【小説】ペデストリアンデッキの舞姫と焼けた靴 2
第一章 (2)
日本橋に完成したばかりのオフィスとテナントからなる複合ビルに、話題のイタリアンレストランがオープンした。開放感あるテラス席で都会の街を見下ろしながら、本場イタリアで修業したシェフが腕を振るう料理に舌鼓をうつことが出来る。オープン前から予約で数カ月先まで満席と各飲食系メディアで取り上げられた。
真山里奈は日本橋駅の改札を抜けると、ヒールの音をカツカツとさせながら当ビルのエレベータに乗り込んだ。大学の後輩、紗由利とこの話題のレストランで待ち合わせをしていた。
「待ち合わせです」
店員に告げながら慌てて入店すると、すでに紗由利はテラス席の中でも一番特等席といえるラグジュアリーなソファ席にふわりと腰掛けていた。ウェーブがかったセミロングのヘアスタイルに、ベビーピンクのブラウスとフレアスカートを身にまとっている。ファッション誌の〝フェミニンコーデ〟とかに掲載されていそうな雰囲気だ。
「さゆ」
テラスから下をぼんやり眺めていた紗由利はゆっくりした動作で里奈のほうに振り返った。
「里奈さん!」
「ごめんっ! 遅くなったわ」
「全然です〜。私も今来たところです」
紗由利は微笑んだ。背丈が150㎝くらいの紗由利はこじんまりとした雰囲気でソファに収まっている。170㎝近くある里奈とはまるで正反対だ。
「さゆ、そうしてると人形みたいね」
「え? なんですかそれ。それ言うなら、里奈さんスーツ着て立ってる姿が相変わらずモデルみたいでカッコいい」
紗由利はいつも里奈を褒める。里奈は気恥ずかしさを感じ、席についた。
「それにしても、よく予約とれたね? 先週、さゆが行こうって誘ってくれたから軽くネットで調べたら、ココ何か月か先まで予約でいっぱいなんでしょ?」
「うーん、まぁオープン前のプロモーションに成功したんでしょうね」
どうやって予約したの? 聞きたいのはそこだったが、紗由利はそこに答えなかった。なんとなく話題を逸らしたように感じた。紗由利は謎の人脈を持っている。「学生時代のバイト先で知り合った人にすごい人が多いんです~」なんて彼女は過去に言っていたが、バイトがなんだったのか聞いても「普通に接客ですよ~」と言って教えてくれない。普通の接客でそんな業界人や企業の重鎮みたいな人と人脈出来る? 卒業後も定職についているわけではなく、この人形のような雰囲気でふわふわと生きている。
「里奈さん、そんなことより注文しましょう。コースなんですけど、ピッツァとメインは選べます。メイン、黒毛和牛のほうもいいけど真鯛も美味しそうですよ」
紗由利に促されるままメニューを見る。
「やっぱ黒毛和牛かな」
「さすが、男らしい」
「女なんだけど」
「男より男らしいって意味です。ワインも里奈さんが選んでくださいね。ボトルにするでしょ?」
前菜が運ばれてきた。さすが話題の店だけあり、どの料理も趣向が凝らされている。見た目から美しく、一口頬張ると感動がある。
二人はとりとめもなく会話を続けた。紗由利は自分のことをあまり話さない。酒の力も手伝って気づくと里奈は自分のことばかりを語っている。
時折そのことが気になり紗由利に話を向けても
「私ですか? 相変わらずです。無為です。無為」
「無為……?」
「話して聞かせるような事件はないです。全てに抗わずそのまま受け入れ、ただ息をしているだけ。それより里奈さんの話を聞いていた方が楽しい。私、前にも言ったけど里奈さんに惚れているんです」
そう言って紗由利は里奈をまじまじと見た。
ワインはすでに空になりかかっている。紗由利はほんの少し顔を上気させて瞳が潤んでいる。ここから紗由利は変わらない。里奈は自分のことをまぁまぁ酒に強いと思っているが、紗由利には勝てない。紗由利が酔いつぶれるところを見たことがない。
「例の旦那さん……裕貴さんでしたっけ? まだ帰ってこいって言ってます?」
紗由利には、夫の裕貴とのことを軽く話をしていた。
「いや、諦めたみたいよ。最近は特に連絡もないし」
「里奈さんのこと追っかけて上京してくるかも」
「まさか」
「なんでまさかって思えるの? あ……里奈さん、まだ飲みますよね? すみません! 同じワインをボトルでお願いします」
紗由利はカメリエーレに声をかけた。2本目のボトルとともにピッツァが運ばれてきた。石窯で焼かれた、生地がパリパリでチーズがとろけている極上のピッツァをしばらく二人は頬張った。
「裕貴さん、上京してきたらどうします? 一緒に暮らします?」
今晩の紗由利はこの話題からなかなか離れようとしない。
「いまのマンションは狭いし無理だろうね」
居候のリョウのことを頭の片隅に思い出しながら里奈は答えた。
「引っ越してまで同居したくない?」
「そういうんじゃないんだけどさ」
紗由利はふっと笑った。
「ですよね。すみません、分かってて聞いちゃった」
「きっと一緒に暮らしてもぶつかるだけだろうね。元々結婚するときも会社は辞めてほしいと言ってたのを続けた挙げ句、単身で引っ越ししてく妻なんて」
「でも、夫が単身赴任する家なら、たまにありません?」
「そういう場合は、子供の学校とかの事情があったりするんじゃない。なにもなければ、普通妻が夫についていくんでしょ。裕貴は元々私に会社を辞めて家に入って欲しかったわけだし、妻が仕事のために上京していくとか理解不能だろうね」
「……どうして里奈さんを型にはめたいのかな」
「え?」
「仕事をしてる里奈さんはこんなにカッコいいのに。好きな相手に輝いてて欲しいと思わないのかな? 希望を相手に伝えるのは悪いことじゃないけど、相手が望んでいない状況にただ束縛するような希望を言っちゃう人って、もはや恐怖ですよ」
紗由利のその言葉が終わるか終わらないかの絶妙なタイミングでメインが運ばれてきた。
里奈は裕貴と共に暮らすイメージがもう湧かない。地元の高校で裕貴と出会った頃は何をしていても楽しかった。取るに足らない話でも腹をかかえて笑い合っていた。二人で東京の大学に入り、初めての都会に緊張しながらもお互いのアパートの行き来をしているだけで大人になった気がした。このまま二人で一緒に生きていくんだろうと確信した。
だが就職のとき、裕貴は地元に帰ると言った。里奈は地元には帰りたくなかった。でもそれは二人の別離を意味する。ここで離れたらきっと関係は破綻するだろうと思った。思えば……そもそも地元に帰ったことが、ボタンの掛け違いだった、と里奈は思った。
――あのときもっと真剣に二人の気持ちと描く未来を確かめ合うべきだった。
ドルチェが運ばれてくるころ、2本目のワインはすっかり空になっていた。普段はブラックコーヒーをしかめっ面で飲んでいる里奈も甘いドルチェを食べると少し気持ちが和ぐ。良い店だったね、里奈が紗由利に話すと彼女は微笑んだ。
店を出て、二人は歩いた。紗由利は銀座線の三越前までくると、決まって手を振る。ここからいつもどこかへ消えていく。
〝住んでいる場所〟を聞いてもはぐらかすか、時と場合によって変わるかなのに、何故かいつもここで手を振る。
大学時代の友人で今もこまめに声をかけてくれるのはいつの間にか紗由利だけになっていた。就職で東京を離れた里奈は卒業後の数年はなかなか皆に会えなかった。
転職して東京に戻る頃には友人達は結婚し子供が生まれ、里奈とは違う慌ただしさの中に生きている。ましてや結婚した相手を置いて独りでいる里奈の境遇は理解を得られず会話が続きそうにもなかった。
酔ったので夜風にあたりながら、そのまま自宅まで歩くこととした。裕貴がもし上京してきたら……考えないでもなかったが、彼の性格的にあり得ないような気もしていた。連れ戻しに来るならまだしも、彼が自分の意向を曲げてこっちで自分と暮らそうとするとは考えにくかった。
「裕貴さんが可哀想じゃない」
職場が東京になったので、引っ越す旨を告げたとき里奈は母に言われた。そう言われるだろうと予想していたら予想通りの台詞が返ってきた。
――お母さん、貴女の娘はとっくに夫と関係がこじれているんですよ。可哀想なんて向こうからしたらそんな風に思われること自体が腹立たしいはずです。
実際には母にそんなことは言わなかった。「二人で話して決めたことだから」そんな感じの返しをした。
ぼんやりと考えながら歩いているとマンションへついた。
ガチャ……鍵を開けて自宅に入る。リビングに明かりはついていた。
「おう」
「とりあえずメンテしてほしい」
ワインを飲みすぎたのか、頭痛がする。
「結構飲んだ?」
「うん、まぁいつもと同じくらい」
飲酒後のマッサージはよくない、至るところでそう言われる。分かっているが、つらいときは一刻も早く改善したい。酔っぱらっている自分に対してリョウが整体師としての正論をかましてこないことを里奈は心から願った。
リョウはそんな里奈の心を知ってか知らずか、何も言わずに施術を開始した。
しばらくして、無言の静寂を里奈は少しだけ気まずく感じた。
「ねぇ」
「ん」
「リョウって」
恋人とかいないの? そう繋ごうとして言い淀んだ。そんなこと聞いてどうする。酔いの回った頭で里奈は代わりの言葉を探した。
「むらっとする時とかないの?」
リョウの手が止まった。
「あんたさ……」
うつ伏せのまま里奈は内心、自分の叩いた軽口が外していることを悟った。だが、そのまま何事もなかったようにうつ伏せを続けた。
「自分の身体が、むらっとさせる要素あると思ってんの?」
リョウの低い声が部屋に響いた。辛辣な返し。ある意味里奈にとっては救いの返しだった。うつ伏せのまま、里奈はモゴモゴと言った。
「思ってません! てか、私にむらっとするかとか聞いてないし。
あまりにも修行僧のようだからさ。好きな人とかいないのかなって思って聞いただけよ……」
モゴモゴ言い終わらないうちに、リョウの止まっていた手は施術を再開した。首に繋がる肩回りを重点にほぐされ、少しだるさが解けた。
起き上がっていつものように筋肉の動きを見ながら、最後にリョウは言った。
「酒飲みすぎ。このままだとあんた、いつか死ぬよ」
淡々とした声色でリョウは言った。夜更けの部屋が静まり返った。リョウは何も言わず寝袋へ戻っていった。
いつか死ぬ。そりゃそうだ。人間だから。
いつかとは、いつだ?
リョウはただ一般論として言っている、頭では解っているのに里奈は呪いのように感じた。
仮に、今このまま孤独に命絶えたとして、夫はどんな顔をするだろうか。
何かがつかえている。身体の芯の部分に鉛が入っているようなだるさと吐き気がある。
ああ、そうか。
そろそろあの時期か。月に一度くる忌々しいもの。
子供を欲しいと願わない私には不要でただただ憂鬱な血の塊の一週間。
抜けないだるさに頭を抱えた里奈はそのままソファに丸まるように横になった。
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