戦いの中で
ハバクク3:13-16
ユダ王国の最後の姿を見たか、またはこれから見るか、その辺りでこれらの預言が語られたものとされています。しかし、主の勝利が高らかに謳われています。そんなことがあるだろうかと思われるかもしれません。でも、祈願とはそういうものではないでしょうか。戦争の中での祈りは、須くそうではなかったか。窮地でも勝利を祈るのでは。
悲惨な結末しかないように思えても、勝利を願うものがあります。命がけだからです。もはや幻を見ているにすぎないと理性的に分かっていたとしても、怨念の限りの言葉であったとしても、戦勝を願うのです。それが、単に自分たちの勝利というだけのものに過ぎないとしたら、やはりそれは空しいものであることを否定はできません。
しかしハバククは、主の勝利を信じています。ただ信じているだけです。神は勝つ。悪人は滅ぼされる。敵の兵は無残な最期を遂げる。奴らはどんなに人非人であることか。但し、戦争で直接人々を殺める兵士たちというのは、雇われの兵である場合がありますが、愛国の士であっても、自分の意志を売って国や上官の言いなりになる道具となりました。
ふと思います。戦う兵士の心理というものは、どれほど研究されているのでしょう。調べると、定評のある本がありました。しかしそう裾野は広がっていません。戦争に限らず、極限状態における人間の反応と心理については、もっと関心がもたれる必要があることを強く感じます。人が人を道具として用いるとどういうことになるのでしょうか。
カントはそれに反対しました。軍を撤廃するという理念は掲げましたが、カントも戦争そのものを安易に否定することはありませんでした。当時はそれが常識であり、それを超えた発想は、やはりできなかったのです。一人ひとりの人格が、ただの手段となっていく情況を反省するためには、聖書の警告が必要だったのではないかと思われます。
神の手に委ねる、それは余りに無責任なふうに見えるかもしれません。でも「静かに待とう」という構え方には、熟考すべきものがあるように思います。イスラエルを攻撃してくる者たちには、神からの苦しみが与えられるのだという見方をすれば、それ自体が自分に向けて石を投げるようなものになりかねないのです。
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