見出し画像

「しなやかな知」について

「役に立つ知」は、どのようにして身につくのだろう。


「役に立つ」と言うとき、そこには2つの意味が含まれている、と考えてみようと思う。

・個人として、状況(文脈)に応じて、適切に使えること。

・知恵自体が、時代や環境に応じて、更新されていること。


別の言い方をすれば、「しなやかな知」と言えるかもしれない。

「知」とは、なんだろう。

そもそも「知」とは何か。

それは、なにか教科書などに書いてある「情報」のことだろうか。僕たちは、その「情報」を頭の中にある引き出しから、ひょいっと出しているだけなのだろうか。

知識はさまざまな感覚の競合・協調によるマルチ・モーダルシミュレーションであること、また認知が環境・状況のリソースをふんだんに活用している ことは、知識がモノとして存在しているのではなく、その場その場で生み出される、つまり創発されるということを示している。知識についてのこの ような創発的な見方を、コト的知識観と呼ぶことにする。

鈴木 宏昭『私たちはどう学んでいるのか ―創発から見る認知の変化』 (ちくまプリマー新書)


「知」とは、もっと、そう、「しなやか」なものであるらしい。

そのイメージの輪郭を掴むきっかけに、「形」と「型」の比較を見てみたい。

西洋の「形(フォーム)」には、日本語で言う「型」と「形」の両方の意味が含まれている。形は、視覚的な形態、実際に行動に現れるパターン、または固定的な形式や様式を意味している。他方、型は、事実であるよりは「かくあるべし」という規範を意味している。…(中略)…形が固定して静態的な形象を指しているのに対して、型はダイナミックな過程を指す。…(中略)…型とは、形の形、いわば、さまざまな形で実現され一段階、抽象化された形である。
…(中略)…
型が固定し、安定し、約束事のようになった場合、それはもはや進歩せず、形式主義的な形へと落ち込んでいく。

河野 哲也『間合い 生態学的現象学の探求』(東京大学出版会)


旅する「知」

そうか。
「知」とは、人という入れ物を旅する遺伝子のようなもののようだ。
「知」は、人から人へと渡り歩き、その"入れ物"という環境や文脈と相互作用して、熟成し、そして変化する。
だから「知」とは、個人に宿るとも言えるし、集団に宿るとも言える。
そして「知」は、変化することを宿命づけられているし、要請されている。

その「知」の旅は、過去からの「知」の伝承であり、その「知」を土台にした個性の開花であり、未来に向けた「知」の進化である。


その営みは、まさに伝統芸能において行われていることであろう。
「型の稽古」ということに関して、世阿弥に「似する。似せぬ。似得る(にうる)。」という言葉があるそうだ。

たとえば、男の役者が女の役を演じるとき。

まずは、女性の仕草を真似ることから始める。これが「似する」。但し、漠然と・全体的に真似るということではなくて、その仕草の「要点」を見抜いて真似る、ということが大切らしい。

そうしているうちに、「似せよう」という意図を強く持たずとも似てしまう境地に達する。これが「似せぬ」。自然とそのような意図から離れていくこともあれば、無理やり引き剥がすように離れようとすることもあるらしい。

その境地の先に、切り拓かれていくのが「似得る」の平原である。それは、確かに対象に似ているのだけれど、それと同時に、役者が役柄を内側から生きているような姿でもある。その姿は、役者ひとりひとり、違っている。

この3つのプロセスは、順を追って移行していくというよりは、互いに緊張関係を持ちながら成立するもののようである。

「似得る」は、それ以前の二つの段階を内に併せ持つ出来事として理解される。「似する」と「似せぬ」は、そのままでは両立しないのだが、あたかも二つのベクトルを合成して第三のベクトルが生じるように、「似得る」という新しいベクトルが生じる。
つまり「似せぬ」は、「似する」の打ち消しではなく、むしろ「似する」と緊張関係を持つことによって、新たな動きを生じさせる役目を果たしていることになる。

西原 直『稽古の思想』(春秋社)

集団と溶け合う「個人」


この営みを「人」の側から眺め直すと、他者や社会と相互に接続・依存しながらも自律している個人の姿が浮かび上がってくる。

他者とつねに接続し、他者と相互に依存しあうなかで構成される個人が発揮する創造性は、一方で個人の持つかけがえのない能力と技量に規定されながら、他方では個人という存在を越えて社会(共同体)からの働きかけや、個人から社会(共同体)へのアクセスによって(そしてその両方の同時生起によって)生成されている。

松田 素二『集合的創造性 コンヴィヴィアルな人間学のために』(世界思想社)


その「知」の”宿場”である人は、自律した個人であると同時に、共同体の要素でもある。
そういうことになるだろう。

実践としての「徒弟制」(あるいはOJT)

その典型的な形は、「徒弟制」なのかもしれない。師匠と弟子は、それぞれ、自律した個人であると同時に、共同体という環境の要素でもある。

『状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加』(ジーン・レイブ、産業図書)によると、弟子は、周辺から徐々に中心に向かって共同体に参加し、その過程において師匠の背中を見ながら「知」が活用される文脈を学ぶ。そういう過程を通じることで、単なる座学とは違った「実践で役に立つ知」を体得していく。
「知」は師匠から弟子に伝承されるが、同時に弟子はその「知」を土台に個性を発露させ、その過程を通じて「知」は時代に即したアップデートを重ねる。


この記事が参加している募集

探究学習がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?