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男子大学生は、なぜ「ツッコミ」をしてしまうのか。

大学の食堂や銭湯で、男子大学生の会話をよく耳にするのだけど、聞いていて辛くなるのが、明らかに芸人さんのツッコミを意識した抑揚で発せられる「ツッコミ」である。偽ノブや偽粗品が巷には大量発生しているのだ。

今回はこんな、お笑いが内面化した社会について、考えていきたい。

こんな本がある。怖くて読んでいないけど、おそらくこういう社会についてマキタスポーツが、警鐘を鳴らしているのではないか、と思う。

お笑いという化身を身に纏った人間がそこら中に溢れることのメリットデメリットについては、置いておくとして、今回は、なぜこうなってしまったのか、という見解について、一般論と自論に分けて、お伝えしていきたい。

一般論として、いろいろあるんだけど、自分が把握している中では主に3つ。

マキタスポーツさん、お借りします。

一つ目の松本人志の絶対的影響に関してはお分かりの通り、お笑い番組として権威の高いテレビ番組には必ずと言っていいほど、松本人志が絡んでいることに言えると思う。「すべらない話」「M-1グランプリ」「IPPONグランプリ」などなど。

ポイントなのは、そこでの松本人志のポジション。マイナーチェンジはあるものの、どの番組においても、俯瞰した立ち位置からおもしろコメントを補足していく役割なんだよな。ここの立ち位置に関しては、③の「ツッコミ」の優位性に接続される部分もあるんだけど、こういった役割を持つ松本人志がどんなカルチャーを作ってきたか、がポイントだと思うんだ。

こういった番組内で、彼が、先に述べたような役割を持つことで、「面白い」奴が評価される風潮をどことなく作り上げているわけだよね。これが、テレビの世界だけならまだしも、マスの影響力ってのは強いからもちろん世間も影響を受けちゃうんだろうね。これが一つ目の一般論。

二つ目の一般論としては、モテ要素としての「面白」。ここに関しては、説明するのがかったるいから下記の記事(個人的には納得いかない内容ではある)を読んで欲しいんだけど、要は面白い人がモテる、という風潮があるということです。てか、この一般論に関しては、よく理解できない。

面白い人とかっこいい人、どちらかを選べ、と言われたら、絶対にかっこいい人を選ぶはず(だと思う)だから、プラスアルファの要素でしかないのでは?と感じてしまうが、女性陣から是非意見を聞きたいものである。

三つ目の一般論として、挙げたのは、「ツッコミ」の優位性。コミュニケーションにおいて、ツッコミって本当に有利すぎる!ツッコミを入れるだけで、そのコミュニケーションの舵取りがツッコミ側に託されるのである。それはそうだよね、その場で一番、冷静に俯瞰している(ように見える)存在として認識されるわけだから。クールだし、どうやら偉そう。

やっぱり、このようにしてコミュニケーションを舵取りできる存在ってのは、強い(何が?)わけで、モテたり、羨ましがられたりするわけなんだよね。

「ツッコミ」に関して言及すると、最近のYouTuberに典型的に見られるんだけど、いかに秀逸な例えを用いてツッコむことができるか、が評価の軸となっているように感じている。「いや、それ、〇〇の△△かよ。」みたいな構文に載せて。

これに飽きている、つまらない、というわけではなけど、あまりに一般的になってきていて、そろそろニューウェーブ、来てもいいんじゃない??(ドャァ)と個人的には思うようになっている。

そもそも居酒屋や食堂で「ツッコミ」している人ってのは、「ボケ」のありがたみに気づいているのだろうか。本来「ツッコミ」は「ボケ」を宿主とする寄生虫みたいな立ち位置なわけで、優秀な「ボケ」がいないと、「モテること」も「舵取り」もできなくなるのである。僕たちは、そんな「ボケ」の想いまで、背負って「ツッコめて」いるのだろうか。

「ツッコミ」は身勝手だと思う。巷でのコミュニケーションにおいて、ボケてもいないのに、必要ないのに、舵を取るべく、わざわざ「ツッコミ」を入れていないだろうか、今一度考える必要があるはずだ。(お笑いサークル所属の茶番卒論風)

まぁ本当に計算高くて、すごいのは、「ツッコミ」ではなく「ボケ」の方だよね。「ボケ」の正体は「ツッコミ」というフィルターを通して、明らかになるんだけど、そのフィルターを通す余白みたいなのを残しながらコミュニケーションを取らなくてはならない。その余白の加減がいわゆる「技術」なのではないかと思いますね。

そう考えると、無闇に「ツッコミ」を入れるのは危険な気もしてきます。

ここからは、自論の話。個人的に思うこのお笑い内面化社会の背景について。これは、言い訳じみてしまうかもだけど、「共通言語」としての「ツッコミ」が成立しているのではないかな、と思うんですよね。

昔と比べて、触れているコンテンツは多角化・多様化しているから、共通の趣味がない人同士のコミュニティにおいて、会話に困ることが多いのではないか。人はそういう時、恋バナであったり、家族、天気の話、といったような共通のものを話題にあげるはず。

そこで、トークテーマではなく、コミュニケーションのもっと細部、発言のレイヤーにおいて、共通となっているのが、「ツッコミ」、ひいてはお笑いの文化なのではないか、と思います。何か共通の言語感覚で話そう、としたときに自然と出てしまうのが、お笑い芸人風の口調。これは面白い。

お笑い芸人の存在を見ない日はないくらいそこら中に溢れてる。テレビはもちろん、SNS、YouTubeにだってどこにでもいるし、どこいでも粗品やノブだっている。誰もが知っているアイコンが今ではお笑い芸人となっていて、コミュニケーションのアイコンとしての「ツッコミ」が成立し、氾濫しているんだと思いますね。

なんか、ここで不覚にも接続されるのが「エモ」。無難に「エモい」と言っておけばなんとかなる、みたいな意識と同じで、無難に「ツッコミ」を入れておこう、みたいな妥協の感覚が面白いと思われたい、という意識の他に潜んでいるのでは?と感じる。

ここまでずらずら書いてきたけど、まぁ正直なんでもいい。今週はネタ切れだった。

ただ、こんなものを書いてしまったからには、軽々しく「ツッコミ」を入れるのではなく、ここぞ、というときに、深部まで突き刺せる矛のような「ツッコミ」を入れられるように、毎日刃を研いで準備したいと思います。

はぁ、もうダメだ、完全に「ツッコミ」の檻に閉じ込められてる!!!



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