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「息の詰まりそうな子どもと立ちすくむ大人のマガジン」その後(3) 抑圧の構造と優しさについて

写真は、近所の子が描いてくれた、僕のイラスト。(内容と関係ない)

タイトルからもお分かりの通り、この本の大きなテーマの1つは「抑圧」です。序章から第5章までは、地域の人々の声をベースに、ぼくたちの目の前に実存する、子どもへの抑圧のラインナップを紹介していくような構成になっている。扇動でもなく、センセーションでもなく、淡々と構造を暴露していく。第6章でようやく一息付くための実践が提示され、解決の方向性が提示されたように見える。

しかし、終章では「ここで(あなたに対して)具体的なアクションは提示できません(p.61)」と宣言し、「子どもの意見を受け止めようとすると、大人が今までどおりに行動することはできなくなる(p.62)」と断じ、これからも大人たちが変われなくなった場合にやってくる「絶望のシナリオ」を提示して、この本は終わる。まるで、崖っぷちのギリギリまでアクセルを全開にして走っていくチキンレースのようだ、と思っていた。

最近、読者の方から下記の感想をいただいた。

息が詰まりそうな子供と
立ちすくむ大人について書いているのに、
なぜか読後には優しい気持ちになれる。
教育関係者や親だけでなく、
「大人」として社会と関わる全ての人に
読んでみてほしい一冊でした。

「なぜか読後には優しい気持ちになれる」という感想は、僕にとっては嬉しくもあり、ちょっとだけ意外でもあった。

この本では、子どもだけでなく大人も共に抑圧の対象として扱っているので、子どもと大人を共に「息の詰まる」状態から脱出するための方法論についても記載している。「あなたの得意な領域で子供の意見(views)を受け止めながら活動すればいい(p.61)」といった箇所は、そうした記述の1つだ。目先の問題や課題設定に視野を限定されることなく、社会の構造そのものを考察の対象にできるように努めた。簡単に言えば「罪を憎んで人を憎まず」のようなものだ。

自分では想定外で、意外だったけれども、もしかしたら、このあたりが「不思議な優しさ」と感じることに通じた、のかもしれない。相手を覆い尽くすパターナリズム的な姿勢とは違う、開放されて息が出来るようになろうとする願いの姿勢から来る「優しさ」。ぼくはそれを感じたいし、それを地域で実現したいし、それを表現したい。そう思った。

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