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勝沼 苦悩の輪廻、そして革命へ(2)

こんにちは、たつお・シンフォニーです。
さて、前回お伝えしました親子の言い争いですが、1986年から終焉に向かっていきます。
(山梨や長野で聞いた話、本で得た情報を勝手に物語にしています。)

① 勝沼 苦悩の輪廻
② 革命
③ 枯れ果てた心に宿った情熱の炎
本日は②をお伝えします。

② 革命
ダイアナ妃来日フィーバー、昭和天皇御在位60年。お祝いムードに沸く日本列島、日本ワイン産業も沸く。

1986年、メルシャンから桔梗ヶ原メルロ1985がリリースされる。そして、この秀逸至極なワインが日本ワイン産業に激震を走らせた。「日本で美味いワインなど造れるはずがない」、大政奉還から明治政府の発足。政府は岩倉具視らをボルドーに派遣。数年の時を経て帰国した一団が山陰地方に100万haに及ぶブドウ畑を開墾。しかし出来は散々なものだった。ブドウの樹は引き抜かれ他の畑として利用された。ワインは山梨の地酒程度の扱いしか受けなかった。その歴史を覆したのが麻井 宇介氏(本名 浅井 昭伍氏)。以前はウィスキーの醸造をしていたそうですがメルシャンに入社後ワインの醸造に携わりました。そして良いブドウを育てられれば良いワインは出来る。ワインは畑で造るものだ。ボルドー、ブルゴーニュだけが銘醸地ではなく、良いブドウを作れるところが銘醸地になる。銘醸地は移動するものだ。という確信に辿り着き、長野県塩尻市桔梗ヶ原に畑を開墾。

ここにメルロを植えて育てる。そのブドウから造られたワインを飲んだワイナリーの社長や醸造家は驚いた。

「まさか日本でこんなに美味しいワインが造れるなんて」(ブログの最後に書きますが今までいいブドウが造れなかったのには理由があります。)

数十年前の父親や祖父との衝突。噛み砕き、押し殺し続けた思い。枯れ果てた心の中に灯ったマッチ棒一本程度の火。でも、もう誰も消す事は出来ない。かつて造りたかった本物のワイン、出来るという事が証明された。一人一人の心の中の炎は次第に大きく燃え盛り、やがて勝沼の大地をこの情熱が飲み込んでいった。

ワイナリーの経営、歳もとった。経営者として、そして父としてやるべき事はやる、だから俺の夢も一緒に背負って行ってくれ!父親が使う言葉がこの頃から変わっていったのだろう、家に入った息子は大空に羽ばたいた。

続く

桔梗ヶ原メルロ。麻井 宇介氏が育てていた当時は棚で育てられていました。その後、棚では日の当たり方が均等ではないという事で垣根式に変更されました。でも、時が流れても桔梗ヶ原メルロには麻井ズムが宿っています。とメルシャンの方は豪語していました。世界中のメルロに類を見ない、柔らかく優しく芳醇で優美な味わいのメルロ。決して重過ぎない、信州味噌を上手く使ったソースの肉料理と抜群の相性だと思います。

※麻井 宇介氏の著書「ウスケボーイズ」は映画にもなっています。
(書籍 ウスケボーイズに登場する方達はプライベートを侵害された感があり、この書籍を良く思ていません。書籍名をうかつに出すと雰囲気が悪くなる可能性があります。日本ワイン醸造界の神・麻井 宇介氏を讃える言葉は喜びます。何と言っても氏は神であり生涯の恩師ですから。)

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https://item.rakuten.co.jp/bacchus-m/kikyogahara_14/

あとがき
日本で西洋品種がなぜ上手く行かなかったのか。西岸海洋性気候のボルドーでは海抜200~300mの標高にカベルネ・ソーヴィニオン、カベルネ・フラン、メルロなどが植えられています。気候の違いを考慮せず、言われたとおりの標高に植えてしまえば暑くて上手く栽培できない。日本においてメルロは海抜700~800mが最適で桔梗ヶ原は700m以上、河岸段丘の反対側でサントリーが開墾した岩垂原は800m。八ヶ岳南麓ミエ・イケノや小牧ヴィンヤードも約700~800m。ヨーロッパでは育たない標高に植えないと日本ではちゃんと育たないという事です。


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