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オリジナル短編小説『渋谷と魔法とコーヒーと』×オリジナル曲『コーヒー&パンプキンケーキ』

10月31日公開、Studio Sonohigurahi最新作!

小説『渋谷と魔法とコーヒーと』(著:Tatsumi)
主題歌『コーヒー&パンプキンケーキ』(作詞作曲:七茶)
劇中歌『Re:cross』(作詞作曲:Tatsumi)
10月31日、渋谷がハロウィンの魔法にかかる…!🎃
今年はステイホームなハロウィンですが、是非おうちでハロウィンの魔法を体感してください!


主題歌『コーヒー&パンプキンケーキ』


劇中歌『Re:cross』


小説『渋谷と魔法とコーヒーと』本編

 10月31日夜、シブヤ。かの有名なスクランブル交差点や、遠い昔はギャルの聖地とも言われたセンター街はハロウィン一色となり、歩くこともままならないほどの人で賑わっていた。ゾンビ、魔法使いなどハロウィンらしい格好をした人、何らかのアニメやゲームのキャラのコスプレをした人、何故だかよく分からないけれど茄子の格好をした人、とりあえず片っ端からナンパを試みる人、みな思い思いにもはや原型を留めていない日本ならではのお祭りを楽しんでいた。バイト帰り、ごった返す人々を眺めながら、もしここに本物の幽霊の一人や二人紛れ込んでいたって誰も気づかないだろうな、なんてことを考えていた。
 その矢先のことだった。

「美月⁈」
 思わず裕一は、声に出してその名前を呼んでいた。距離にして数十メートル。ただの似ている人という可能性も十分にあり得たが、それでもなぜか裕一はそれが美月だと確信した。美月だ、間違いない。何でこんなところに。彼女は裕一の呼びかけにふとこちらを見て、気のせいだったかというふうにまた別の方を向いてしまった。もともとこのようなイベントが好きなタイプでもなかった美月は、ひとり人々の波に揉まれ不安そうな顔で辺りを見回していた。わざわざこんな日のシブヤに繰り出すなんて何を考えているのだろう。彼女はどんどんと人の流れに押し流され、センター街へと吸い込まれていく。
 シブヤ駅へと向かっていた裕一は180度方向転換してすいません、すいませんとハイになっている怪物たちの間をかき分けながら美月の方へ向かう。くそ、なかなか前に進めない。裕一は美月に電話をかけるが彼女は一向に気付かない。美月、とゾンビたちの歓声にかき消されつつも名前を呼びながら、少しずつ少しずつ彼女の方へ進む。そして、手を伸ばせば届きそうな距離まで来て、裕一は改めてその女性が美月であることを確信した。彼女がつけているイヤリングは、裕一がプレゼントしたものだった。
「美月、」
裕一は彼女の手を掴む。美月は、少し驚いたように後ろを振り返り、そして裕一を見てパッと顔を明るくした。
「ゆうくん!」
「やっぱり、なんでこんなとこにいるんだよ」
怪物たちのざわめきに負けじと裕一は大きな声を出す。
「この辺りにいれば、もしかしたらバイト帰りのゆうくんに会えるかなって思って。」
「だからって何もわざわざこんな日のこんな場所にいなくったって。美月のこと見つけたのだって奇跡みたいなもんだぞ」
人々の波に押し流されていく不安そうな美月を見た時の心配が、ほんの少し強い言葉になって口からこぼれ落ちてしまう。
「ごめん……、怒ってる?」
伺うように裕一の顔を覗き込む美月。
「いや、こっちこそごめん。心配だったから、つい強い口調になっちゃった。会いに来てくれたのは、嬉しい」
ありがと、と美月は少し嬉しそうにして、
「とりあえず、ここから出ないと」
と裕一の手を握って辺りを見回す。裕一は久しぶりに感じた美月の掌の体温に、懐かしいような、鼓動が大きくなるような、そんな不思議な感覚を味わっていた。
「反対側の流れに乗ろう」
と二人はスクランブル交差点の方へと向かうべく道の逆側の流れに入ることにする。
「手、絶対離さないで」
そう言って裕一は、美月の左手を握った右手に、さっきより強く、力を込めた。

「でもさ、なんで急にこんなところに?」
センター街の外への流れに乗ることに無事成功し、裕一は美月の方を振り返る。
「だって今日ハロウィンだから」
「美月、こういうイベントとかどっちかっていうと苦手じゃなかった?」
「うん、まあ。できればもっと静かなところがよかったけど、ここしかダメみたいで」
「そうなんだ、いろいろあるんだな」
「そうなの。でもゆうくんに会えるかもって思ったら行くしかないと思って」
「そっか。なら俺が会いにいけばよかった」
裕一がそう言うと、
「ダメだよ、ゆうくんが会いに来ちゃ。絶対ダメだから」
と美月はそれまでとは打って変わって裕一を嗜めるように強く否定する。
「ごめん」
裕一はまた謝る。そしてしばらくの間、なんとなく気まずい沈黙が降りる。
「そこの建物、入ろう」
二人は仮装した人々があまり入っていなさそうなビルを見つけ、その中のカフェに入ることにした。

「は〜〜〜、疲れたね」
美月は一仕事終えたかのようにどさっとソファ席に腰を下ろす。
「あれ、このカフェ前にも来たことある気がする」
落ち着いたオレンジ色の照明。少しレトロだけど時代遅れという感じでもない内装。落ち着きがありボリュームも控えめな店内音楽。そして「Rêve」という店名。そう言われてみれば、たしかに美月と二人でこの店に入ったような記憶がある。
「う〜ん、なんとなく見覚えあるような……」
「ああ、思い出した〜」
美月はそう言って急にニヤニヤして裕一の方を見る。
「え、なんだよ急に」
「覚えてないふり?それとも恥ずかしい記憶は消し去るタイプ?」
美月は依然ニヤニヤしながら裕一の方をじっと見つめる。裕一は自分の頭の中を必死に探りなんとかこの美月の不気味なまでの満面の笑みの理由を見つけ出そうとする。
「待って、全然わかんない」
「ふ〜ん、そっかぁ。じゃ、今日中に頑張って思い出して」
美月は結局その場で答えを教えてはくれず、謎の優越感に浸りながらすいませ〜んと店員さんを呼ぶ。
「ホットのブレンドコーヒー二つと、パンプキンケーキ二つで」
「え、あ、俺まだメニュー見てすらないんだけ……」
「以上で」
店員さんは思わずにやけてしまうのを抑えながら、一応気を遣って裕一の方を見る。
「あ、はい、それで、大丈夫です」
別に注文内容に不満はないけれど、戸惑いを隠せない裕一。そんな裕一を気にもしない美月。
「いや〜、ここに来たらコーヒーしかないよね〜」
美月は相変わらず謎めいた笑みを浮かべながら裕一の方を見る。
「そうだっけ、このお店コーヒーがめちゃくちゃ美味しかったとかだっけ」
「たしか二回目のデートとかだったんじゃないかな〜、ここ来たの」
美月は裕一の言葉をスルーし、ここのカフェの記憶に関するヒントをちらつかせる。二回目のデート、裕一はこのワードで再び自らの記憶に検索をかける。
「あ、」
「あ、思い出した?」
美月がより一層楽しそうに裕一の方を見る。
「コーヒー、思いっきりひっくり返したの、ここだったのか」
あったり〜と美月はあまりにも軽やかに、あまりにも恥ずかしい記憶を引っ張り出す。
 あれは、たしか3年以上前のこと。


 美月とは大学に入って振り分けられるクラスが一緒だったことがきっかけで知り合った。そして彼女の雰囲気に一目惚れした裕一から美月にアプローチをかけ、初めてのデートでなかなかの好感触を得た裕一は、着実に二回目のデートの約束を取り付けた。二回目のデートでは美月が観に行きたいと言っていた映画を観て、その後にこのカフェへとやって来た。映画の内容は、美月も期待通りだったと嬉しそうにしていたし、普段そこまで映画を観ない裕一でも十分に楽しめた。そのため裕一は、この後の話のネタにも困らなさそうだとひと安心していた。
 そして、そんなふうに油断していた裕一を悲劇が見舞った。話に夢中になっていた裕一は、手元に目をやらないままカップを手に取ろうとした結果、まだ中身が半分以上残っているコーヒーカップを盛大にひっくり返したのだ。そして、ひっくり返しただけならまだしも、運悪く美月の白いスカートの裾と左の靴をコーヒーの色へ染めあげてしまったのだった。
 幸いコーヒーはもう冷めていたので火傷などには至らなかったが、さっきまでの浮かれた気分は一転、裕一は顔面蒼白になりスカートの裾にかかったコーヒーを落とそうと必死だった。しかし、裕一の努力の甲斐虚しくコーヒーの染みが落ちることはなかった。美月はというと、コーヒーがかかったことなどよりも、裕一の慌てぶりについていけずどうしたらいいのか困惑してしまった。そして何も言わず困った顔をしている美月を観た裕一は彼女がとてつもなく怒っていると勘違いし、今にもカフェの床に土下座をせんばかりの勢いで謝り倒し、お詫びにクリーニング代はもちろんのこと新しいスカートと靴を、と言い出した。全くそんなつもりがなかった美月はそれを辞退しようとするも裕一の方も一歩も引かず、収集がつかなくなってきたので美月がクリーニング代だけ受け取ることにして場を収めた。そしてその何となく気まずい空気のまま、二回目のデートは終了したのだった。
 帰りの電車の中で裕一は真っ暗だった。あまりの大失態。コーヒーをひっくり返しただけでも恥ずかしくて顔から火が出そうなのに、挙句美月のスカートと靴をダメにしてしまうなどもってのほかだ。さらに最悪なのは、明日も授業で会うということ。そもそもあんなに怒っていた彼女にどんな顔をして会えばいいのかもわからないし、クラスの半分くらいは裕一と美月がいい感じになりかけていたことを知っているので、不自然な空気に気づかれて色々と噂されるにちがいない。大学生活のど頭で、盛大にやらかしたことは間違いない。そんな絶望感とともに、裕一は電車に揺られるのだった。
 次の日、裕一は結局授業に行けなかった。さすがに授業には出なくては、と思って電車に乗ったものの、勇気が出ないまま大学の最寄駅を通り過ぎて終点まで辿り着き、折り返してそのまま家に帰った。明日提出の課題が残っていたがどうせまた授業に行けないから関係ないか、と自暴自棄になり、ただ音楽を流して何をするでもなくぼんやりしていた。
「この世界が魔法にかけられて、
 もう一度君に出会うことができるかな」
そんな歌詞が流れてきて、なんだっけこの曲、なんて考えながら、今の状況ではあまりにも深く心をえぐるロマンチックな歌詞に泣きそうになった。
 そのとき、ポケットに入れっぱなしだったスマホが揺れた。ポケットのスマホの存在など頭の片隅にすらなかった裕一は少しびっくりして、徐にスマホを取り出す。
 美月からのメッセージ。
―大丈夫?体調悪い?
 まさかそんな連絡が来るとも思っていなかった裕一は、どういう意図なのか全くわからず既読すらつけられなかった。するとさらにメッセージが続く。
―昨日のことだったら私全然気にしてないよ、
―もちろんちょっとびっくりはしたけど
―むしろ慌ててる成田くん見れて新鮮だったな〜って感じ笑
そして最後に、ほんの少しの間を開けて彼女はこう言った。
―また遊びにいこ!
「この世界が魔法にかけられて、
 もう一度君に出会うことができるかな」
もう一度繰り返されたその歌詞を、裕一は思わず口遊んでいた。


「いや〜、あの時はめちゃくちゃ焦ったな」
「私はむしろ焦りまくってるゆうくんに戸惑って言葉を失ったけどね」
「俺、あのとき美月がすごい怒ってて黙ってるのかと思って、本当にどうしようって思ったんだよ」
「あの慌て様には私だけじゃなくて店員さんも戸惑ってたって」
 そこを結末としたストーリーにするなら、笑い話というか、いい思い出というか、そんな素敵なものになっていて、それはあのとき連絡をくれた美月のおかげだななんて思ったりする。結末が美しくなれば、そこに辿り着くまでの全てが報われるような気がした。


 でも、

 美月との物語の最後は、
 悲しい結末で終わる。

 大学三年生の冬、美月と付き合い始めて二年半くらいが経った。あれから美月の影響で裕一も映画をよく観るようになり、二人はデートでもよく一緒に映画を観に行っていた。その日は二人とも全ての期末試験を終え、渋谷の映画館で映画を観て、そのまま一緒に夜ご飯を食べる約束をしていた。
 だけどその日、美月は来なかった。

 結末から話すと、その日、美月は死んだ。走行中のトラックの前に飛び出した幼稚園児をとっさに庇おうとして、轢かれた。彼女が飛び出たって、トラックなんか止められるはずもないのに。顔も名前も知らない幼稚園児だったのに。彼女の母親の話によれば即死だったらしいから、とてつもなく苦しい思いをしたということはないのかもしれないけれど、最期にひと目会うことすらできなかった。なんで、と思った。いくら映画好きだって言ったって、なんでそんな、映画みたいに、悲しく、劇的に、死んでいっちゃうんだよ、と思った。そんな劇的な展開なんていらないから、ずっと、ゆるい幸せでもいいから、ずっと一緒にいたかったのに。裕一は自分の中の気持ちも整理できないまま、美月のことを責め立てたいような、でもそんなことをしたくはないような、どうしようもなくぐちゃぐちゃな心で日々を過ごした。家族や友人から腫れ物に触るかのように心配されるのがまた余計に息苦しくて、大学を休学して新しくバイトを始めた。でも、どんなに人間関係を切り替えても、どこかに美月のことを考えている自分がいて、ヘラヘラしながら喋っている自分をどこか別のところから冷めた目で眺めて愚かだと嘲っている自分がいた。


 その美月が、今日、10月31日に、シブヤの街に、裕一に会いに来た。たくさんの偽物の幽霊たちに混ざって、裕一を探して、シブヤを彷徨っていた。そしてハロウィンの魔法にかけられた世界で、ふたりは、再会した。

「どうしたの?」
 美月はぼんやり自分の顔を見つめている裕一に問いかける。
「なんで、会いに来てくれたの」
美月の声で我に帰った裕一は彼女に尋ねた。
「ハロウィンの日は死者の魂が帰って来れる日だからね〜。シブヤって不思議な街だよね。たくさんの電車が通ってるってだけでも迷子になりそうだけどけど、多分本当はもっとたくさんの場所に繋がってるんじゃないかな、私たちも知らないような。何かが、交錯する場所なんだよ、きっと」
そういえば美月は、そのようなテーマを扱ったフランス文学の研究をしたいって言ってたっけ、なんてふと思い出す。だけど裕一が聞きたかったのは、そんな答えじゃなかった。
「俺が聞きたいのは、ここに来れた理由じゃなくて、俺に会いに来た理由だよ」
裕一は美月の目を見つめる。美月はふと笑う。
「その手、何かモヤモヤしてる時とか、不安なことがある時とか、髪をいじるのずっと変わらない」
 そう言ってから美月は、ふっと小さく息を吐いてコーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「私さ、ゆうくんに余計なもの背負わせちゃったんじゃないかって思って」
「余計なものって、」
「だって付き合ってた彼女が事故で死にました、なんてストーリー重すぎない?それに、ゆうくんはきっとそれをずっと引きずると思ったし」
「引きずるなんて、そんな言い方」
「引きずるんだよ。私、あの時とっさに飛び出した後、それこそ走馬灯みたいにいろんなことがよぎったの。その時にね、あ、死際にお父さんお母さんにも、ゆうくんにも、友達にも、もう言葉を残すこともできないのかもしれないって思った。もしそうなったら、みんなにすごく苦い思いをさせるのかもしれないって。」
「でも、俺はまだ今だって美月のことが好きだから……」
「それは嬉しいよ。でも、私はもういないんだよ。もうゆうくんにはこんな奇跡に頼らないと会えない。」
「それでも俺はいいよ!それが嫌なら俺がそっち側に行く」
「いやだよ、ゆうくんが良くたって、私は絶対いや。私のせいでずっととらわれたままになってるゆうくんなんて見たくないし、ましてや私のために私の大切な人が死ぬのなんて絶対にいや」
「そんなの、そんなのずるいよ……。自分は、大切でもなんでもない人のために、命を投げたくせに」
美月は裕一のその言葉に、少し顔を歪めた。
「うん、そうだよね、私もそう思う。でも、私は、それで本当に苦しかった。あの時救った命を救わなければ良かったとは思わないし、次にあんな場面に遭遇したら見殺しにしたいとも思わないけど、どうしようもないからこそ苦しかった。あんな状況に遭遇しなければよかったのにって、ずっと思ってる。遭遇さえしなければ、救うとか救わないとかそんなことに苦しめられる必要もなかったのに、大切な人を置いてけぼりにすることもなかったのにって」
裕一は涙が溢れた美月の顔を見ているのが苦しくなって、少し視線を逸らす。
「私は、ゆうくんのことが大切で、だから今日、会いに来た。でもそれは、私のことを思い出して欲しいからとか、ずっと好きでいて欲しいからとか、そんな理由じゃなくって、私はゆうくんが大切だからこそ、私にとらわれないで生きて欲しくて、何なら私のことなんて忘れちゃったって構わなくって、ただ、君に、幸せになってほしい、幸せに、生きて欲しい、その命を、まだ捨てないで欲しいから、だから……」
最後の方は、もう言葉にもなっていないぐらいに、必死だった。
「自分勝手な話なのかもしれない、とも思う、けど、少なくとも、私はこう思ってるんだよって、伝えにきたの。もう、私がしてあげられることは、こんなことしかないけど。」

 美月が死んでから、生きていることがしょうもないことのように感じていた。彼女が死んだのに、お前はのうのうと生きているのか、と問いかける自分がいた。もっと悲しみに暮れて、彼女を追いかけるように死ぬのが本当の愛なんじゃないか、そんなふうに主張する自分もいた。彼女を忘れて、新たな幸せを手に入れるなんて、浮気みたいな話じゃないか、と囁く自分がいた。でも、今日、美月が、この奇跡みたいな確率にかけて伝えにきてくれた言葉が、全てを救った。美月のことを心の底から愛しているから、本当に本当に大切だから、生きなくてはいけない。彼女を、不幸になるための理由に使ってはいけない。それは、美月と過ごした大切な時間を全て、否定することになってしまうから。美月が会いにきてくれたのは、ふたりのストーリーの結末を、美しくするため。だからこそ自分は、笑顔で、前を向いて、幸せにならなくちゃいけないのだ、このストーリーを美しくしなくてはいけないのだ、裕一はそう思った。

「ありがとう」
 裕一は、涙で透明に煌く美月の目を見つめてそう言った。美月は涙と一緒に嬉しそうに笑って、それから深く息を吸い込んで、こう言う。
「ゆうくん、目、閉じて」
 裕一は美月の美しい笑顔を、涙を、心に焼き付けてから前を向いたまま目を閉じる。唇に、美月のたしかな体温が重なる。裕一の目からも、涙がこぼれた。またいつか、君に会えるだろうか。こんな風に、シブヤの街ですれ違う、奇跡みたいな可能性でいいから、君に会えるかもしれないと、心のどこか片隅で期待していてもいいだろうか。せめてほんのそれくらいだったら、君にとらわれていても許してくれるだろうか。
 唇に感じていた美月の体温がすっと軽くなる。それでも、前を向いていなくてはいけない。もう、絶望なんていらない。

 約束だよ。

 最後に、耳元でそんな風に美月の囁く声が聞こえた気がした。
「…くさま……お客様……」
 裕一は閉じていた目を開く。
「…美月?」
目の前には、空になったコーヒーカップとケーキのお皿が一つずつ、そして手をつけていないものが一つずつ。片耳が外れてしまっていたイヤホンからは、三年前、裕一の世界を魔法にかけたあの曲がループされていた。
「申し訳ございません、当店も現在は営業時間を短縮させていただいておりまして、23時をもって閉店とさせていただいております」
「あ、ああそうなんですか。いえ、こちらこそすいません」
裕一は半分寝ぼけたまま伝票を手に取る。
「こちらのケーキ、もしよろしければお持ち帰りされますか?」
「ああ、じゃあ、お願いします」
 お会計を終え、パンプキンケーキを片手に裕一は建物の外に出る。もう10月も今日で終わり、という夜はさすがに風も冷たく、空いている方の手でコートのボタンを閉める。
 そこから見渡す渋谷の街は拍子抜けするくらいに普段通りだった。今年のハロウィンは、感染症の流行によりいつもよりはるかに人出が少なく閑散としていた。時折仮装した集団を見かけるが彼らも思いのほか仲間が少なく盛り上がりきれていないようだった。こんなに閑散としていたら本物の幽霊たちもさすがに出てきづらいだろうな、なんてことを思いながら、裕一は今までより心なしか軽やかな足取りで渋谷駅へと歩き出した。


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