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誰が戦争をつくるのか

国家単位の戦争は、宣戦布告を以て始まるのが基本である。そうでなくても、ともかく時の権力者が決定するために始まる。それは間違いがない。だから、戦争を起こした誰それが悪かった、そこに責任がある、そのように言うことは、嘘ではない。しかし、それがすべてなのだろうか、とも思う。
 
権力に抵抗する運動も大切である。半世紀以上前に大きなうねりとなった学生運動は、当時の若者たちにとくに大きな精神的影響を与えたと思われる。私は本で読むくらいでしかそれらを知り得ないために、適切な距離で適切な感想をもつことができないかもしれない。ただ、そのエネルギーたるもの、権力を一方的に断罪する「断固糾弾」というような響きの言葉が、本質的なところにあったように思われることを挙げてみようと思う。
 
繰り返すが、その批判は必要である。だが、相手を批判することによって、自分が正しくなるかどうかは分からない、としなければなるまい。そればかりか、己れこそ、実はその悪の張本人ではないか、と省みる眼差しを失ってはならない、と私は考える。
 
戦争の話に戻そう。権力者が戦争開始を決定する。それに反対する声に圧力をかける。「お国のために」おまえたちはこのようにしろ、と強要する。それも事実だっただろう。だが、人々は、それに素直に従ったのだ。もちろん、従わないと命がない、などの背景はある。分かる。だが、おとなしく従った庶民たちは、今度は、従わない者に圧力を及ぼす勢力となっていった、ということも否定できないだろうと思うのだ。それは、「仕方がなかった」という自身の呟きのために、自分とはもう関係のない次元のこととなる、としてよいようには思えない、という路線で考えてみたいのである。
 
私は妹尾河童氏の『少年H』を忘れることができない。自伝的小説であるが、そこにはキリスト教信仰も関与している。ただ、周囲の人々が一家を追い詰める。人々もまた、軍部の代表として、異端者を責めてゆくのだ。
 
幾度か挙げている例だが、エスカレーターを歩くことが、近年禁じられてゆくようになったことに、いま一度触れる。いまは歩いたらダメなんだよな、と多くの人が認識するようになった。しかし、誰かが歩き始めたら、その後ろから、我も我も、と歩き始めるのを、毎日のように私は見ている。ファーストペンギンにはなりたくないが、誰かがそうしたら、自分もその波に乗るのである。それは、キャスティングボートと同じ効果をもつ(ボートはvote、投票である、念のため)。たとえ数人であっても、「みんな」がそうしている、というふうに判断したら、そちらに流れて動き始める。そうするとその波は大きなものとなる。
 
戦争反対、といまは誰もが口にする。だが、権力の指図が発端であったにせよ、「みんな」が加担してゆくと、一気に全体が賛成に傾いていく風景が、私にはありありと目に浮かぶのである。
 
誰かを批判するのは、自由が守られ、平和な世の中では、簡単である。まして、批判する側の者が多数派であれば尚更である。特に権力の悪口を言っておけば溜飲も下がるだろうし、世間はそれを正義と呼ぶことだろう。しかし、本当に世の中を動かすことに、自分が加担していくという可能性を弁えていないならば、恐らくその多数派の中の一人に、「みんな」が、自覚すらないままに、隠れて溶けこんでゆくことだろう。
 
かつての日本の戦争前も、長い時間をかけてそのように変わっていったのではないだろうか。あのアメリカでさえ、9.11テロという最近の出来事の中で、ジョン・レノンの「イマジン」などの曲を放送禁止(自粛)としたのである。言論統制は、いまのロシアに限らない。「みんな」の中に、みんなが隠れて、大きな力をつくってしまうことについて、私たちは絶えず自戒しておかなければならないと思うのだ。「十字架につけろ」という怒号の中にいた、あの群衆の一人ひとりのようになることに。

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