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世界の終わり

The End of the World
 
難しい英語ではない。これをどう日本語で心に納めるか。今時であれば、「SEKAI NO OWARI」の方に傾いてしまうかもしれないが、まあ「世界の終わり」であるだろう。しかしその「セカオワ」にしても、辛い経験を基に、終わったと思ったところからスタートしようという気持ちから名づけられたというから、いわばどん底からの出発というところに希望をもつものであるということだと思う。
 
しかし、セカオワの方は、英語表記では「End of the World」を、とっていて、先に挙げた「The End of the World」ではない。「The」が付くのは、1962年に発売された、スキータ・デイヴィスの歌である。多くの人にカバーされた名曲である。
 
昔は、映画の題も、巧みな日本語に直して紹介された。逐一挙げないが、美しい日本語表現の題名が多々あり、それらはしばしば原題とはかなり違う言葉となっている。この歌「End of the World」も、邦題は「この世の果てまで」であった。内容に合った訳であるかどうかは疑わしいが、日本人の心に響くムードある題であったと言えるかもしれない。
 
「もうあなたは愛してくれないのだから」「世界は、あなたの愛をなくしたとき終わったの」と、別れの歌であることは明白であるが、話によるとラブソングではないらしい。作詞は歌い手とは違うが、その父親の死に際して書かれた歌詞であるという。中学生の英語の問題に出したいくらい、分かりやすく素敵な歌詞である。
 
美しいメロディに乗せられた歌詞には、喪失感がよく現れている。英語圏のみならず、世界中どこでも響くものではないかと思われる。歌詞については昔私はよく知らなかったが、それを知ると、ますます好きになった。
 
「End」は、もちろん「終わり」の意味である。だが、その終わりは、時に「目的」とも見なされる。ギリシア語ではこれは「テロス」という語であったが、それは「終わり」であると共に、「目的」でもあり、また「完成」という概念をも含むものと考えられていた。
 
キリスト教にとり、ギリシア語は新約聖書の原語となったが、この「テロス」は非常に便利な語であったことだろう。「世界の終わり」あるいは最後の審判と呼ばれるものは神によりもたらされるが、それは神の計画の「目的」でもあり、神の創造の「完成」であったと考えられるからだ。
 
神は自らを、「初めであり、終わりである」と称した。「オメガ」という、ギリシア語アルファベットの最後の文字で「終わり」を象徴したが、行き着く終わりでもあると共に、目的や完成であると見てもよいものなのだろう。
 
その完成の中に、永遠の命を見るというのは、奇妙だろうか。希望を見出しては、いけないだろうか。

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