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『知的障碍者と教会』(フェイス・バウアーズ;片山寛・加藤英治訳;新教出版社)

250頁ほどのB6版の本であるが、新教出版社ということで、装丁は地味である。サブタイトルに「驚きを与える友人たち」とある。友人とはもちろん、タイトルでいう「知的障碍者」である。
 
そもそも「しょうがい」の表記すらいま困難がある。「障害」の「害」の字がよくないということで、「障碍」とする人もいる。それはナンセンスだという人もいれば、漢字でなく「しょうがい」としよう、と提言する人もいる。中には、当事者が、「障害」で構わない、という声もあり、表記をどうのこうのすれば解決することでもなく、人々の意識はどう書いても簡単に変わることはない、というのである。
 
訳者は実質加藤氏であるが、「障碍」が「現在最も一般的であると思われる」と書いている。その辺り、私にはよく分からない。日本バプテスト連盟の二人が携わった訳であるが、社会運動に強い関心がある連盟では、「障碍」がよい、としているのかもしれない。片山氏は、本書に「まえがき」として、知的障碍者と神学との関係について自分の考えを12頁にわたり展開している。最後にはノーマライゼーションの概念の紹介に至るが、かなり神学的に立ち入った話を告げている。
 
しかし、本書の元の著者は、神学者という肩書きをもつ人ではない。イギリスのバプテスト同盟の理事会メンバーなどの重職を務めるが、現場の多くの障害者について、またその人と教会との関係を、ずっと生き生きと描き続けている。その意味では、最初の「神学」が必要だったのかどうか、私には分からない。本を開いて、いきなり障害者の生き生きとした姿の世界に没入することのほうが、読者にはよかったのではないか、と感じたのである。
 
加藤氏は最後に17頁もの「訳者解説」を置いている。ここには、本書の各章毎の要約がある。一人ひとりの姿を見守って読み終わった人が、心に残る風景は多々あるだろうが、要点を思い起こすためには役立つことであろう。その中で、本書がイギリスで出版されたのは1988年であると言っている。この訳書が発行されたのは2017年である。ざっと40年後のことである。当時のイギリスでも、障害者が教会にいるというのは、やはりいくらかの戸惑いや困惑があったことが、叙述から窺えるけれども、日本の障害者と教会との関係は、まだその水準にも追いついていないような気がしてくる。そもそも教会に、知的障碍者が来ているだろうか。彼らに福音など分からない、という思い込みが漂っているかもしれないとも思うが、そもそも来ていない教会が多いのではないだろうか。
 
社会一般がキリスト教や教会を自然と受け容れており、教会が社会の中の一つのクラブか何かのような所属集団としての役割をもっているようなところとは、日本はまた当然違う。社会の組織の一つであれば、知的障碍者がそこにいても何もおかしくはない。だが日本だと、教会は特別な組織であり、一般社会との接点すらないかもしれないような集団である。障害者を委ねるような家庭の雰囲気も、きっとないだろう。その意味で、本書は実に大きな冒険をしている。いきなりこんなふうにはなれないだろうし、社会環境も異なるために、どう見てもなじまないと思われることは、偏見ではなく、正直な見解だろうと思われる。しかし、だからこそまた、本書を世に問う意味は大きい。これで目覚める教会が現れたら、素晴らしいではないか。
 
さて、本書の内容について語らないままに、ここまできた。本書の舞台もまた、アメリカではあるが、バプテスト教会である。そこには、バプテスト教会ならこうだ、他の教会ではこうなるだろう、というような比較もあって面白い。それは、バプテストを誇っているのではない。時には、バプテストだからできない、というような口調のところもある。さすが広い視野をもつ著者である。できるだけ公平な見方で、もっと大事な当事者のことを考えようとしている。
 
著者による本書の本当の始まりである、「はじめに」が実にいい。まず「この本に出てくる障碍を持つ人々は実在します」の文から始まる。これはフィクションではないのだ。この実在するということを理解してくれることを願って、「自分たちの物語を私に教えてくださった多くの共に、心から感謝します」とも言い、「はじめに」が始まっている。私はここから本書が始まってほしかった。
 
とにかくそれぞれの章が、多くの「友」の姿を描くことで満ちあふれている。もちろん教会の側の渋い顔も描かれる。だが、当人たちの明るい顔が、そしてまた当人たちの強い信仰が、ずんずんと響いてきて、仕方がないのだ。幼子のようにならなければ神の国には入れない、とイエスは言った。ならば間違いなく、この「友」たちは神の国に入っているのだ。つまり、それは「幼子だから」という理由ではない。そこに「信仰」があるからだ。なんという強い「信仰」があるのか、読者はきって読み進むうちに、感心するだろう。否、きっと恥ずかしくなってくるだろう。果たして自分にからしだねほどの信仰があるのかどうか、答えは歴然としているからだ。自分はなんと不信仰なことだろう、と恥ずかしくなって然るべきなのである。
 
章のタイトルがいい。もう内容は読者に触れてもらうしかないので、章だけを並べてみる。これだけでわくわくしてくる。「知的障碍の状況は変わってきた」「教会へのチャレンジ」「教会のニューフェイス」「教会はかれらのために何ができるか?」「かれらはイエスについて学ぶことができるか?」「かれらは教会のために何ができるか?」
 
再び「訳者解説」に触れる。本書刊行後のイギリスの法的な姿に加え、日本でも障害者のための法整備について解説がなされている。非常に分かりやすい。それと共に、「キリスト教会はどうでしょうか」と問いかける。バプテスト連盟がしたこととして、「『口で告白できない人たち』の信仰告白・バプテスマに関する答申」が1992年に出されたという。そして、この訳者のお嬢さんも、知的障碍を負っているのだという。ここが重い。そして、連盟のこの方針に従い、「バプテスマを受け、クリスチャンとなることがゆるされました」と記している。バプテスト連盟が合言葉のようにしている「共に生きる」ということの結実の一つであるだろう。但し、親という立場が見えるといえばそれまでだが、まだ「ゆるされました」としているところが、私は引っかかった。知的障碍者でない人が受洗するとき、「ゆるされた」という言葉を使って表現していただろうか。
 
この負い目のような言い方のため、「少しずつであっても、障碍者を「キリストにある一人の人」として見、受け入れ、共に生きようとするキリスト者や教会の実践もまた見られます」というような言い方をしているのかもしれない、というように私は推測する。だが、現に聴覚障害者が礼拝に参加することが少しでも可能な教会がわずかにあるほか、週報を点字で発行しているようなところは、私の狭い了見では聞いたことがない。いまは、スマホなどの「読み上げ」機能が有効だろうが、週報や様々な資料が、そのようにして視覚障害者に届いているのだろうか。まして、知的障碍者が会堂で同居している礼拝というのは、どのくらい実際にあるのだろうか。私はあいにく殆ど知らないのだ。
 
あったら、ぜひ宣伝して戴きたい。もっと宣伝しなければならない。教会に、こんな方が来てよいのですよ、とウェルカムのサインを、世の中に大きく知らせようではないか。こっそり隠しているようなもったいないことをしてはならない。小さな子どもを抱えたお母さんやお父さん、遠慮しないで子どもを礼拝に連れてきてください、と宣伝すればよいのである。そのような素地のある教会が表にどんどん出てこないのは、きっと伝道の意志をもたないのだ、などと言われたくないではないか。

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