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欧米に学ぶクリスマス

ヨーロッパの新型コロナウイルス感染症の新規感染者の数が半端なく多い。だが初期の流行期と異なり、人類はそれなりに相手を知るようになってきた。知恵を以て、対処の仕方を心得てきたために、経済を回していくように動いているように見える。最初は、敵がどう出るか分からないので、とにかく閉鎖をするなど、大胆な措置をも取っていたのだった。
 
インフルエンザも、怖い感染症である。毎年日本国内でも千人単位で死者が出ている。だが、そのために食堂を休業させるようなことは全くなく、毎年過ごしていた。どこまでがリスクで、どこからは動いていくか、その判断がつくほどに知識と知恵が増してきたならば、なんとか困窮する人が増えないようにできたらと願う。
 
もちろん、新型コロナウイルスの場合にはインフルエンザよりも致死率が高いなどのリスクがどうしても伴うために、保健や医療の従事者の負担や危険がないように、慎重に動いて戴きたいと思う。しかし福岡では、だいぶ緩んでしまい、週末の夜の電車では、明らかに酔った者たちが、大声で騒ぐような場面を見るようになった。ここ二年ほど、見なかった光景だ。私の見るかぎり、常識を弁えているように見える年代の人が酷い。一時若者が悪く言われていたが、福岡ではむしろ大人のほうに問題が多いように見える。
 
それはさておき、クリスマスである。日本のクリスマスは商業主義だとか、本来の意味が分かっていないとか批判するキリスト者も依然として多いが、必ずしも欧米が対照的にクリスマスの意義を貫いているとは言えないような気がする。いまここで一つひとつ追及するつもりはないが、特にヨーロッパでは、教会離れが著しく、クリスマスは休暇としてあっても、また習俗として当然のものとして祝われても、パーティーのようなものでしかない場合も少なくないという。あるいは、クリスマスだけは教会に行く、という家庭も少なくないと聞く。
 
なんのことはない。これは、日本人が、初詣のために社寺に出向くのと同じである。そして習俗として、仏教の行事や葬式、また七五三や豆まきで神社を訪ねるのと、驚くほど似ている。文化の中に、なんとなく空気のように存在しているのが、聖書や教会というものであるとして見ると、現象がよく理解できるように思えて仕方がないのである。
 
アメリカは、まだキリスト教が信仰として残っているほうだ、とも言われる。しかし、教会はしばしば、一つのコミュニティとして属していることが多いとも聞く。つまり、家族だけだと社会としては小さすぎる。学校や自治体となると、社会としては大きすぎる。その中間項として、バラエティに富み、なおかつ自分の声が全体に届きうる規模の共同体が望ましい場合、教会が機能しているというのである。
 
それは、必ずしも宗教的なものと認識されていない場合もあるだろう。日本で寺はあまりそのようには生きていないように見えるが、趣味のグループやカルチャーセンターなど、中規模の交わりを心地よいと思う人はいることだろう。信仰を一人ひとりに強要しない交わりとしての教会、それもまた一つの姿なのだろう。
 
だが、そうした教会を、聖書で知るようなイエス・キリストがご覧になったら、さて、どのように思われることだろう。叱責があるのだろうか。あの黙示録の中の手紙のように。だが、あの時代には、迫害と異端で困り果てた教会が多く、そこへの戒めや励ましとしてあれらの手紙が書かれた可能性を考えると、いまそのままに当てはめるわけにもゆかないように思われる。
 
主よ、あなたの思われた通りの姿でないかもしれませんが、いま私たちは、それなりにあなたを見上げています。あなたに少しでも倣おうとしているつもりではあるのです。そして、私たちなりに、あなたに委ねているつもりです。かつての聖書に描かれたような意味ではないとは思うのですが。そうしてこのクリスマス、この心に生まれてくださったあなたと共に、あなたを見上げています。

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