見出し画像

『聖書を読んだら哲学がわかった』(MARO・日本実業出版社)

著者の肩書きは表紙に書かれている。「上馬キリスト教会ツイッター部」である。いま一時の勢いは静かに落ち着いたようだが、それでも10万人を越えるフォロワーがいるツイートというのは、キリスト教関係では異例である。つまりは、クリスチャンでない人にたいへんな支持を受けているということだ。
 
それは、キリスト教らしからぬ、おふざけと、若者の感覚のツボを突いてくる、気取らない呟きなのである。教会そのものは、極めて地味な教会である。古いスタイルの礼拝を行い、何がどうという特徴もないような教会である。だが、このツイッターによって、訪ねてくる若者が後を絶たない。これはかなりすばらしいことだと言えないだろうか。
 
おふざけと言っても、下品になることはないし、むしろツイッター独特の、一瞬でクスッとさせるようなユーモアに溢れたもの、と言ったほうがよいかもしれない。その担当者は2人いて、この本の著者はその一人である。よく「まじめ担当」などともいう。やや教養色の強いツイートがあれば、多分この人のものである。
 
この著者、大学の哲学科の出身であると本書に記されている。ツイートの内容からしても、納得できる気がする。ツイッターが好評であることから、これまで何冊か二人で本を出している。聖書を分かりやすく紹介するなど、キリスト教界に貢献していると言えよう。それが今回、その聖書を軸に置きながらも、「哲学」をテーマとして、これまた楽しい哲学入門を生み出した。これは、哲学科の元青年からすると、これまでの夢であったのだという。
 
おふざけというほどのものはないが、ぶっちゃけ愉快に哲学史を繙くのは、他に類を見ないと言うと大げさだろうか。実は哲学については、何十年か前あたりから、愉快に楽しくぶっちゃけ哲学を分かるように説明するという試みが始まっている。いまのSNSの時台になって、ウケがいい記事がまとまるようにして、非常に斬新な哲学紹介の本もいろいろ出てきた。その中に本書があるのは、面白さという点では随一ではないかもしれないが、聖書と関わらせているという点では、まさにユニークそのものであると言ってよいと思う。
 
キリスト教会の一員である。かつて大学で哲学に絶望して教会に通うようになり、信仰生活を続けていたが、いつしかこんな本が書いてみたいとは思っていたから、自分にできる哲学紹介をするチャンスに恵まれたというようなことが最後に書いてある。聖書だけで哲学史が語れるというのはもちろん大げさだが、聖書を知らずに西洋哲学を学ぶというのは、本当にただの暗記のようになってしまいがちなのは事実だ。私もこの著者と近い経緯で聖書に導かれているので、気持ちはよく分かると言ってよいと思う。
 
さて、本書に対する率直な感想を述べよう。これは、高校の倫理の教科書の、西洋哲学部門の解説のお喋りである。私はそうとしか言えない。サブタイトルに、「キリスト教で解きあかす「西洋哲学」超入門」とあるのは、それはそれでよいと思う。高校の倫理には、心理学や日本思想なども入っているから、西洋哲学はひどく多い訳ではない。登場する哲学者は限られている。もっとフランスのように、本格的な哲学思想を高校生に課すようにしてほしいと個人的には考えているが、それはいまは置いておく。この倫理の教科書の一部を、わりと自由な家庭教師が高校生に面白おかしく分かってもらうために話をしている風景を思い描いたら、だいたいこの本の様子が想像できるのではないだろうか。
 
つまり、倫理の教科書に取り上げられた哲学者の話を詳しく楽しく聞かせよう、という内容なのである。そのとき、その人たちがどんな本をどのように書いたか、という「引用」が一切ない。引用があるのは、聖書だけなのである。まさか哲学科出身の人が実際にプラトンを(日本語訳でも)読んでいないとは思いがたいが、恐らく原典に触れたことがなくても、お勉強をした人はこれくらいの参考書的な解説はできるだろうと思われるような事柄ばかりが書かれているのだ。倫理の教科書に太い文字で与えられた言葉の意味を説明するようなことの繰り返しだと言ってよい。独自に掘り下げたというところは、殆どないと思う。
 
ただ、注意するべきところがある。現代についての言及が殆どないに等しく、ハイデッガーを数行で死に向かう存在を説いた、で済ませているのは、普通考えられないのだ(ただしブルンナーが文脈上そのように引用しているところがあるから、もしかするとそれを著者は目にしてハイデッガーはこれを書けばよい、と考えた可能性はある)。私は少しばかりカントなら知っているので言わせてもらうことにしよう。カントに関してそこそこ説明をしていることはありがたいと申し上げるにしても、ここに書かれてあることは信用できないことばかりである。どだい、カントとヘーゲルを説明するのに「理性」という語を一度も使わないで、できるはずがなかった。感性と悟性というところをえらく詳しく述べようとしている努力はしているのに、理性はひとつも持ち出さない。教科書にあるような定言命法がその後突然出てくる。この人は、カントの哲学を明らかに誤解している。
 
実は本書では巻末近くでカントの「理性」という語が登場するのだが、これがまた間違っている。「人間の理性には限界があって、理性では理解し得ないものが世界にはあるのだ」と『純粋理性批判』で言った、と書いているのだ。理性は限界を超えて働く、つまりいわば暴走するために、感性を伴わないままに理性を理論的認識のために用いてしまうと、学問にはならない、としたのである。理性が理解するなどという発想はカントにはない。尤も、人間の認識能力全体を理性あるいは理論理性と称することはあるから、その意味ならば少し分からないでもないが、むしろ限界があるのは宗教であって、理性の限界の中に宗教は収まるべきだと主張し、実践理性は理性の事実に基づいて神を要請し、魂の不死を求めることは可能だとする。理性の働きそのものは、新たな形而上学の構想の中で、人間とは何かを問うためにどこまでもあるのだ。ただ「批判」を経ることなしにそれをすれば、理論的認識を越権的に行おうと独断論の誤りに陥ることは厳しく戒めている。カント自身が「理性」という語を多義的に使っているために曖昧なところがのは確かだが、本書がやっと初めてカントについて使った「理性」の語に基づく記述は、カントについて誤解させるものとなっている。理論理性や実践理性の考えも出てこないし、その理論理性の説明だろうか、ア・プリオリこそカント哲学の中核であるかのように何度も登場するのだが、ア・プリオリな総合判断という認識における中核には一度も触れないないなど、少なくともカントの説明としては、全く使い物にならないどころか、誤った理解を招く粗悪なものとなっている。
 
著者が「大好き」だと名前を出した哲学者は、パスカル、ヒルティ、アランであり、彼らには言及できなかったことが書かれている。ヒルティはスイスだが、他の二人はフランスである。しかも、理詰めのタイプではなく、直感的であったり人生訓的であったりするタイプである。ドイツのものをお読みでないらしいことは悪く言うつもりはないが、カントについてはアンチノミーの説明もおかしく、そもそも「批判」という意味が分かっていない様子を示すなど、捨て置けないところは他にも多々あり、高校生以上の年代の人が読むものとしてはよくない影響を与えることになってしまう。
 
最後のほうで、かなりの頁を使って、自分の考えを綴っている。「わたしたち」を巡るエッセイである。しかし私はそこにも疑問を覚える。近代の人間のひとつの姿を切り取っていることは認めるが、日本人の意識が「わたしたち」が中心で「わたし」が弱いというのは、さて、まさにいまこの時代に言えるのかどうか、検討する余地があるだろうと思う。果たしてツイートをしている一人ひとりが、「わたしたち」の原理で動いているのだろうか。引きこもり閉塞感をもつ人が、「わたしたち」でいるのだろうか。むしろ「わたしたち」になれないで悩み、行き詰まっている人がたくさんいて、「わたし」が我を張って開き直ってみたものの、途方に暮れているという情況はないだろうか。キリスト教徒たちは西洋に特徴的だと本書が述べているような「わたし」の意識が強いのだろうか。それとも、キリスト教徒であっても日本人である以上、教会で「わたしたち」の意識で動いているのだろうか。だとすれば、ツイートをしているあなたも「わたしたち」をベースにしているのだろうか。いや、教会という「わたしたち」だ、という信仰であるのなら、これ以上は追及はしないでおこう。
 
全体的に、あまりにも事柄を単純に割り切って説明しすぎている。そして、偏りや嘘がずいぶん目立つ。もう少し観察と考察を経てみる必要があったのではないだろうか。あるいは、近現代が軟弱になり嘘めいている記述は、近現代はもう聖書で抑えが利かなくなったという事態を象徴していると私たちは受け止めた方がよいのだろうか。ここから先はもう聖書は関係ありません、とでも言うように。そこまで意図を働かせていたとしたら、それはそれで、見事な隠し球であったということになるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?