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聖書の文学性

文学作品のあらすじを集めた本がある。手っ取り早く、その物語がどういう内容であるのかを教えてくれる。受験生のために役立つ本であるようだが、中には、大人相手に編集したものもある。「中学生の数学を◯時間で……」のような企画の意図に近いものと思われる。
 
だが、これは文学が相手である。文学をあらすじで見てしまうというのは、心ある文学者ならば、すべての人が否定する行為であろう。そもそも、文学たるものは、あらすじ化することができないのである。
 
礼拝説教についても、そうした文学性を指摘した人がいる。教訓的な結論が出ればそれでよし、とするのではないはずだ、と言うのである。
 
聖句を大切に握りしめることは、必要である。困窮のときに、神の言葉のほんの一節が、力になることがある。説教で開かれた聖書の言葉でもいいし、そこで触れた聖句でもいい。心に留る出会いというものはありうるし、あることが望ましいとさえ思う。それが命綱となって、それに縋ることで、救いの道が拓かれることも当然あるはずである。
 
しかし、聖書は殆どの場合、何らかの脈絡の中に、その聖句を置いている。脈絡を無視して、自分に都合の好いように聖句を解釈してよいかどうか、という問題が生じる所以である。その句だけを見て、聖書が分かってしまったかのように錯覚することは、へたをすると命取りにすらなりかねない。
 
人心を操りたいカルト宗教は、そのようなことを画策して、聖書の中に都合の好い言葉を探す。ほら、聖書にはこう書いてある、と言えば、聖書を信奉し始めた人は、それに従うことをよしとするであろう。「聖書はこう言っていますよ」などと聖書を利用して、聖書ならざるものの奴隷になってゆく危険がそこに潜んでいる。
 
文学作品を要約することができないように、聖書も簡単に要約しないほうがよいように思われる。聖書は実に多面的に人に迫る。万人に共通する教えによって、画一的にコントロールされるようになると、危険な場合があるのである。
 
どだい、神の思いを簡潔にまとめることなど、人間にできるわけがないのである。ただ、極めて多様に解釈される原理というものは認められ得るし、それを、神に出会った各自が自分にとっての問題として受け止めることは可能であるだろう。たとえば「神は愛である」という言葉は、切り崩す必要がない。その「愛」は実に多様に、私たちに迫ることであろうし、一人ひとりの信仰を支えることになるだろう。
 
文学に触れるというのも、そういうことである。一人ひとりの生き方に介入することができるし、読者に新たな経験をもたらすことができる。聖書を道徳の項目や教義の羅列にまとめてしまうことは、厳に慎まなければならない。それは自分を神とすることへの罠となるからである。

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