【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 1 #創作大賞2023
-あらすじ-
-本文-
あれは、いまでも忘れられない出来事のひとつです。その日は3月というのに、真冬に戻ったような寒さで……あれは何と言うんでしたっけ。ああ、そうそう〝寒の戻り〟ですね。底冷えのする寒さで、膨らみ始めた桜のつぼみが今にも縮こまってしまいそうでした。
あ、話はそれますけど、私は桜が大好きでしてね。あの舞い散る花びらの中におりますと、まさに〝酔生夢死〟のような私の人生でも少し意味のあるような……スポットライトがあたっているような、そんな錯覚を覚えるのです。
フフッ。まぁ咲いてから散るまであっという間なんですけどね。
ああすみません。お知りになりたいのは亡くなった彼女のことですよね。あの日は……前日までは連日暖かな日が続き、あのペデストリアンデッキを通行する人々も薄手のコートや、中には半袖姿なんて人も見かけるようになりました。
彼女も暖かさに惑わされたのですかねぇ……。レースのような薄くて白いワンピース一枚のみで座り込むように死んでいました。検死の結果、酔っ払っていたというから、脳が麻痺して寒さに気づけなかったのかもしれませんね。可哀想に……。
道行く人も最初は酔っ払いが座ってる、と思ったんでしょうね。まぁそういう人は珍しくはありませんからね。
私がもう少し早く気づいていれば、命は助かったかもしれない、そう思うと悔やまれます。
凍死ってね、なにも雪山遭難だけの話じゃないらしいです。低体温症で亡くなる人は、熱中症より多いというから驚きです。春でも夜って冷えるでしょう。気温10度くらいでも起こりうるみたいだから、あなたも気をつけたほうがいいですよ。
彼女の身元? それは警察が調べただろうけど、私は分からないなぁ……。ただね。彼女が亡くなる一年前くらいかな。
あのペデストリアンデッキで毎日踊っている美人がいたのですが、あの亡くなった彼女はその踊っていた人と同一人物じゃないかという人がいるんです。あれだけ容姿端麗な女性はなかなか居ないから間違いないと言うんです。
その女性の知り合い? うーん……いやね、確かに一時有名ではあったんだけど、どうも彼女は許可を取らずに踊ってたみたいだから、しばらくして行政から指摘を受けたのかな。姿を消してしまったから今となっては分からないんですよね。なんか、あまりお役に立てず申し訳ないですね。
第一章 (1)
真山里奈は部下の結城智哉と新橋のもつ焼き屋で、酒を酌み交わしていた。
「真山さん、今回は本当にすみませんでした」
「ああ、いいのよ、誰にでもこういうことはあるし」
そう言いながら里奈は体のうちから湧き上がる疲れを癒すようにビールを注ぎ込んだ。
里奈の勤める外資系生命保険会社に、結城智哉は1年ほど前に事業所採用で入社してきた。通販会社からの転職という珍しい経歴ながら、入社時の研修を終えて配属されてくると異業種からの転職を感じさせないスキルを発揮しあっという間に溶け込んだ。
生保の仕事は楽ではない。相手に飛び込んでいく胆力はもちろん、クライアントのライフプランを正確に嗅ぎ取る能力も必要だ。保険販売に関する知識も膨大で、業界で定められた教育課程に基づいて働きながら知識を身につけていかねばならない。
なおかつコンサルタント職の給与体系は歩合の占める割合が多い。この世界に飛び込んできたものの、新規顧客を獲得できず、前職の給与水準から大幅に年収が下がって早々に離職する者も多い。
里奈自身も転職で入社してきたが、前職は地元の信用金庫に勤めていた。そのため保険の代理店業務がありこの業界へは明るかった。里奈にとって今の仕事は、地元を離れ収入を上げたかった自分の考えにハマりもってこいの職場だったが、智哉が入社してきたときは一抹の不安を覚えた。
色白で線の細そうな印象の智哉は、良くも悪くも実力主義のこの世界には馴染まず、すぐに尻尾を巻いて逃げ帰るのではと思ったのである。ところがいい意味でその期待は裏切られた。
入社後しばらくは上司としてついた里奈と同行営業となる。初対面のその日、智哉は言った。
「真山さん、僕叱られて伸びるタイプです。真山さん、ヒョウみたいな雰囲気でマジ怖そう。それに狙った獲物は逃さない感で好きなタイプです!」
何からツッコミを入れたらいいのか分からないこのセリフを智哉はなんの躊躇もなくぶつけてきたのだ。
うん、叱られて伸びる、悪くはない心がけだろう。褒められて伸びるなんて甘っちょろいことを自分から言っているようでは、この世界では食われる。だがヒョウみたいな雰囲気とはなんだ? 格好いい例えをしちゃいました風になっているが、初対面の人間に対して「怖そう」は失礼だし、確かに私は狙った獲物は基本的に逃さないけど、そこを君が好きかどうかなんて関係ないし伝える必要はない……確か里奈はこんな感じのことをグダグダと返した。
智哉は落ち込むどころか、睫の長い瞳をキラキラと輝かせて里奈にくっついてくるようになった。
時々、智哉は里奈には到底真似の出来ない距離の詰め方をする。夫の愚痴ばかり言うクライアントの女性に
「僕、良く分かりました。田中さんのご主人に対する深い愛」
「は? 私が?」
「だって、長生きしてほしいからこそ、田中さんが作る栄養バランス満点の料理を食べないご主人に腹がたつんですよ。ね? そうでしょ?」
そう言って、夫の終身医療保険の契約に漕ぎづけた。
智哉はあっという間に、期待の新人として有名になった。
そんな智哉だったが、今回はクレームを受けることとなった。
——おたくの若いコンサルタントは何もわかっていない。プランニングの内容はどれも的外れだ。こちらは忙しいのにこのような提案を出してきて、バカにしているのか……
そんな電話を受けたのが今朝のことである。
智哉の立ち上がりがいいので、里奈自身も油断していたこともあった。
すぐさま二人で謝罪に向かい、3時間かけて誠心誠意対応をした帰りが、この新橋のもつ焼き屋である。
「真山さん、結婚してないですよね?」
「ん?!」
里奈は眉間に皺が寄るのを自覚した。こいつはビールを飲んだらさっき反省したことをもう忘れたらしい。
「彼氏はいないんですか?」
智哉はひかなかった。
——そういうの今どき部下側からでもハラスメントになるよ、と喉元まで出かかったがその先のやりとりが面倒くさくなり里奈は止めた。今日はクレームの件で散々口うるさいことを言ったばかりである。里奈は渋々と〝現状〟を話し始めた。
「旦那はいる……」
「え? 独身じゃないんですか?」
智哉の表情が、面白いものを見つけたかのように輝いた。
「確か神田あたりのマンションに独り暮らしじゃなかったですか? 僕、ゆみちゃんに聞いたんです。別居ってことですか?」
〝ゆみちゃん〟は内勤の女性だ。智哉と歳が近い。悪い子ではないが、口が軽い。以前ぽろっと家庭の事情を話してしまったことがあった。里奈はため息をついた。
「あのね、そうやって人のプライベートにずかずか踏み込むといずれ自分にブーメランになって戻ってくるよ」
苦言を呈したつもりなのに、智哉は「カカカ」と少年漫画の主人公のように身体を揺すって笑った。
それにしても見れば見るほど智哉は美しい容姿をしている。男性に対して〝美しい〟という表現は違和感があるが、里奈の語彙力では他に形容出来ない。睫が長く鼻筋が通っていることに加え、瞳と鼻と口、そのバランスがとてつもなく良いのである。
ここまで美しい顔はテレビなどで観るアイドルでもあまりいない……。
「自分には踏み込まれるプライベートがないから問題ないです」
ひとしきり笑ったあと智哉はこう言った。……そういうことじゃない。里奈は会計のバインダーをもって立ち上がった。
「え、帰るんですか」
智哉は慌てて立ち上がった。
「そうね、その神田の我が城でゆっくりしたいから」
*
「ただいま」
ガチャっと鍵を開けて入ったが室内は暗い。まだ〝帰っていない〟ようだ。
里奈は3年前にこのマンションに引っ越しをした。1SLDKの間取りでそこまで広くはないが、大手町まで15分程度で着く。
不動産業者で契約したとき、なんとも言えない感慨を覚えた。ここはまさに私の城だ。誰にも侵食されないテリトリーだ。
地元で離れて暮らす夫と自分の両親、その他様々なストレスから里奈を護ってくれる、安らぎの我が家だ。
夫とはもう数か月会っていない。転職が決まったとき、東京での勤務となることを告げたら夫は動揺を隠さなかった。すれ違いが多く、ほとんど会話もなくなっていたのに「妻が単身赴任で働くなんて聞いたこともない」の一点張りで激高した。
それを里奈は一切取り合わず、手荷物だけを持ってこのマンションへ引っ越しをした。
当初は戻ってくるよう何度か連絡があったが、今は半ば諦めたようだ。時々定期連絡が入るが、戻ってこいとは言われなくなった。
この安らぎの我が家に、2ヶ月前から〝居候〟がいる。物置となっているサービスルームに寝袋を置いて生息している。
そんなところに寝ていたら体の節々が痛くなりそうだが、彼は職業柄身体をメンテナンスすることに長けていた。
厄介な肩こりと片頭痛もちの里奈はしばしば近所の整体に通っていた。彼はそこの人気整体師で名前を〝リョウ〟と言った。
人気があり過ぎて常連からの指名で埋まり予約が取れないことで有名だった。里奈も彼の腕について噂には聞いていたが、一度も施術を受けたことは無かった。
ところがある日、マンションの前で血だらけで倒れていたのである。警察も救急車も呼ぶなという彼を仕方なく家にいれた。簡単ではあるが傷の手当をしながら、里奈はリョウのいる整体院に通っていることを話した。
「今晩は痛みが落ち着くまでそこの部屋なら居てもいいわ。この貸しは今度整体の予約をねじ込ませてくれればいいわ、一度噂の施術を受けてみたかったの」
そう告げ応急処置が終えると、以前登山用に買ったきりとなっていた寝袋を彼に貸し与えた。リョウは礼をいうとその晩はすぐに横になった。傷のせいか発熱もしているようだったので、里奈はミネラルウォーターのペットボトルをリョウの横に置くと自身は寝室で眠った。
もちろん長く置いてやるつもりは毛頭無かった。だが翌日の朝、彼は驚きの交渉をしてきたのである。
「毎日、あんたの身体メンテしてやるよ。だからしばらく家に置いてくんない?」
「は?」
実際には〝あ〟が濁った音だったかもしれない。そんな謳い文句にハイそうですかと返すほどこっちは常識外れじゃない。私はこう見えて既婚者だから、見知らぬ男を家に住まわせることは出来ない、と告げるとリョウは里奈の家にあったアイスピックを指さして
「あれ、施術のときにそばにおいて、俺がおかしなことしたら刺せばいいよ」
と言った。
こいつは何を言っているんだ。とんでもない野良を拾ってきたものだ。だがその一方でゴッドハンドともいわれる施術を受けてみたい願望もムクムクと湧き上がった。実際、里奈はその日も肩こりと片頭痛でだるかったのである。
「頭痛、しているだろ? ちょっと治してやるよ」
そう言ってリョウは里奈の耳の後ろあたりを何度かググっと押したあと、あとは上腕を伸ばすストレッチの介助をしてくれた。それだけのことなのに、驚くほど視界がクリアになり頭がすっきりしたのである。
「ん。姿勢良くなったな。すっきりしただろ」
リョウはその人の姿勢を見ればだいたいどこに不調を感じているのか分かるという。筋肉が透けて見える、と言っていたがあながち嘘ではなさそうなほど、彼に指摘される不調はたいてい当たっていた。
その日からリョウは里奈の家に居候することになった。リョウの仕事は昼過ぎから夜にかけて、整体サロンの営業時間である。一方、里奈も残業が多いため、帰る時間は同じくらいになった。
里奈が出かけている日中にリョウが何をしているかは知らない。あんな血だらけになっていたのだから、なにか犯罪に巻き込まれているのでは、とぼんやりと考えた。ただそれにしては、彼は相変わらずサロンの人気整体師として勤務もしている。顔も表向きの素性も割れているので、里奈は深く考えるのを止めた。
リョウを自宅に居候させる条件は
・寝食は別、洗面・トイレ・キッチン設備は自由に使っていい。
・家賃その他を求めない代わりに、里奈の身体のメンテナンスを毎日行うこと
とし、リョウはそれに応じた。
里奈は卓越した腕の専属整体師を雇い入れたと考えれば、悪くない取引かもしれないと思った。
夫に対しては、自分でも驚くほど後ろめたさを感じなかった。突然訪ねてきたら……とは考えないでもなかったが、上京してきた時から、向こうが別れたいならそれはそれでいいような気がしていた。
ならとっとと離婚すればいいだろうという人もいるだろうが、里奈には自分から離婚に向けて動き出すほどのパワーはなかった。何より両親が面倒くさい。疎遠でほぼ連絡もとっていないが、夫と別れるとなれば里奈にとって好ましくない状況になるだろう。
このまま、誰にも何も言わなければいいんじゃない? 自分でも呆れるほど適当にこの問題を横に追いやって里奈は自分を納得させた。
リョウが自宅に居候するようになってから、里奈は心なしか体が軽くなり、ますます仕事への意欲が沸いた。同僚からも取引先からも「真山さん最近、顔色いいね!」なんて言われるようになったから、実際体の調子も良いのだろうと思った。
好きなように息を吸い、食べたいものを食べ、生きたいように生きる、それが里奈にとって最も心地よいことだった。その生活をリョウは侵害してこなかった。
ただ里奈の求めに応じてメンテナンスしてくれる。軽い雑談くらいには応じてくれるが、それ以上のことをこちらからも向こうからも求めない。
もちろん、二人に体の関係はない。
ガチャ……施錠が外れ、リョウが帰宅した。
「おかえり」
「あんた……風呂入った?」
「まだ、これから。入ってくる」
マッサージは、身体が温まりリラックスしているときのが効果が高い。まずは入浴してからメンテナンスしてもらうことが多かった。
施術は寝室で行う。他人に寝室に入られるのはあまりいい気がしないが、他に最適な場所がないので仕方ない。
まずはうつ伏せで背中から腰、腿裏にかけて流すようにリョウは指圧を加える。
リョウは直接コリと関係ない箇所に念入りに指圧を行うときがあった。筋肉は繋がっているためポイントを緩めるとコリのある部分も緩むらしい。続いてストレッチの介助を行ってくれる。
専門的なことは良く分からないが、言われた通りの呼吸を行いながら筋肉を伸ばすと施術後の身体がすっかり軽くなる。
時間にして長くて30分程度。これ以上毎日行っても意味がないらしい。筋肉が良い状態に保たれていれば、日々の生活の中での疲労やクセからくる身体の歪みを取り除いてあげれば長い時間をかけても効果はないという。日によっては15分くらいで「今日は終わり」と言われる日もあった。
「なんかあった?」
風呂上がりにいつものようにうつ伏せになった里奈にリョウが声をかけた。そんなことを聞いてくるのは珍しいので思わず「なんで」と返すと、
「いつもより背中のハリが強い。昨日はそんなことなかったのに」
と何故か悔しそうにリョウは言う。里奈は思わず笑った。
リョウは口が悪く言葉数も少ない。里奈のことは常に「あんた」と呼んでいるし、居候の立場である引け目も一切なく、家の中では堂々と過ごしている。だが、さすが評判のある整体師だけあって、身体のメンテナンスに関することについては深いこだわりがあるようだった。そのギャップが妙に面白かった。
「確かに、今日はいろいろあった。部下のクレーム対応とか……。あ、そういえば」
「ん?」
「リョウは寝袋で疲れないわけ? なんかいる?」
リョウはしばらく返事をしなかった。うつ伏せの里奈は表情が見えない。
「ねぇ、聞こえた?」
「聞こえている。寝袋で問題ない」
「そう……分かった」
施術が終わるとリョウはいつものように〝自室〟に戻っていった。
里奈は冷蔵庫からビールを取り出すとテレビをつけた。そのまま何本かビールを飲み気がつくとソファで寝落ちして真夜中に目が覚めた。
このところ里奈は酒量が増えていた。身体のことを考えればあまり良くないだろうとは思いつつ、気づくと何本も酒をあけたまま寝落ちしていることが頻繁にあった。
私、いつかこのまま酔っ払ったまま死ぬんじゃないか……。その時、リョウが第一発見者になったら申し訳ないな……そんなことを朧気に思いながら、里奈は再び眠りについた。
つづく
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