アメリカ人と日本のイザカヤ
以前、イタリアの血が薄すぎるイタリア系アメリカ人のクリスのことはみなさんにも紹介したと思う。
今回は立場を逆にして、そのクリスが日本に長期出張した際の顛末をお話ししたい。
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当時、僕たちはA5サイズの小さなタブレットを開発していた。
売りはインターネット機能で、モデム内蔵というところがミソだった(当時は無線LANなんて洒落たものはなかったので、みんな有線でインターネットに接続していた)。
ところがこのモデムが動かない。ハードウェアは問題ないのだが、ドライバーソフトを書いていた某君が少々ポンコツだったのか、いつまで経ってもモデムが応答しないのだ。
そこで白羽の矢が立ったのがブラウザをアメリカで開発していたクリスだった。
ブラウザを書けるんだったらモデムぐらいちょちょいで動かせるだろうという些か乱暴なロジックで僕たちの上司が招聘を承認したのだ。
初めての日本滞在ということで、クリスは大興奮してアメリカからやってきた。
ただ、その際の条件が、「コーヒーは無料で無制限で飲めること」だったのは面食らった。確かにアメリカではそうかもしれないが、バリバリの日系企業の僕らの会社がそんな条件を簡単に飲むわけがない。
仕方がないので、僕が直々に総務の怖いお姉さんを説得して、なんとかコーヒーメーカーの借り出しに成功したのがクリスの来日三日前。
このコーヒーメーカーをタコ部屋に設置し、粉はうちから持参した。
コーヒーメーカーはあれほど渋るにも関わらず、紙コップはただでいくら使っても構わないというところがまた謎だったが、ともあれもらってきた紙コップ一箱はコーヒーメーカーの横に設置した。
夕方の便で来日したクリスは早速翌日からよく働いた。
宿は会社の研修用社員寮を借りたので通勤に支障はない(部屋はアメリカの刑務所よりも狭いと言って笑っていたが)。毎日教えた通り、川崎から多摩地方まで一人で電車に乗ってやってくると、朝からバリバリとアセンブラのコードを吐き出していく。
デバッガへのコードのロードの仕方もすぐに覚えて、こちらが何かを教える必要は特になかった。
一心不乱にコードを書き、たまにデバッガにロードしてモデムの応答をチェックする。
クリスが書いているモデムドライバーソフトはポンコツ君の書いたコードをベースにしたのだが、そのポンコツなベースはすぐにクリスの洗練されたコードによって塗りつぶされてしまった。
さすが、アメリカでも優秀だと言われていただけのことはある。
そして、クリスはひたすらにコーヒーを消費した。
一日におそらく一リットルくらいはコーヒーを飲んでいたと思う。
カフェインを燃料にしないといいコードは書けないらしい。
「日本のコーヒーは美味しいね。アメリカの事務所のコーヒーは泥水みたいだったよ」
クリスは白い紙コップからコーヒーを飲みながら笑って言った。
おかしいな。この粉は確かアメリカから輸入された、MJBかどこかの粉だったはずなんだけどな。
まあ、いいか。満足しているみたいだし。
「気に入ってくれて嬉しいよ。さあ、とっととモデムを動かそう」
クリスをけしかけ、再び向かいに座る。
社外の人が働く場合には誰かがエスコートしなければならない。
そして、英語を喋れるのは僕のチーム(いや、ひょっとしたら部署全体かも)では僕しかいなかったのだ。
「サー、イエッサー!」
クリスはおどけていうとアメリカから持ってきた画板のように馬鹿でかいラップトップコンピューターのキーを叩き始めた。
「モデムが動いたら、飲みに行こう。日本のイザカヤ、興味あるだろう?」
クリスは手を止めると、ラップトップの馬鹿でかい画面の向こうから顔をのぞかせた。
「いいね! その時、従姉妹も呼んでいいかい? 彼女、日本に留学してるんだよ」
「ああ、もちろん」
僕のチームのメンバーのコミュニケーション力に期待できない以上、英語が喋れる人は多いほうがいい。他の連中が日本語でダベっているところでクリスと英語でサシ飲みするのは願い下げだ。
「彼女には僕から連絡しておくよ。多分、明日には動くと思うし」
「じゃあ、パーティは明後日かな。明日動いたら、そのあと試験しないとね」
「わかった」
予告通り、クリスは翌日の昼過ぎにはモデムを起動することに成功した。
「ほら、返事してる。このモデム、喋ろうとしているよ」
クリスはデバッガの出力画面を見せてくれた。
確かにこちらから送っているATコマンドに何か応答している。
まだヘッダのビット長があっていないのか文字化けしていたが、今まで無応答だったのに比べると格段の進歩だ。
「ここまでくればもう少しだよ。すぐにヘッダのサイズを調整してみる」
クリスは二時間もしないうちに、モデムとATコマンドで対話することに成功していた。
ちゃんとデバッガに『OK』というモデムからの返事が表示されている。
「このモデム、かわいいな」
クリスが目を細める。
確かに、モデムはかわいい。話しかけると返事をする機械はそうは多くない。
「そうだね。内蔵モデムだから小さいんだ」
「すぐにお外に連れて行ってあげる。ちょっと待っててね」
クリスはお世辞にもかわいいとは言い難い剥き出しのハードに話しかけると、電話線をモデムにつないで今度はインターネットへの接続に挑戦し始めた。
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無事にインターネットに接続し、ターミナルで一通りの試験を終わらせたその日の夜、僕たちは会社のそばの居酒屋に繰り出した。
会社のある駅には本当に何もなかったので、電車に乗って繁華街に移動する。
クリスの従姉妹との待ち合わせ場所は店で直接合流にした。
日本に留学しているんだったら、それくらい問題ないだろう。
エリザベス(確か、そんな名前だった)というクリスの従姉妹はいかにもアメリカの女性といった感じの元気な女性だった。
ひとしきりクリスとハグしたり何だりしてからクリスの隣に座る。
店はちゃんと座敷の店を選んだ。
椅子席では面白くない。
僕のチームには他に四人いたのだが、彼らは何となくクリスたちから距離を置いているようだった。
明らかに怯えた感じだ。
だが、ビールは国境を破壊する。
アルコールが回るにつれ、いつの間にかに僕たちは打ち解けてブロークンながら英語でも話をするようになっていた。
日本語混じりの無茶苦茶な英語だったが、クリスたちも楽しそうだ。
不意に、ビールと日本酒のチャンポンで顔を赤くしたポンコツ君がクリスに納豆を食べたことはあるかと訊ねた。
「ナットウ?」
クリスは馴染みのない言葉に首をかしげる。
すかさずエリザベスは、
「クリス、ナットウは発酵した大豆のことよ」
と元気よく答えた。
彼女はさっきからオレンジサワーやら何やら女子力の高いものを頼んでいる。
さすがに日本に来て長い(もう一年以上になるらしい)だけあって、日本語も少しは解するし、日本の食べ物にも詳しい。
「じゃあ、食べてもらおうよ。納豆、あるかな」
ポンコツ君がメニューを眺め始める。
メニューにはマグロ納豆やイカ納豆はあったが、納豆単体はどうやらないようだった。
「イカ納豆でいいかな? すみませーん」
「馬鹿、待て」
店員さんを呼ぼうとするポンコツ君を僕はすかさず制した。
「イカ納豆なんてハードルダブルじゃないか。アメリカ人は生のイカは食わんぞ」
「そうなんすか」
ポンコツ君が少しムッとした顔をする。
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