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水出しコーヒーの午睡

自社は社内でのミーティングなどはリモートで済ますようにしているし、できる。
ポスターやパンフレットの見本も担当各自の家に送ってもらうのも構わないが、やはり取引先相手に「自宅」を知られるのもどうか?という意見もあり、「モノ」が絡むことは会社にての話になることが多い。
加えて、クライアントに「お会いしてお話ししたい」と言われたら出掛けなくてはならない。
もっとも自分は立場上、クライアントと会うより、社内での萬相談みたいな状態になっている。
「常務、出勤率高いですよね」
「みんなが呼び出すからだろう?」
やれ色見本と色が違うとか、素材の違いで照りが変わるがどっちがいい?とか。実物を見なければならないパターンが多過ぎる。
「自分はそんなに呼び出しているつもりないですよ」
そりゃそうだ。毎日、別の者が呼び出す。
「どうせ、ひとり家で仕事をしているんでしょう?常務、趣味とかあるんですか?」
大したいわれようだ。
しかしそういわれると「趣味」と胸を張っていえるものはなんだろう?
高校生の頃、友人(正しくはその兄)に誘われて始めたビリヤードにどっぷりハマった。子どもの頃から模型作りが好きだった。プラモデルというより模型。ペーパークラフトも好きだった。それはしばらく仕事でも活かされていたが、最近は作ることはない。
「料理かな?」
「えぇ!?」
その場にいた3人が3人とも声を上げた。
「失礼な」
「だって、独り暮らしですよね?外食とか、テキトーになりません?」
「あ、たまの休みには、ってヤツですか?」
「ひょっとしてインスタとかに上げているとか?」
「してません。むしろ休日にはたまに外食してもいいかな?って感じだよ」
と言えば、3人とも「意外!」と驚く。
正しくは趣味とは違うかもしれないが、あいつが「美味しい」と言って笑う顔見たさに料理を作るのは楽しい。
「得意はなんですか?」
「煮込みスープ系かな?」
得意というかほぼ毎日作っているからバリエーションも増え、冷蔵庫の中身と相談すれば悩むこともない。
「意外!」
「ひょっとして食べてくれる相手がいるとか?」
「え〜っ!マジっすか常務?そういう気配ちっともみせないのに」
なんだというのだ?
私生活なんて誰にも訊かれないから答えないだけだ。それなのに少し垣間見えたらこの騒ぎ。
「うるさいな。さっさと終わらせて昼は家で食べるんだからな」
「一度常務の手料理食べてみたいですよ」
「今度、ご自宅伺っていいですか?」
「ダメ」
「うわぁ。家にいるんですね?スイートハニーが」
なんだそれは?
「いいから、見本さっさと見せろよ」

くだらない話で盛り上がりながらも2時間で会社を出た。
田嶋さんから「槻木沢氏に気をつけて。教授をひとりにしないように」というメッセージを受けてから、できる限りそばにいるようにしている。
あれから1週間、槻木沢氏からの接触はない。それが余計気になった。
田嶋さんの話によると、例の企画も外務省に持ち帰りとなった部分の回答待ちで進行はストップ。ひょっとしたら大きく企画の変更があるかもしれない、という状況だった。
「そうなると、槻木沢さんのいっていた本も出版まで至らないかもしれない」
「そうなんですか?」
「こういう言い方はなんだが、外務省の偉い人はあまり恐竜に興味がないようでね」
「でもありきたりなアプローチがイヤということでの今回の話ですよね?」
「実は担当が変わったんだよ」
「それは厄介」
「だろう?ただ、もう槻木沢氏には正式オファーをしているからゼロにすることはできない。もっとも、教授の件から考えても、いっそゼロになった方が楽なんだが」
田嶋さんは欧米人のように手を挙げて、やれやれと首を振った。
振り回されるのはいつも間になる者と相場が決まっている。

家に戻ってきてすぐに昼食の支度に取り掛かる。
最近、何やら厄介な数字と戦っているようで、ずっとPCの前に座りっぱなしの相手は、呼びに行くまで降りて来ないだろう。
ホットドッグを作る。
粗挽きのブラックペッパーの効いたフランクフルトを焼く。
玉ねぎは少し炒める。
スープは生姜ともやしとネギ。
もうすぐ出来上がるという頃に相手が降りてきた。
手にマグカップを持っている。
「あれ?戻っていたの?」
「午前中で帰ってくると言ってたじゃないか」
「あ、うん。そうだったね」
予定通りに戻ってきてよかった。きっと、昼はよくてミルクティ、ともすればカロリーゼロの紅茶か何かで済ませていそうな雰囲気だ。
折角、食事の量も気分も浮上してきていたところで槻木沢のヤツ…と見知らぬ相手に腹を立てる。
「いいタイミングで出てきてくれたよ。昼食にしよう。今日はホットドックと生姜のスープ」
「やった」
マグカップをシンクに置いて、手を洗う。
「あっ」
小さく声が上がった。
「どうした?」
「あ、いや」
不自然に左手の甲を隠す。
「どうした?」
左手首を捕まえて、こちらに引っ張る。
左手の甲の皮が剥けて血が滲んでいた。
「どうした?何があった?」
自然と声が大きくなった。相手はビクリと肩を震わす。
「どうした?」
慌てて声を抑えてもう一度訊く。
「あ、無意識に掻いてたみたいで…」
よく見ると右手の人差し指、中指、薬指の爪の先が赤く染まっている。
「考え事していて、無意識に掻いてたみたいで…」
子どもが怒られるのを怖がるように、俯いてしまっている。
「とにかく手当てしてからだ。これ以上搔けないようにしとかないと」
右手を洗ってあげたあと、左手の傷以外を新しいタオルで拭いた。そのまま、ダイニングに座らせると薬箱を準備した。
テーブルの上に手を置いたまま、項垂れている。
手当てをしながら思い出した。
「おまえさ、これ2回目だね」
苦笑混じりに言った。
「え?」
少しだけこちらを見た。
「前はさ、ほら、足の甲を虫に刺されて掻いて、やっぱりこんな感じにしたじゃん」
「あ、そう…そうだね。うん」
同居して2年目の夏だった。
「あの時は化膿させて散々だったじゃん」
そう言いながら、消毒液を染み込ませた脱脂綿で傷を抑える。顔を顰める。染みるのは仕方がない。
「確かこの薬だったよな?」
傷負けしやすいという知り合いに「傷にはこれ、切り傷擦り傷火傷なんにでも効く」と勧められた軟膏を塗る。確かに紙で深く切っても、その薬を塗ると治りがはやい。ただベタつきが半端ないので、薬の上から何かで覆わないとならない。
薬の上にガーゼを当てて、その上から包帯を巻く。
「これで搔けないだろう?」
それでも一応手を握ることはできそうだった。
「あ、うん。ごめん。あ、ありがとう」
薬箱を片付けて、手を洗い、スープを温める。
「痛みに鈍いんだ」
「どうだろう?」
「だって、おまえ辛いのも平気じゃん。辛さって味覚じゃなくて痛点で感じるって、前テレビで見た」
「そうなの?」
こちらを見上げた。
「テレビの話だけどね。でもさ、おまえ相当辛いの食べても涼しい顔してるじゃん」
「うーん。みんなが辛いっていうほど辛くないんだよね」
「それって痛みに鈍いってことらしいよ」
「そうなのかなぁ?」
包帯を巻いた左手を撫でている。
血が出ているのを見て、こっちも動揺して大きな声を出したが、決して怒ったりしていたのではない。
しかし、怪我をしていることに気がつかないというのはどういうことだろう?
包帯を汚さないように気をつけているのか、少し食べにくそうにしていたが、きちんと食べ終えた。
「美味しかった。ごちそうさま」
柔らかく笑う。この笑顔を見るとホッとする。
「スイートハニーねぇ…」
と無意識に呟いた。
「何?」
シンクの前でふたり並んだ。
「なんでもない。あ、洗うよ。洗えないだろ?」
「あっ」
次の瞬間にはひどくがっかりとした顔になる。
「あのさ、水出しコーヒー、セットしてくれよ。あのドリッパー使ってみようぜ」
「あ、うん」
「おまえが貰ったんだからさ」
先日のNASのトラブル解消のお礼だと、田嶋さんが水出しコーヒーを抽出するドリッパーと粉を「教授に」と言って寄越した。
「大したことしてないのに」と困惑していたが、それでもドリッパーを見たら嬉しそうにしていた。
たまたま新しいグラスをおろすのもあって、昨夜煮沸したばかりだった。
水出しコーヒー用のブレンドも田嶋さんのお勧めのものだった。
説明書を読みながらセットを始めたのを見ながら片付けを続ける。
彼は真面目過ぎる。
「役立たず」でいることが許されない。
誰かの役に立つということにひどく拘っているような気がする。
「いい香り」
袋を開けた瞬間、こちらにまで香りが漂ってきた。
「少し多めに作ってもいいよ。多分ふたりでいるとすぐ飲んじゃうよ」
「午後は家にいるの?」
「いる。明日は1日会社だけど」
「俺も明日は大学だ」
「実験か何か?」
「ううん。論文指導。耳がよく聞こえない学生なんだ。リモートだと時間が掛かっちゃうんだ。だから実際会った方がいいかなと思って」
「午前?」
「朝から出て夕方までいることになると思う。雑務も片付けてくるから」
「気をつけて歩けよ。しばらくひとりで外出てなかったろ?」
「大丈夫。車の運転忘れてないから」
そう言うと、ぷくりと頬を膨らませた。

コーヒーが落ちるのに1時間程度かかるという。
自分は夕飯の角煮の下拵えを始めた。
彼もまた書斎に戻るかと思ったら、眼鏡をかけ、本とタブレットとハリネズミのクッションを持って戻ってきた。
タブレットは充電ケーブルを繋ぎ、テーブルの上に。表紙に日本語のない本を開くと、背もたれとハリネズミに寄り掛かるようにして読み始めた。
豚肉を30分煮ては火を止め30分蓋をして放置。これを3セット。
予定のない休日でもなければ作らない。
換気扇も回すがキッチンの窓を少し開けて1回目の茹で。一度目は吹きこぼれないように割とそばについている。
スマホがせっせと連絡事項を運んできてくれるので、30分はあっという間だった。火を止めて蓋をする。
カウンターの上のコーヒードリッパーもまだ仕事の最中のようだった。それでもあと10分もあれば水が落ち切るだろう。
もうずっと使っていた耐熱グラスにひびが入っているのを見て「いつ割れるかわからないから使わない方がいい」と言った時もしょんぼりしていた。
結局、「口をつけなければいい」というところに落ち着いて捨てるには至らず、冷蔵庫の中でチューブ立てとして活躍してもらうことになった。
以前の保存容器の蓋の時もそうだった。
「もう役立たずなの?」
そう訊く時の彼はひどく悲しそうで子どものような顔をする。
誰が彼を役立たずなんて言うだろう?
リビングの様子を覗いてみると、いつの間にか本もテーブルの上に置いて、ハリネズミのクッションを抱いて丸くなって眠っていた。
そっと近づいて、リビングに常備しているブランケットを掛ける。
眼鏡をかけたままだと寝にくいだろうが、外すにしても起こしてしまうかもしれない。
タイマーのなる少し前にキッチンに戻る。
二度目の茹で。
そしてコーヒードリッパーのコーヒーを冷蔵庫に仕舞い、粉を洗い流す。
ガス台の前に折り畳みの椅子を置き、窓からの風を受けながら、スマホを覗く。
仕事用のタブレットはあるがプライベートでも持とうか?などと最近思う。電子書籍リーダーでいいのだけれども。若い頃はゲームに夢中になったこともあったが、今はそれほどでもない。
二度目の茹でを終了して再び蓋をして寝かす。
リビングの様子を見に行く。
まだ寝ているようだった。が、いつの間にか眼鏡を外している。
「マジ寝かよ」
少し眉間に皺を寄せて眠っている。
目を覚ましたら水出しコーヒーを飲もう。
「何かおやつがあったかなぁ?」
やっぱり自分は、彼にはいつでも笑っていてほしい。
改めてそう思った。