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『好きなローカルルール』で生きてもイイ空気感にする

世の中には「なんだか変だな」がたくさんある

世の中には「何か変じゃない?」ってことがたくさんあります。

  • 部下を潰したのに偉くなる人

  • お客様だからって偉そうにする人

  • 部下が傷つくほど怒る上司

  • 炎上マーケティング

  • 邪魔な場所で写真撮りまくるインスタグラマー

  • 迷惑行為で視聴数稼ぐYouTuber

  • 初対面なのにタメ口の会社役員

  • キラキラ投稿を見てちょっとソワソワする自分

  • 老後のためだけに40年間やりたくもない仕事をする

  • 大企業に入った方が偉いみたいな空気

  • 大企業はオワコン、ベンチャー正義みたいな空気

  • 就活失敗したら人生オワリみたいな空気

  • 圧迫面接してくる面接官

原因は「経済的な価値を生む人間の方が偉い」という画一的なヒエラルキー

一方で、例えば今この瞬間、あなたの横に東証1部上場企業の社長が座ったとします。 何となく「丁寧に接しなければ」と思ったり、へりくだって接してしまう人が多いのではないでしょうか。

もちろん、知ってる人だったり、自分が尊敬する人だったりするのであればそれで構いません。 ただ、どこの馬の骨ともわからない『上場企業の社長』にもそうなってしまうのはなぜでしょうか?

それは、世の中を覆う大きすぎるヒエラルキーと、それを支える無限成長主義が、無意識レベルでぼくたちに染みついているからです。

ここでいう”大きすぎるヒエラルキー”とは、『会社で偉くなる』『お金を稼いでいる』『有名である』など色々な表現はありますが、要するに”『経済的な価値を生む人間の方が偉い』というヒエラルキー”です

ぼくたちは、知らず知らずの内に、このヒエラルキーの中に放り込まれ、その中で落ちぶれないための競争にいそしんでおり、またヒエラルキーの中で自分より明らかに上にいる人に対して、無意識にへりくだってしまいます。

問題なのは競争ではなく「ヒエラルキーが画一的である」こと

一方で、競争や番付(≒ヒエラルキー)が全くないことが、本当に良いことなのでしょうか? 全員で手をつないでせーのでゴールするリレー競走も、それはその美しさがあるのかもしれませんが、サッカーに勝敗がなくても面白いとは思いません。

ただ、小学校~高校まで、全員が絶対にサッカーをやらなければいけないとしたら、どうでしょうか?もしくは、小学校~高校まで、教科が『数学』しかなかったら、どうでしょうか?

きっと、サッカーか数学が得意な人にとっては楽園でしょう。 ただそれ以外の人にとっては地獄です。

一方で、選択肢が複数あっても、 「将棋部よりサッカー部の方が何かイケてる」 「家庭科が得意な人より英語が得意な方が何となくスゴい」等、結局はスクールカースト的な大きく画一的なヒエラルキーの中に選択肢自体が組み込まれてしまっていて、オモシロくない、と感じている人も少なくないでしょう。

では、『経済的な価値を生む人間の方が偉い』というヒエラルキーについてはどうでしょうか。 同じことが言えないでしょうか?

目指すのは「好きな”ローカルルール”で生きる」こと

”ヒエラルキー”というと何となく難しいので、ぼくは個人的に”ルール”という言い換えをしています。今一番メジャーなのは『経済的な価値を生む人間の方が偉い』というルールです。

ただ、人には得手不得手があり、好き嫌いも異なる中、全員が同じルールのゲームに参加、という前提は、あまりにもツマラナイ。
そのルールで勝てなければ「価値がない」ように扱われる人がいるのは、とても美しいとは言えない。

サッカーをやる人もいれば茶道にいそしむ人もいるように、 好きなルールで人生を遊びたい。そうすることが、アタリマエの世の中になってほしい。

『好きな”ローカルルール”で生きてもイイ空気感を作る』
これが、ぼくが目指す世界観であり、㈱ブギウギのパーパスです。

※『資本主義はぶっ壊せ!』ではない
こう書くと「資本主義はオワコン」みたいな議論のようにも見えますが、全く違うと思っています。 ぼくたちの 生活をより便利にしてきたのは、資本主義や無限成長主義に他ならないと思っています。また、そうでなくと、それなりの面白さもあります。
ただ他の価値基準や、価値の測り方も、同じくらい認められる方が、生きることが面白いと思える人が増えるのでは、と思っています。

一方でぼくたちは、自分の存在意義を見出すために、画一的であることを望んでいる

一方で、もちろん、この画一的なゲームやルールは、神様から与えられたわけではありません。 ぼくたちが自分で作り、育ててきました。

それは、ナンダカンダ、その方が、自分の存在意義を感じやすいからです。
承認欲求やエゴなど色々と言い方はありますが、とにかくぼくたちは、自分の存在意義、存在して良い理由を求めながら生きています。

その中で、苦しいことや思い通りにいかないこともありますが、その時に 「あの人よりはマシ」 「彼らよりは意味のある人間だ」 と思うことで、自分の尊厳を保とうとしてしまうことがあります。

大企業で上手くいってない人がコンビニ店員を見下したり、親御さんに認められない子供が別の子供いじめをしてしまったり等もこれにあてはまるかもしれません。「先進国の方がアフリカ諸国より幸せ」というのも同じ思い込みかもしれません。

自分より存在意義のない人間を探すためには、「大企業社員よりコンビニ店員の方が格下」というような、単純で画一的なルールのゲームである方が、都合がいいのです。 事実や真実とは関係なく。

「下を見なくても存在意義を感じやすい空気感」を作りたい

ぼくたちは、放っておかれると、短期的な苦しみから逃れるために自分から世界をあえて画一的にとらえてしまい、一方でそのせいで中長期的には自分で自分の首を絞めていることになります。

かといって、「強く在れ!」と言われても、正直ピンときません。なので、ぼくは原因療法として、下を見て存在意義を確認しなくても済むように「そもそも存在意義を感じやすい空気感を作る」ことに取り組んでみたい、と思っています。

『存在意義を追い求めるラットレースをなくす』
これが、㈱ブギウギのビジョンです。

言い換えれば、「多様性を認めるために、まず自分の人間性認められる必要がある」ということです。

存在意義を感じるには、「いい人間関係を持つ」が唯一の方法

ぼくたちは、つい『ナニモノかになりたい』と思いガチです。 有名になれば、フォロワーが増えれば、お金を儲ければ。 いつか満たされるんじゃないか、と思いガチです。

ただ、実際は、それでは満たされることはないのでしょう。 ぼくもナニモノかになったことはないのでわかりません。 が、大昔から、小説・映画・ドラマなどで、さんざん言われてきたことです。

では、どうしたらぼくたちは満たされるのでしょうか?
ハーバードで行われた、「人間の幸福と健康」についての有名な研究では、次のように言っています。

“the quality of close relationship, that matters”
「親密な人間関係の質、これが重要だ」

この研究では、やはり家柄、学歴、職業、家の環境、年収や老後資金の有無は重要ではなく、人間の幸福度に関係があったのは人間関係である、としています。

言われればアタリマエですが、忘れがちで、大切なことです。

「貢献できている感」が必要

”いい人間関係”と言っても、”いい”かどうかはとても主観的です。定義はおろか、たどり着く方法も解明されていません。

一方で、上記ハーバードの研究の他にも、人間の幸福についてのお話はたくさんあります。(宗教の経典等はほとんどそうかもしれません) その中でも、ぼくが直感的に「確かにそうだな」と感じるのは、次の3つです。

  • マズローの「欲求段階説」

  • 禅における「幸せの要素」

  • アドラーの「人間の幸せ」

マズローの「欲求段階説」/  禅における「幸せの要素」 / アドラーの「人間の幸せ」

詳細は省きますが、この3つに共通すると思うのは、「人に必要とされているor認めらていると感じる」 「人の役に立っていると感じる」 の2つが、幸せになるためには必要だ、という点です。

この観点で言えば、ぼくたちが持つ「ナニモノかになりたい」という気持ちは、「社会の役に立っていると感じたい」と言い換えられるかもしれません。

一方で、この『社会』は、個人が役に立つためにはあまりにも大きすぎます。そこで、ぼくたちは『会社』を作り、会社を通して社会の役に立とうとしています。 ただ、現代では社会も会社も大きくなりすぎていて、かつ複雑に細分化されているので、実際のところ、「わたしは会社を通して社会に貢献してる」と実感できている人は多くはないのではないでしょうか。

スゴいことをしなくてもイイ、身近でもイイ

一方で、人生の中で幸せ、ないし「充実感」のようなものを感じたことがある人もいるでしょう。「あの時期は忙しかったな~」「青春だったな」「割と楽しかったな~」とか、そういう時期です。

自分の人生では思い当たらない人もいると思いますが、「充実してそうな人」を思い浮かべてみてください。

そういう時やそういう人って、「人に必要とされているor認めらている」「人の役に立っている」感じがしませんか?

「社会」という枠では大きすぎますが、個人間や身近な集団であれば、幾らかハードルが低そうじゃないでしょうか?

迷惑をかけてもアタリマエな世の中へ

例えば、ちょっと自分が知ってることを、友達や同僚に教えてあげるだけでもいいです。 余ってるコスメをあげるだけでもいいです。 家庭に悩んでいる人の話を聞くだけでもいい。 何かビジネスを始める人がいたら、応援したり、少し壁打ちに付き合ってあげるだけでもいい。 同窓会したい人がいたら、ノッてあげるだけでもいい。

そういうことしてる人って、何か「人に必要とされているor認めらている」「人の役に立っている」ように、もしくは充実してるように見えませんか?

ただ、問題もあります。 ぼくたちは「人に迷惑をかけてはいけない」が体に染みつきすぎて、人への頼り方を忘れてしまいました。 何かをしてあげたくても、何をして欲しいかがわかりにくくなってしまいました。

また同時に、何かをしてあげても、「偽善だ」と言われたり「責任とれないことをするな」と言われたり。

何でもかんでも『自己責任』にしたせいで、ぼくたちは自分で自分をどんどん孤立させていってしまっています。

「迷惑をかけてもアタリマエ」な空気感を作ることで、人に認められる機会、充実した時間を増やしたい。

”迷惑かけ合う方が楽しい”をアタリマエにする。
これが、ブギウギのミッションです。

💡 『他人に流されない人』は、すでに達成している人
世の中には「自分がある」「軸がある」と言われる人たちがいます。 言い方を変えれば、すでに、画一的なヒエラルキーから飛び出して、自分独自の価値基準で動いている人。自分の好きなゲームで好きなように遊んでいる人。また、その前提として、「人に必要とされているor認められている」「人の役に立っている」と、頭のどこかで何となく実感できている人たちです。  彼らは、自分が認められているがゆえに、他の人の多様性を受け入れることができ、多様性を受け入れることができるからこそ、色々な人と人間関係を維持できて、またその関係から「認められている感」を実感できる、という正のスパイラルの中にいるといえるでしょう。  ブギウギでやりたいことは、彼らのような人を増やすことです。また、そうして彼らが『特別』ではなくなることで仲間が増え、さらに人間関係やコミュニティを拡大できるようにすることです。

Purpose / Vision / Missionまとめ

自分が楽しい、苦しくないと思う方法で生きればいい、という空気感を作りたい。

そのためには、それぞれが自分の存在意義を十分に感じることで、人の多様性も受け入れる必要がある。

みんなが広く存在意義を感じるために、身近な人と頼り合ったり助け合うのが良いけど、”迷惑かけてはいけない”って刷り込まれてて助け合いにくい世の中。

だから、とりあえず『”迷惑かけ合う方が楽しい”をアタリマエにする』から始めます!

Purpose:ブギウギが最終的にやりたいこと
好きな”ローカルルール”で生きてもイイ空気感を作る

Vision:Purpose達成のためにブギウギはどういう存在であるか
存在意義を追い求めるラットレースをなくす

Mission:Vision達成のためにブギウギは何をするか
”迷惑かけ合う方が楽しい”をアタリマエにする

推してくれ!!!

というわけで、今は『”迷惑かけ合う方が楽しい”をアタリマエにする』ためのサービス開発をしています。(近日中ローンチします!)

一方で、ローンチするだけで空気感を作れる魔法のアプリはないので、皆さんに使って頂きながら、デザインや機能含めて一緒に進められたらいいなと思っています。㈱ブギウギは、1人でも多くの仲間を求めています!!

  • 陰ながら応援してる!

  • 確かにそうなったらイイよな~

  • これからどうなっていくのか気になる

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このままだと、このままです。
一緒に空気感、作りませんか?

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