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体育の授業の真実

妻の人生を変えた出来事は、もちろん神との出会いが第一である。
 
地の果なるもろもろの人よ、
わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ45:22, 口語訳)
 
12歳の少女に投げかけられた聖書の言葉が、神の言葉として、その心を捕らえた。そこから、十字架のイエスと出会うのは、もう既定路線のように備えられたものとなっていた。
 
その後、マザー・テレサに憧れ、看護職を目指すようになる。理系科目が苦しかった彼女は、小論文がものをいう推薦入試で、100km離れた京都の(当時の)看護専門学校を目指す。学校からの推薦枠が唯一人であったが、それに選ばれたのも、まるで奇蹟のようであったという。さらに、合格したことで、やがて私と出会うことになる。
 
その看護学校で、或る出来事に出会う。体育の授業のことである。学生の半数の50人で行われるものだ。テーマはその日、何か「体操」であったそうだ。ラジオ体操のようなものだっただろうと、その内容の記憶は曖昧なのだそうだ。しかし、その時のことはよく覚えているという。
 
まず、50人全員で体操をする。それが終わると、教師は、次は半数が体操をし、半数が休み、それを見るように、と指導した。そしてもう一度、今度は役割を変えて同じことをしたのだという。
 
それから教師は、全員に問うた。「1回目と、2回目とで、自分が体操をしているときの気持ちは、何か変わりましたか」
 
そこで結論をまとめたわけでもないし、お説教をしたわけでもない。自分の胸に聞いてみよ、というだけだったようだが、このとき、彼女は、ズンと胸を刺されたのだった。
 
多くの人がそうであるだろう。見られている時のほうが、緊張する。視線を感じる。見られている。ちゃんと手を伸ばし、ジャンプして、というように、自分の体操を意識する。最初にしていたときには、そんなことには注意が回っていなかった。違いは明らかだった。
 
これから看護師となる。その仕事は、誰かが見ているから緊張する、誰も見ていないならどうでもよい、そんなものではない。ひとに見られていようといまいと、看護師の職務はつねに同じであるはずだ。
 
こう教えられたという思いは、いまなお変わっていないという。教会でいくらよいお話を聞いたとしても、それにも増して、この体操授業の一件は、人生に大きな意味と真実を与えるものとして、忘れられないものとなったのである。いくら教会で、神はいつもあなたのことを見ています、という説教を聞いても、この体操の体験ほど、全身で痛感する聞き方をしているだろうか、と私も省みる。
 
クリスチャンの言うことだから正しいとか、信用できるとか、そういうことではない。正しく、善いお方は、ひとりだけである。しかし神は、様々な機会を用いて、あらゆる人の中に、神の霊を送り、神の真実を示す。
 
見渡すと(自戒を込めて言うが)、教会に通いながら、高慢な思いを懐き自己欺瞞を繰り返しているような人間も、正直なところ存在する。他方、その真実を生きている、いわゆるノンクリスチャンも、たくさんいる。それはただのヒューマニズムのことを言っているのではない。神が愛であり、また義であるということを信頼すると言うことが、どういうことであるのか、ということを考えながら言うのである。
 
神は、あらゆる人を大切に扱い、あらゆることを通して、真実を示すお方である。

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