しそうに潜っている。彼女はお肌の曲がり角を曲がってしまったのか、長袖のラッシュガードにひざ丈のサーフパンツという、かなりおばさんっぽい恰好をして泳いでいた。帽子をかぶっていないだけまだマシだが、それだったらいっそのことウェットスーツを着た方がいいような気もする。
 ひとしきり泳ぐと、船長が汽笛を鳴らした。
 どうやら、引き上げ時間らしい。
 僕らが上にあがると、船は百八十度回頭し、一路もと来た港に向かってひた走り始めた。
「結局、あの魚、出てこなかったですね」
「お土産、ってことはないだろうなあ」
 三人でビールを飲みながらぼそぼそと話す。
「なんか、ひどくない?」
 Iさんはえらくご立腹だ。
「まあ、仕方がないよ。あの魚は彼らの生活費の足しになったんだろう」
 その晩、シーフード系のタイ料理屋に食事に出たのは言うまでもない。

+ + +

 ところでカオマンガイはおうちでも比較的簡単に作ることができる。作り方は次の通りだ。

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