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通訳者の使命

国語を中学生に教えることがある。優れたテキストには、優れた文章が掲載されている。そこから教えられること、考えさせられることによく出会う。今回も、「通訳」についての長井鞠子さんの文章を味わうことができた。というより、読みながらもう興奮して、笑ったり膝を叩いたり、もう分かりすぎるほど分かる経験をしたのだった。
 
『伝える極意』という新書からの引用であった。本の、殆ど初めの箇所である。通訳者が、元の発言をどう「加工」することが許されるか、がテーマとなっていた。本でいうなら、逐語訳か意訳か、という問題があるが、しょせん外国語は、意訳なしでは通訳できない。ではそれは、どこまでやってよいのか、という関心からくる問題である。
 
「伝説の名通訳者」の例を出して、政治の場で、実際に口に出した言葉をそのまま訳したのではなくて、言おうとしたこと、言うべきだったことを訳す場合があることを示す。その上で、「言葉を正確に伝える」ことと「内容や意図を伝える」こととのアンチノミーが存在するということを、読者に提示するのだ。
 
もちろん、ご想像の通り、そこでの結論は、真に「伝える」ということの意味へと目を向けさせるものであった。筆者は繰り返し、それには「正解がない」とは言いつつも、発言内容を相手の「心」にまで伝えて初めてコミュニケーションが成り立つのだ、という点だけははっきりさせようとするのであった。
 
これを妻に見せた。妻は、教会で手話通訳を担当していた。そして、手話そのものへの探究もさることながら、どのようにして福音をろう者に「伝える」か、ということをモットーとしていた。いくら教会で福音が語られても、ろう者はそれを直に音として聞くことはできない。ろう者は、教会の福音から疎外されている。なんとかライブで、語られる言葉がもたらす神の言葉、神の出来事を伝えたい。共に神を礼拝したい。その熱い思いから、ろう者の耳になることを望んだのである。魂を生かす説教が有れば、それをなんとかしてろう者に届けたい、と思ったのである。
 
しかし、それに恵まれない場へと、教会がすっかり変わっていってしまった。自分はなんでこんな、ただの「聖書についてのおはなし」を手話で「礼拝」という場で伝えなければならないのだろう、と絶望しながら通訳することが多くなった。時に、説教者を「きっ」と睨んで、そんなくだらないことばかり言わないで福音を伝えろ、とサインを送ったこともあるが、もちろん説教者はそんなことには気づかない。そもそも福音を知らないために語る能力も資格もないとあっては、無理な注文であった。
 
そこまで言うのなら、こういう素晴らしい神の思いを重ねていけ。人に命を与えるよい説教をたくさん知っている妻は、全くそういうもののない話に、嫌気がさしていた。その語る者自身が、聖書も神も知らないのだ。上辺だけ勉強して、どこかで書かれてあるようなことを並べてみても、そこに命はない。神が語ることではないから、肝腎なことが何も出てこない。
 
そのため、語られるより先に、福音を手話でもう表している、ということもあった。そもそも語る言葉よりも、手が先に動くというのを、私も何度も見ていた。だからただの「聖書についてのおはなし」であるために口に出して語られてなどいないことを、神の心を思いつつ手話で補って別の話を伝えていることも、何度も見た。そしてそれが正しい「福音宣教」であったことを、私が保証する。
 
それだから、妻はこの長井氏の文章を見て、大笑いした。その通りだ、素晴らしいことが書かれている、と大喜びだった。そこには、たとえばこんなことも書かれていた。
 
――「何を伝えないのかよくわからない」「そもそも伝える気があるのかどうかも疑わしい」と思える発言には腹が立ちます。
 
完全に、彼女が経験していることが文字にされていたのである。さらに続けて、こう書かれていた。
 
――逆に、伝えるべき内容と、伝えたいという意欲を持った発言者の言葉は、通訳者としてのプロ意識・使命感を奮い立たせてくれます。
 
もう拍手を贈りたいくらい、礼拝説教の手話通訳者がしみじみ分かることである。だから、教会で手話通訳者のいるところでは、説教者は知っておくがいい。あなたの語ることが、そのまま右から左へ渡されているのではない、ということを。優れた手話通訳者は、つまり福音を伝えたいとの使命感をもった通訳者は、あなたの語っていることではないものを手話で伝えているかもしれないのだ。
 
無神経に、人間はみな音が聞こえて当然だ、という前提で話を進めるようなことをしていたら、手話通訳者は、それを伝えないだろう。聖書にこうあります、私たちもこうしましょう、などと、聖書を観察対象としてしか見ていないような者が語っていても、通訳者は、勝手にそこから全然別の福音の物語を伝えているかもしれない。そうとう頭を使ってやり続けなければならないから、しんどいのだけれども、実際、それをしていた人が、私の傍にいる。それは拙い私がやるときにも同じであった。
 
ところで、通訳者は、発言者の言いたいことをよく汲み取って、それを伝えることが目的である、というふうにその本の筆者も考えているに違いないのだが、これをもう少し立体的に考察してみよう。礼拝説教の手話通訳がどうであるか、は上に話したが、そもそも説教者自身はどうなのであろう。
 
説教者は、神からの言葉を、会衆に伝えることこそが、使命ではないのか。
 
つまり、ここで言ってきた「通訳者」の姿勢は、実のところ「説教者」の姿勢を教えているはずなのである。説教者は、神から言葉を聞く。それを、人の言葉で人々に語って伝える。神はこのように言っている。神はこうしてあなたを救う。それは通訳者の思想ではない。神の思いを、聞く耳のある者に伝えるはずなのである。
 
そのように語っている説教者の説教であったら、手話通訳者は、きっと逐語訳をしていることだろう。それほど頭を使うこともなく、ただ霊の流れに身を任せて、神を信頼して、心地よく手を動かしていることだろう。そうですよ、これが福音ですよ、と、とても楽しそうに。

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