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最大公約数と僕

この世には三種類の人間がいると僕は思う。

一種類目は、公約数の概念がない人。

例えば、僕が9という性質を持っているのに、知らん顔をして5を出してくる人。

5を出された僕は痛い気持ちになるが、このタイプの人は僕が痛みを感じていることに気づかないんだ。


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二種類目は、自由に相手の公約数と非公約数を行き来できる人。

僕はこのタイプの人が嫌いだ。だけどいつも惹かれてしまう。多分世の中的にもこの手の人間が短期的にも、長期的にも一番モテるんじゃないかと思う。

だっていつも9の性質を持つ僕に3や6を与えてくるくせに、もっともっと3や6が欲しくなった時には、2しか与えてくれない。

でもその後に9を投げてくるから、僕は相手が2を与えてきやがったことを忘れてしまうんだ。

だからそんな公約数と非公約数の両方を自由自在に使い分けられる人を見るたびにずるいなぁと思い、同時に僕はこのタイプの人になれたらもっと人生楽だったんだろうなとひしひしと痛感してしまう。


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三種類目は、相手の公約数しか与えられない人。

僕はこのタイプに当てはまる。相手が8の性質を持っていたとすると、2か4か8しか与えることができない。

そして相手の望まない数字を送ることにストレスを感じ、躊躇してしまう。

相手が望んでいる数字を送る方がいいと考えていた時期もあった。

だけど相手が望んでいる数字ばかり送ってしまうと、ナメられたり、僕に対する面白みがなくなってしまったりして、いつもダメになっちゃうんだ。


僕にも送りたい数字がある。僕と相手の最大公約数を探していきたい。そう思う。

でもなぜか相手の数字の公約数を優先してしまって、飽きられてしまって、しんどくなって結局はダメになる。


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こうやって人のタイプを3つに分けてしまうような僕の思考に嫌気がさすこともよくある。

人のタイプを分けるのって、いかにもステレオタイプ的な人間がしそうなことだから。


とはいえどこかのお偉いさんも、「言語っちゅうのは混沌の世界に秩序を与えるものなんやで、そしてまた言語は何かと何かを区別するためにあるんや」なーんてことを話していた気がする。

人間のタイプは僕が述べた3種類以外にも、グラデーション状に無数存在することもわかっちゃいるけれど、でも僕は言語という道具を用いて、混沌の世界を区別してみたかったんだ。


続く

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