「しなやかな知」について
「役に立つ知」は、どのようにして身につくのだろう。
「役に立つ」と言うとき、そこには2つの意味が含まれている、と考えてみようと思う。
・個人として、状況(文脈)に応じて、適切に使えること。
・知恵自体が、時代や環境に応じて、更新されていること。
別の言い方をすれば、「しなやかな知」と言えるかもしれない。
「知」とは、なんだろう。
そもそも「知」とは何か。
それは、なにか教科書などに書いてある「情報」のことだろうか。僕たちは、その「情報」を頭の中にある引き出しから、ひょいっと出しているだけなのだろうか。
「知」とは、もっと、そう、「しなやか」なものであるらしい。
そのイメージの輪郭を掴むきっかけに、「形」と「型」の比較を見てみたい。
旅する「知」
そうか。
「知」とは、人という入れ物を旅する遺伝子のようなもののようだ。
「知」は、人から人へと渡り歩き、その"入れ物"という環境や文脈と相互作用して、熟成し、そして変化する。
だから「知」とは、個人に宿るとも言えるし、集団に宿るとも言える。
そして「知」は、変化することを宿命づけられているし、要請されている。
その「知」の旅は、過去からの「知」の伝承であり、その「知」を土台にした個性の開花であり、未来に向けた「知」の進化である。
その営みは、まさに伝統芸能において行われていることであろう。
「型の稽古」ということに関して、世阿弥に「似する。似せぬ。似得る(にうる)。」という言葉があるそうだ。
たとえば、男の役者が女の役を演じるとき。
まずは、女性の仕草を真似ることから始める。これが「似する」。但し、漠然と・全体的に真似るということではなくて、その仕草の「要点」を見抜いて真似る、ということが大切らしい。
そうしているうちに、「似せよう」という意図を強く持たずとも似てしまう境地に達する。これが「似せぬ」。自然とそのような意図から離れていくこともあれば、無理やり引き剥がすように離れようとすることもあるらしい。
その境地の先に、切り拓かれていくのが「似得る」の平原である。それは、確かに対象に似ているのだけれど、それと同時に、役者が役柄を内側から生きているような姿でもある。その姿は、役者ひとりひとり、違っている。
この3つのプロセスは、順を追って移行していくというよりは、互いに緊張関係を持ちながら成立するもののようである。
集団と溶け合う「個人」
この営みを「人」の側から眺め直すと、他者や社会と相互に接続・依存しながらも自律している個人の姿が浮かび上がってくる。
その「知」の”宿場”である人は、自律した個人であると同時に、共同体の要素でもある。
そういうことになるだろう。
実践としての「徒弟制」(あるいはOJT)
その典型的な形は、「徒弟制」なのかもしれない。師匠と弟子は、それぞれ、自律した個人であると同時に、共同体という環境の要素でもある。
『状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加』(ジーン・レイブ、産業図書)によると、弟子は、周辺から徐々に中心に向かって共同体に参加し、その過程において師匠の背中を見ながら「知」が活用される文脈を学ぶ。そういう過程を通じることで、単なる座学とは違った「実践で役に立つ知」を体得していく。
「知」は師匠から弟子に伝承されるが、同時に弟子はその「知」を土台に個性を発露させ、その過程を通じて「知」は時代に即したアップデートを重ねる。
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