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最果タヒ展in渋谷PARCO 〜こらむちっくno.2〜

さっそくコラムの第二弾を投稿(no.1は書きだめていた文章だった)

東京での開催が決まって、ネットでの発売日当日に前売りまで買ってワクワクしていた最果タヒ展にようやく行くことができた。

ちょうどコロナの自粛期間のころに最果タヒさんの詩集に出会って、まだまだ詩も、最果タヒさんの作品に関しても初心者で少しずつ作品を読み進めているところなのだけれど、詩のインスタレーションというものがどのようなものか、そして最果さんの言葉がそこでどのように描き出されるのか、とても興味があった。

そして行ってみて実際にどうだったのか。
ずばり、一番簡単に表すのなら、言葉ではうまく表せない、という結論になってしまう気がする。
そこに展示されていたのは、圧倒的に言葉だったのに、言葉では表せない、そんなインスタレーションだった。それでもこの展示が自分にとってどのようなものだったのか、少しでも何か形に残せたらいいなと思いつつ、そしてこれを読んだ誰かが少しでも興味を持ってくれたら嬉しいなと思いつつ、この文章を綴っている。

言葉が届くこと

まず最初に、このインスタレーションが持つ意味、とか、解釈、とかそんな大仰なことより何より単純にすごいと思ったのは、誰か個人のために書かれた言葉ではない(少なくとも僕や、その他大勢の人々それぞれのためではない)言葉を、私たちひとりひとりが個人として受け取るということ。そしてさらには、この詩のインスタレーションという、近所の本屋では買えない、わざわざ現地まで行かなくてはいけない語弊を恐れずに言えば「ちょっとめんどくさい詩集」(もちろん本の詩集にはない体験ができるという大きなメリットはあるけれども)を求めてたくさんの人が集まる、ということだ。

例えば学校での朝礼などで先生が生徒に向けて言葉を放ったとして、ほとんどの場合それは教室全体、クラス全体という集団に届けられた言葉として受け取る。最果タヒさんよりもはるかに近い距離感にいるはずの人の言葉でさえそんなふうに集団として、霞がかったように受け取ってしまうのに、最果タヒさんの詩は、惹きつけられるように、そして確実に個人として受け取ってしまう。私たちはそれを当たり前のように感じて、つい忘れてしまいがちだけれど、本当にすごいことだと思う。

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「6等星」

「われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。」

この言葉は最果タヒ展の副題にも用いられている「6等星の詩」の最後のフレーズだ。そして、これはとてつもなく美しく、そしてわれわれ人間の奥底に細い細い針でアプローチするように、選ばれた言葉であるように感じた。展示の中でも一番よくSNSなどで写真を見かけるモビールの展示。その展示を見たときに、展示会場の入り口に綴られていたこの「6等星の詩」の言葉たちが自分の中ではすとんと腑に落ちたようだった。

モビールの展示↓

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このモビールの展示はまるで言葉が紡がれている途中、言葉を探している途中の、言ってみればぶつ切りで不完全な形の言葉たちが思索の海を浮遊しているような雰囲気だった。そしてそれらの言葉を僕たちが「探している」うちに不思議な感覚に陥っていく。

その言葉たちは、間違いなく自分の言葉ではないのに圧倒的に自分の中に流れていて、たしかに言葉を感じているのに絶対にそれを感じたことを証明することができないのだ。
もしかしたらこの言葉たちは生まれるよりもはるか昔から自分の中で迷子になっていて、世界の有象無象に囚われている間に言葉を探すことを忘れてしまった私たちは、今この展示の中で「物理的に」言葉を探すというプロセスを踏むことで再会を果たしたのではないだろうか。そんな気さえしてしまった。

先ほど最果タヒさんの言葉が個人の中に届く、というようなことを書いたが、実際のところそこにはもう少しややこしい何かが絡んでいるように思う。
私たちが外からやってくる言葉に接する時、つまり何かを読んだり、誰かと話したりetc.する時、それはほとんどの場合自分の言葉ではない。なんなら自分の書いた言葉さえ、次にその言葉を振り返った時にはその時の自分とはわずかにでも違う人間になってしまっている。そして、自分のものではない言葉が流れ込んできたときに、私たちはそれを自分の言葉で翻訳することしかできない。つまり他人との言葉のやりとりが「正しく」成り立つことなどありえないのかもしれない。
でももしそれだけだとしたら、最果タヒさんの言葉が個人の中に届こうがなんだろうが虚しいものになってしまいそうな気がする。私たちがそこに虚しさ以外の何かを見出せるのは、やっぱり「自分の言葉」と「他人の言葉」たちの中には何か共通するものがあるかもしれないことも否定はできず、何もかも一切を共有することが不可能であるとも限らないからではないだろうか。それはある意味言葉が言葉を超えた瞬間で、それが訪れたのかどうか、いつ訪れるのかは私たちにはわからない。

だから私たちは「この距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星」なのだ。

「この距離を守るべく」という言葉を聞くと私たちはつい「距離を取る」というニュアンスに限定して注目してしまう。でも、距離を守ることは、「この距離」の分遠ざかっていると同時に「この距離」の近さに居続けるということでもあるのではないだろうか。

星を感じて

星の明るさは、その星が放つ光の強さだったり、その星までの距離だったり、様々な要因で決まる。だから、ある時は「われわれ」は「6等星」であるのかもしれないし、ある時は「あなたの心」は「地平線の向こうから」顔を出す「一等星」なのかもしれない。「生きる限り詩は変わる、流れ続ける」と最果タヒさんが書いたように、言葉によって作られたり、傷つけられたりしていく私たちもまた生きる限り変わっていくし、「この距離」の感じ方、星の放つ光の感じ方も変わっていくのかもしれない。

今この瞬間、最果タヒ展という詩に触れ、自分が、自分の思ったことを、今の自分の言葉で綴れたこと。それが未来の自分には何か別のものに変わっているかもしれないこと、これを読んで下さった方にとっても全く別のものであるかもしれないこと。そしてそれでも、言葉が言葉を超え、私たちが何かを共有するかもしれないこと。

最果タヒ展は、そして最果タヒさんの言葉は、「この距離」を守りながらたしかにその光を放っているように感じた。

おまけ

個人的にお気に入りの一枚↓

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詩が実際に紡がれている画面キャプチャの展示(実際は動いています)↓

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グッズたち(マステは実は二つ目。PCに貼ったりしています)↓

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