見出し画像

幻の風景

教会の説教は、神の言葉であるべきだという。「私の語る言葉は神の言葉だ。礼拝後、とやかく言うな」という強気の方も、昔いたという。いまならそっぽを向かれるかもしれないが、加藤常昭氏は、それもひとつだ、と寛容な意見を述べていた。もちろん、それを押し広げて肯定しているのではないわけであるが、要するに神の言葉を語るということはどういうことか、様々な形があるということなのだろう。
 
今日教えてもらった、その「神の言葉」という形は、イメージ豊かな説教であった。目の前に、情景が浮かんでくるのだ。もっと言おう。幻を見せてくれたのである。
 
黙示録は七つの教会への手紙を、それぞれ私たちに突きつけてくる。それらの手紙は、教会の天使宛てのものである。教会の牧師に送っていると理解することも可能であるという前提で、この手紙の読解がスタートしている。牧師に限らない。教会員の一人ひとりが天使であるかもしれない。だから間違いなく、私たち一人ひとりが、これらの手紙を受け取るべきなのである。
 
フィラデルフィアの教会は、スミルナの教会と共に、叱責の言葉がない。「兄弟愛」という名をもつ町の名は、キリスト教に由来するわけではないが、逆にそのことが、いまの私たちへも響くメッセージの色合いを決めているのかもしれない。
 
「見よ、私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない」という良い情報だが、戸を閉じるか開くかは神の側にその権限がある。その権限を誰も侵すことはできないのだ。教会にしても、堅く戸を閉ざしている場合ではない。どうせ人は来ないから教会員同士仲良くしましょう、というような、信じられない言葉を出す人がいたら、正に愛が冷え切っていく様子を見ることになるだろう。
 
教会員でない人の葬儀を受け付けない教会がある。比較的多いだろう。受け容れようとしたら役員の猛反対に遭い、教会を去らねばならなかった牧師もいた。しかし、「死」が「永遠の命」へのひとつの通過点であるという信仰に立つとき、その「死」を「愛」で包むことは、当然と言えば当然のことなのだ。
 
ちょうど前々日、東八幡キリスト教会一筋の奥田知志牧師が、FEBC(キリスト教放送局)で話していた。この教会と牧師は、ホームレス支援の活動でよく知られている。素性も知らぬ、ひどい場合には名前さえ怪しい、そうしたホームレスの方が亡くなったとき、教会は葬儀をします、と言うのだ。「無縁死」が年間三万人もいるという現実の中で、教会がそれを無視してよいはずがないのである。エリコへ下る道で、見ないふりをして向こう側を通っていくような真似をして、正義ぶるようなことはできないであろう。
 
手紙には、「サタンの集会に属し、自分はユダヤ人であると言う者たち」が登場する。「サタンの集会」とは物々しいが、これを以て「ユダヤ人」を非難する口実にするようなことを、キリスト教会は歴史の中でやってきた。これは悔い改めなければならない。戦争責任を口に出すのもためらっているような現状がある。ようやく責任と言ったのも、戦後ずいぶん経ってからのことである。しかし、性的な障害または個性を、罪人として迫害してきたのは、教会全体がつい最近までやっていたことであり、いまなおしていることでもあるのだ。
 
天皇を崇拝し戦争を支えたような「キリスト者」を一人ひとり検証している記事が『福音と世界』に連載されている。彼らを非難するのが目的ではない。「わたしたち」もそうなのだ、という点に目が開かれるためでなければならない。否、「わたし」もそうなのだ、という点だ。教会が傲慢になり愛が冷えるとき、それは「サタンの集会」となってしまっていることになる。それを警戒しているだろうか。私たちは問われなければならない。私が、問わなければならない。
 
香港のための祈りが続けられている。香港の民主化デモは、2019年から一時大きくニュースに挙げられたが、いまもなお、日本でも祈る人がいる。祈る教会がある。太平洋戦争時の日本における教会に対する弾圧よりもなお厳しい圧迫の中に、依然いると考えられる。日本でのことも、さらに検証しなければならないはずだ。うやむやにすることは、反省にはならない。悔い改めは、水に流すことではない。
 
香港のデモで、「神へハレルヤと歌おう」という歌が合唱されていたという。わずかなキリスト者たちが歌ったのが、クリスチャンではないデモの殆どの人たちの唇に上ったというのだ。この話のとき、説教者が「戦争は、愛する者が引き裂かれてゆくことだ」と告げた言葉が、リフレインしている。
 
「あなたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まなかった」と神はフィラデルフィアの教会を認めている。「力の弱い」と訳した言葉は「ミクロス」である、と説教者は伝えた。私たちのいうミクロ・マイクロという語の基である。信仰の薄いというときにはイエスは「オリゴ」という語も使っていたが、「ミクロス」もまた、無きも同然の小さなものである。
 
そう。キリスト者は小さい。教会も小さい。だが、からし種ほどの信仰があれば山をも動かす。無に等しい者でも、愛があれば無限の力をもたらす。他方、一見大勢のほうに加担しておけば、人は安心を得るだろう。多数派の中におれば自分が攻撃されることはない。それは正に「いじめ」の構造である。自分はどうも違和感を覚えるが、「みんな」がこちらがいいと言っているから、それに賛成しておこう。これが日本の標準である。実に、日本の宗教を「みんな教」だと説明した人もいる。私もその説明に賛成である。
 
だが、自分の良心を押し隠し「みんな」に追随したならば、それはいじめに加担するのと同様に、誤りを多数派とする「加害者」に、「みんな」でなることを意味するのではないか。多数による決定が主権となる民主主義制度の中では、「みんな」に従うことが、場合によっては、とんでもない「加害性」をもたらすのである。天秤の片方に、「みんな」について移動すれば、一気に傾きは逆にも変わることになるからだ。
 
しかし神は、フィラデルフィア教会を評価した。「勝利を得る者を、私の神の神殿の柱としよう。彼はもう決して外へ出ることはない」というのだ。耐えてそこにいてよい。迫害されようが、逃げ出す必要はない。主が来られる。主があなたと共にいて、あなたを守る。あなたがたとえこの世で死を迎えようと、神は永遠の命を注ぎ、永遠の神の国に招き入れる。
 
神の神殿の柱は、神の住まいを支える柱である。普通なら、それだけの説明で終わるであろう。だが、説教者はここで、大いなるパノラマを見せた。これが、最初に申し上げた、「イメージ」であり、「幻」である。
 
かのギリシアやローマの異教の神殿は、いまどうなっているか。廃墟である。だが、廃墟もよく見れば、柱だけが遺っているものがある。中程の膨らんだエンタシスの柱の姿が、私の目に浮かんできた。そう、見えたのである。広がる廃墟の中に聳え立ち、遺る神殿の柱たち。「みんな」が壊れ、風化し、砂となり散っても、なお柱は立っている。
 
それは、聖書本来の意味からすれば、間違っているかもしれない。神の国の新しいエルサレムの永遠の神殿の柱として、あなたは確かに必要な一人なのだ、とでも言っておけばよかったのかもしれない。だが説教者は、廃墟の中に遺る柱の幻を見た。そして、それを聴く者にも見せてくれた。このパノラマの世界が、言葉から私の中に浮かび上がってきた。
 
「そして私は彼の上に、私の神の名と、私の神の都の名、すなわち、神のもとから出て天から降って来る新しいエルサレムの名を、そして、私の新しい名を書き記そう」と手紙は実質的に結ばれる。崩れなかった柱は、神の救いの名を、またキリストの栄光の名を刻まれることになるのだろう。優勝杯に名が刻まれるように、栄誉が神の胸に刻まれると言ってもよいだろう。
 
この風景は、今年の中央の日に掲げられた、今年のクライマックスたる幻の画となった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?