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二項対立的な考え方はわかりやすいが...

白か黒か、お金持ちか貧乏か、綺麗か汚いかなど、ものごとを対照的なふたつのカテゴリーに分けて考えることを一般的には二項対立という。

二項対立の考え方はわかりやすくて非常に短い時間で理解するのに適したカテゴリー分けかもしれんしれないが実際にそこに感情が入ると危険なものになりかねない。

今回はアメリカの心理学会のメンバーのひとりであるJennifer Litnerさんの記事が非常に興味深いのでそちらの要約と個人的な見解について書いていこうと思う。




実際に世界の心理学会のコミュニティのなかではこのような思考パターンを「二項対立的思考」または「Black and White thinking (白黒思考法)」と呼んでいる。この思考パターンは、世の中で起こっていることの複雑で微妙なニュアンスをより簡潔にわかりやすく伝えるためにできたとされている。

そしてアカデミックな専門的な分野に限らずこの思考方法は私たちの生活のなかでよく使われる考え方でもある。現在ではネガティブな考え方としてもとらえたれていることもあり、極端な考え方や偏った考え方になることもあるの代表的な思考法として認識されていることもある。

例えば「私は成功者か失敗者か、勝ち組か負け組か、優しいかひどいか、美しいか汚いか」など様々なものに応用することができる。

たしかにわかりやすい。ただ同時に危惧すべきは「分断」だとわたしは思う。


Jennifer Litnerは記事のなかでこのように例を挙げて言っている。「何でもありの考え方では、まんなかの中間点を見つけることができません。そして多くの人がエベレスト山脈やマリアナ海溝に住まないのには理由があり、それは気候や天候の条件などが極限な状態や環境のなかで生活を維持するのは非常に困難だからです。」と例えている。

そして考え方と生活行動は常にリンクしている。だからこそ極端な考え方や生活をおこることはできるかぎり避けたいと考えるのが一般的には多いとされる。

しかし面白いことに、記事のなかの説明に基づくと「人間はよく時々、二項対立的な考え方をあえてしており、実際にそのパターンの由来は人間の生存に必要な闘争・逃走反応からきているのではないか」という説がある。

つまり、自分たちの過去である先祖代々そしてこれからの子々孫々と二項対立的思考はどの時代にもあったのではないか。また細かいニュアンスや部分を削ぎ落とすので、ロジックかつわかりやすく簡潔な考え方として人に伝えるうえで非常にわかりやすい分け方ではある。


では自分の意見になるが、個人的には「白か黒か」で考える二項対立的思考法が習慣になったり、そこに感情がまざってしまうと様々な問題がハッセうすると考える。

例えば

- ひととのお付き合いの場面で「悪い人」「嫌いなひと」との関わりを一切断ち切って「良い人」「好きな人」とだけかかわるようにする。

- 「嫌いな仕事」なのですぐに仕事を辞めたり、人を解雇したりする
職場の「嫌いなひと」との人間関係を断ち切る

- 「数学は向いている」からする、でも「英語は向いていない」からしない。実際に自分のリミットを簡潔に「できる、できない」「好き、嫌い」「向いている、向いていない」で片付けることは非常に楽ではあるがあらゆる可能性を自分で遮断して殺してしまうことにもつながる。

点数での評価ではなく「成功か失敗か、合か否」「有か無」という考え方の産物であり、失敗(0~59点)が成績評価の半分以上を占める絶対評価のもとでの成績評価システムから自然に生まれたものである。

場合によっては学習の成果を測るために、「合格か不合格か」という単純な二項対立を設けているものもあり、それで人生は大きく左右される。

そして白と黒の2つしかない選択肢のプレッシャーにつぶされるひとも必ずいる。自分の学業成績を二分法的に考えてしまうのは、あまりにも簡単なことであるが、同時に人生を左右する大きなことや人間関係、ビジネス、政治いろんな用途において簡潔に片付けることはある意味残酷でもあると私は思う。

個人的には「勝ち組」「負け組」という言葉に非常に違和感を覚える。だが自然と二項対立的な考え方をしている自分もそこにいる。

その点アートなどの主観が入るものには点数がつきにくく、むしろつけることがタブーとされることもしばしば。

複雑性のあるわかりにくいずれや歪みのあるものに美しさを感じる自分でありたいと思う。わかりやすさも大事にしながらわかりにくさも大事にしたい。


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