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『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 堤江実訳)

私は偶々続編としての『ゆるしへの道』から読んだ。そこでは、虐殺を乗り越えた話も書かれてあったが、少し端折った形で、その後の国連での働きの過程のほうに重きが置かれていた。そこでも嫌なことがあり、「ゆるし」というものが突きつけられたのだ。
 
本書は、いわば本編である。助け出されるまでの過程が、一つひとつ丁寧に描かれる。
 
これは、1994年、アフリカのルワンダで起こった虐殺事件の生き証人の報告である。本書が最初に世界に明かされ、人々に感動を与えた。百万人単位で殺されたツチ族の人々の中で、つい壁一つ向こうで血眼になって大鉈を手に、その名を呼びつつうろうろするのを見聞きしながら、狭い空間に何人もが折り重なるように息を潜めて耐え忍んだのである。そして、もう奇蹟としか言いようがない数々の危機をすり抜けて、生き延びたのである。
 
もちろん、その事件の一つひとつをここで辿るようなことをする気持ちはない。何があったのか、どのような精神的過程を経たのか、それは、本書をお読みくださるしかないと思うのだ。
 
だが本書は、この奇蹟を誇りたいようなものではない。また、虐殺の事実を暴露して、正義を訴えたり、あるいは復讐をしたりするものでもない。
 
続編のタイトルには「ゆるし」という語があった。確かにそうだった。しかし、本来本書の方が、「ゆるし」の本に違いなかったのである。
 
本書は「LEFT TO TELL」が原題である。「伝えるために残されて」なのか、「残された故に伝える」なのか、とにかくいまこうして、伝えている。強靱な意志がその背景にあるが、本書を読んで意志の問題だ、と考える人は、信仰ということについて何も感じない人であろう。
 
これは、しかし信仰の物語である。クリスチャンが、「ひとを赦せないのですが……」などと呑気な相談をすることがある。その気持ちを私はもちろん否定はしない。だが、どうかこの体験の中での信仰を聞こうではないか、と言いたい。
 
半端ない信仰である。その都度神に祈ったことが書かれている。ただ願うのではない。確信もある。もちろん、世界には、祈っても殺された人がいるだろう。この人は偶々生き残った故に、祈って生かされた、と言うことができるのだ、という指摘は、別に間違っていない。私はこうして成功した、という成功談を聞くと、そのようにすれば誰もが成功するかのような錯覚に陥ることへの警告を思い出す人もいるかもしれない。
 
それでも、ただ助かりたいとか、お願いだからとか、それだけのものであるわけではないからこそ、私はこれを信仰と呼ばねばならないと思うのだ。
 
それが「ゆるし」である。
 
いくら教育を受けたとあっても、簡単にデマを信じてしまう様子をも描いている。と同時に、殺人者のために祈る場面もある。この悲惨な情況を止めることができるのは、神の聖なるゆるしだけなのだ、という信仰を掲げるときもある。決してゆるすことができないにちがいない、と思われることさえも、実現するのをまざまざと見ることがありました。肉親を殺した人物を前に、この人に自分が与えることができるものは、「ゆるし」しかないのだ、と口に出すことが、いったい何を意味するのか、私たちは一人ひとり考えてみたい。
 
訳者はその「訳者あとがき」の中で、「この本の中にこそ、希望というものの本質がある」と告げている。訳者が信仰をお持ちだったか、どう理解していたのか、それは分からない。だが、もし信仰者でなくても、ここに希望がある、ということを見出しているのはさすがである。詩人としての感性が、それを見せているのだろう。訳者のお嬢さんは堤未果氏。著名なジャーナリストである。そして、イマキュレーとほぼ同じ年齢である。その眼差しの中に、このような世界が見えているのかどうか、私には分からないが、国際関係を見るときにも、本書の一端でもそこに重なってくるとよいのだが、と願う。
 
そしてまた、一人でも多くのキリスト者が、この物語を胸に入れておきたいものだ、と自分のことは棚に上げて、望むのだ。

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