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古代も現代もそう変わらない

レビ23:22 
 
土地の実りの借り入れをするときのことです。それだけで恵まれていることにまず目を向けます。コロナ禍において私たちはそれを痛感しました。正に痛く感じたのです。実りがない体験をしたからです。仕事がなくなり、収入がなくなり、生活に多大な不安を抱くようになりました。私はまだ助かりましたが、静止を境とした人も少なくありません。
 
学生たちは学ぶ機会を失い、人との関係がつくれず、精神的にも危うくなりました。アルバイトがなく、動くこともできず、生活は困難を窮めました。実際命を落とした人もたくさんいたのです。実りを刈り入れることができたというのは、決して当たり前のことではありません。幸運にも刈り入れることができた時についての命令がここにあります。
 
畑の隅々まで刈り尽くすな。落ち穂無きまでに片付けてはならない。ここは俺の土地だ。ここにあるのは俺のもの、俺の権利がここにある。そんなふうに言いたいのが人間の性だというのは近代人に限りません。少なくとも古代イスラエルにしてもそうだったのです。だからこそ、このような規定が頑と律法に居座っているはずなのです。
 
『パパラギ』という本があります。サモア島からヨーロッパに来た族長が書いたという設定の文明批評です。自分の土地、自分だけの産物という考え方を、あっさりと否定します。自然も作物も、皆神からの恵みであり共有すればよいのに、と零します。古代イスラエルにしてすでに、人は神からの恵みという考え方を棄てていたのかもしれません。
 
貧しい人や寄留者のために一部は残しておけ。この律法は、そんなことがめったに行われていなかったことの証拠として読んでみます。ルツ記は、この規定が実行された稀な実例であるのか、あるいは実現されなかった理想の物語なのか、そんなことも考えさせられます。あまり意地悪に見てしまわないように気をつけますが、自分を恥じるばかりです。

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