見出し画像

何が言いたいのか

この人は、要するに何が言いたいのか。京都人は、それを察知する文化をもつため、その能力を身に着けている。素朴に、ひとの言うことを表面の意味で受け取りはしない。
 
さすがにぶぶ漬けをいま言う京都人はいないかもしれない。でももしもあれば、それは単なる「帰れ」では済まされない嫌みをこめて言われている、という覚悟でいる必要があるだろう。箒を逆さに立てもしないだろう。だが、日常の様々な場面で、本音を直接言わずに済ませることはあたりまえである。それを察知できないでいると、人間としておかしい、というレッテルを貼られることになる。
 
「お嬢さん、ピアノえろうお上手になられましたなぁ」と言われたら、まず謝るしかないのだ。「ようお似合いですなあ」と服のことを言われたら、とことん卑下するしか道はない。「それにしてもええ時計してはりますなぁ」と言われたら、直ちに退散しなければならない。相手が何を言いたいのかを読んでこそ、初めて京都で生きていくことができるのだ。
 
しかし京都の人は、学生は大切にしてくれる。私はそうだった――あるいは私が単にいけずに気づかぬほどアホだったということかもしれないが、学生を相手にからかいはしないと思う。大抵は一時的な客であるし、うぶな子を見下すのは、大人として品がない。いっぱしの気取った大人の場合は容赦しないが、学生の身分であれば、気楽にしていてよいのではないか、と私は思っている。だいぶ以前のことだから、いまのことは分からないけれども。もちろん、妙に出しゃばるようなことをすると、また別だろうが。
 
キリスト教会の礼拝説教について、長らく考えている。この説教は、何が言いたいのか。もちろん、ちゃんとしたメッセージは、誰にでも聖書の福音が伝わるように語られる。問題は、何かしら奇妙な意図が隠れている場合だ。純粋に福音をなんとか命の言葉として伝えたいという語り手はもちろん多数いるのだが、中にはそうでない輩もいる。何か明らかに意図がある場合は、どうも話している内容がつながらない。あるいは、どうしてそこで、と思うようなところでこだわりを示し、引っかかり、また、あまり意味のない繰り返しをする。
 
たくさんの説教を聞いていると、聞いていて奇妙な引っかかりを覚えることが、確かにあるのだ。そのとき、私は、たぶんこういうことが言いたいんだろう、と気を回して、自分の解釈で穴を埋めてしまうようなことはしたくないと考えている。いったいこの人は何が言いたいのか。何が言いたくて、そこを繰り返すのか。何が気になるから、そこを言い間違えたのか。何を意図しているから、そんな言葉遣いをわさわざしたのか。気になるのである。そういうところに、本音のようなものが、露骨に出てくるのである。つまり、その人の潜在意識の中にあるものが、いろいろな形で表に出てしまうということが、よくある。「この人は、何が言いたいのか」と考えさせるような「説教」を、私は最近よく強いられている。
 
他方、何が言いたいのか、を全く感じさせない説教も、もちろんある。それは、その説教の言葉が神から出ていることが、明らかである場合である。神に対して、「何が言いたいのか」と疑心暗鬼になることはあるまい。そのように、神から出ている言葉は、ストレートに魂に入ってくる。
 
この二つの違いがお分かりになる方は、幸いである。その説教が、神からのものなのか、人間臭いものでしかないのか、判別できるからだ。いくら表向き、尤もらしい言葉を並べていても、分かる。それに気づかない人も多いが、それはしばしば、聞く方がバイアスをかけて、聞き慣れた説教や聖書の知識を先回りして補ってしまっている、という構造になっているからであろう。
 
たんなる自己保全のためにばかり「説教」を利用する心理は、分からなくもない。潜在的にだろうが、自分は説教を語る資格がないことを、感じている場合だ。自らそれに気づいていないかもしれないが、自分の中には何もない。信仰も、救いの核心も、何もない、だから、あらん限りの聖書の知識を並べて、形を繕う、あとは、聞く方が勝手に、尤もらしく解釈してくれる、そういう意図が透けて見えるのである。このような語りは、まさに「騙り」と呼んでいいと思うが、試しに、その人の「説教」を、要旨でもいいから並べてみると、誰でもよく分かる。いつもいつもそのような心理から聖書を説明していることが、歴然としてくるのだ。
 
だから私は、そこには命がないというのだ。そもそもその人の魂が神を知らないのだから、神からの語りがないというのが、根柢にあるから仕方がない。よく聞くと、自分の過去にひっかかりのあることに関する単語が出てくる件では、言い淀んだり、何かこだわっているような不自然な言い方になる。それまでの、作文をただ読むのとは、明らかに違う反応が現れるのである。本人が無意識だからこそ、そのように正直に、心理が出ているのだろうと簡単に理解できる。
 
繰り返すが、ぼうっと聞いていると、確かに尤もらしく聞こえるのである。しかし、たとえばどの回も、困難な時代であり不安な世の中であることに必ず触れ、前提とする。「その中で」というフレーズが口癖のように登場し、聖書の言葉を引いて権威を借りるために「聖書に~とあります」と、これも口癖である。聖書に書いてあれば自分の言うことは間違いない、と権威付けをしたいのである。決定的なのは、その不安の時代の中で、聖書にこう書いてあるから、というその流れの果てに待ち受けるものが、結論として「私を受け容れよ」「私を支えよ」「私を赦せ」と会衆には印象づけられるようなものとなっていることである。普通に聞いて、それが一番言いたいのだな、と分かる。毎回こうした単純な心理に導かれた話を「説教」で繰り返しているという事態に、どうして他の教会員が気づかないのか、気づこうとしないのか、全く不思議でならない。
 
この人は、何が言いたいのか。それは、何かしら、言っていることがすんなりと理解できない時に、問うものである。それを問う力を養うためには、自分が神と密接に交わることが、前提として必要である。聖書の言葉から、あるいは祈りから、神とサシで向き合っていると、すんなりと心に入ってくる説教には、もちろん魂が反応する。聖書について、新たな光が当てられて、気づかされてハッとするような経験を、与えられる。そうか、聖書には確かにそう書いてある、と目が開かれることもある。紹介された他の教会の礼拝説教の中では、毎度そういう体験をしている。これぞ神を礼拝することなのだ、と今さらながらのように、しかしあたりまえのことをに気づかされている次第である。ほんとうにありがたい。
 
人間的なものなら、京都の人のように、互いに見抜き合い、表において無駄な争いをしないですむ知恵となる。そう、貴族文化の伝統のある京都では、互いに平和でいるためにこそ、このような文化を身に着けたという背景が考えられる。人間のつきあいには、どうにも納得のできないことは、あるものだ。だがそれを尖ったものとしてぶつけあうことを避けて、ただやわらかに和菓子の餅で餡を包むように示してみるならば、気づかない相手にはもう関わらないでいて、それで自尊心も守られるし、争いもさしあたり起こらない。確かに平和は保たれる。なかなかの知恵である。非常に奥が深い、知恵である。「京のいけず」は、立派に平和をもたらし、本物と偽物とを見抜く優れた知恵となっている。だからこそ、千年の都となりえたのであろう。
 
さしあたり、神の国が実現するまでは、そんな知恵も、重宝するのかもしれない。聖書は常に、尖った当たり方をして争いを挑め、というように読める部分もないわけではないが、よく読むと、決してそうではないことが感じられる。だから私も、反面教師としてであっても、お粗末な「説教」を、もうとやかく言わないでおこうかと思っている。但し、素晴らしい説教を明らかにするために、比較対照の素材として持ち出すことは、説明のために都合がよい場合は、まだ利用させて戴くかもしれない。あるいは、和菓子の真似事でも、やってみましょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?