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平和を造る者 (マタイ5:9, イザヤ11:1-9)

◆沖縄

平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
平和な世界を造ろう、と集まった人たちが、意見が合わず分裂して別々の会をつくる――笑えない話です。動機が悪いとは申しませんが、人間が思う平和と、それへ近づく道は、どうやらかなり食い違うことがあるようです。
 
「ローマの平和」は、圧倒的なローマ軍の軍事力によってつくられたと考えられました。「大東亜共栄圏」という、アジアの平和を護ることを看板として、日本はかつて無謀とも言える戦争へなだれ込みました。そこから3年半近くたったとき、ついに日本本土が傷ついてゆきます。
 
1945年4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸しました。その日4月1日は、イースターでした。すでに慶良間諸島には3月26日に上陸しており、いわゆる沖縄戦が開始されます。この後、夏にかけて、沖縄は地獄になりました。
 
地上戦で住民がターゲットになった、というのは本当なのでしょうが、日本兵にとって、住民が足手まといになったのか、単に洗脳的な教育の故に、国のために、天皇のために死ぬということしかないと考えたのか、残酷な事態となりました。
 
天皇の赤子として教育され、沖縄もまた皇国民だとされる。どこまでが強制か、自分の意志なのか分からなくなるくらいに教育、あるいは洗脳されていたのでした。
 
すみません、非常に端折っています。私のような者が、適切に沖縄戦について語ることはできません。かつて自らを「沖縄病」にかかったというほどに、当時少なかった一般の文献を探してレポートもしていたので、語ればそれなりにいくらでもお話しすることは可能ですが、いまは史料もたくさん手に入ります。少しお調べになれば、どんなことが起こっていたのか、知ることはできるだろうと思います。
 
「集団自決」という言葉だけで済ますわけにはゆかないのですが、本当に酷いことの数々でした。アメリカ軍に抵抗すれば、ガマの中にも火炎放射が向けられる事態でした。その後、米軍統治下では、どういう思いだったのでしょうか。さしあたり人道的な配慮を受けて、かつて日本から教え込まれていたことの虚偽を覚るものの、その後日本政府と米軍との間の兼ね合いの中で、住民の土地は奪われていきます。米兵は必ずしも味方ではありませんでした。
 

◆8月15日

沖縄に星条旗が立てられると、日本本土への攻撃がますます激しくなります。本土を守るために、沖縄を捨て石としたヤマトでしたが、その作戦も役立ちませんでした。前年からの年末年始には、昭和東南海地震と三河地震は、震災級の大きな被害をもたらしていましたが、政府はこれを報道していません。士気が下がるからです。常にニュースは、景気の良いものでなければなりませんでした。
 
国民の中には事態を疑う人もいたはずですが、それを公に言うことはできませんでした。いまも近くの国がそうしたふうでありますが、いま私たちがあれを異様に見ているのだとすれば、自分たちもまた同様であったこと、また同様にもなりうることを、考えなければならないと思います。
 
7月にはポツダム宣言が日本政府に突きつけられたが、これを受諾したのは、ふたつの原子爆弾が落ちた後でした。ポツダム宣言を天皇が認めたのは8月10日未明と言われ、日本政府の名で受諾し、連合国側にこれを通知したのは14日です。15日は、それを天皇が国民に語り知らせただけの日です。戦後もしばらくは、15日という日付は、特別な意味をもたなかったといいます。1957年に、引揚者への給付金を法で定めたときに15日を初めて終戦の基準とし、1963年の閣議決定で全国戦没者追悼式が行われるようになったそうです。戦後の保守派の考えで、事が運ばれていることを強く感じます。
 
キリスト教会の中には、天皇制を批判し、政治家の靖国神社参拝や、靖国神社そのものへの反対を表明する場合が、多々あります。また、「終戦」はおかしい、「敗戦」と言うべきだ、という主張もよく耳にします。しかし、その日付を8月15日以外に聞くことはありません。結局、天皇制の掌の上に包まれているに過ぎないことを、私は悲しく思います。
 

◆黙示録

ヨハネの黙示録は、終末の幻を記した書です。新約聖書に入れてよいのかどうか、当初から議論があったといいます。あまりに描写が分かりづらいせいでしょうか。しかしエゼキエル書やダニエル書など、幻想的な叙述は旧約聖書の中にもあり、広く受け容れられていました。そもそも預言書の多くは、終末の姿、神の裁きの日のことを記しています。新約聖書でも、そうした預言者の伝統を受け継ぐものが必要だと考えられたのかもしれまん。
 
黙示録の8章辺りから、描写はかなり酷い様相を示します。9章からほんの少しだけ引用します。
 
13:第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。
14:その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かいこう言った。「大河ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を解き放ちなさい。」
15:すると四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放たれた。彼らはその年、その月、その日、その時間のために備え置かれていたのである。
16:騎兵の数は二億、私はその数を聞いた。
17:私は幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、火の赤、青玉の青、硫黄の黄色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄を吐いていた。
18:その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。
19:馬の力はその口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。
 
こうしたことは、ヨハネのただの幻想なのでしょうか。絵空事なのでしょうか。私たちはそれが現実にあったこと、起こり得るということを、知っているのではないでしょうか。長崎では、教会の真上で原子爆弾が炸裂しました。焼け焦げたマリア像の頭部が後に見つかりました。これを、いけにえの小羊だと称したカトリックの永井隆博士は、少なからぬ人々によって批判されました。
 
黙示録は、ずいぶんとエグいことを描いています。ただ、確かに文書の中でのそれは幻でした。しかし、戦争の中で見えたものは、紛れもなく現実でした。それはいまも続いています。黙示録が描いた悲惨な事態も、これからまたいつどこで突然起こるか、分かりません。
 
核のボタンを押す権限が、地球上の各地の誰かにあります。それは「民主的に」正当に認められたものとされています。今年はアメリカ合衆国で、大統領選挙が行われます。いま2人が有力ですが、どちらが大統領になっても、人類の運命はその手に握られていることになります。もちろん、ロシアや他の国についても、同様です。
 

◆加害者意識

地球や人類の滅亡は、いくらかの権力をもつ個人が決定するようなものなのでしょうか。私は、必ずしもそうとは思いません。では誰が。それは「私たち」ではあるまいか。
 
世の中の、多くの人が、他人の言動に従おうとします。「みんな」がしているから、賛同します。行動します。自分ひとりくらい、影響を与えるものか。そう言い訳して、無責任なことを平気でします。しかしそれを正に「みんな」が思うから、多数決を原理とする社会は、その「ひとりくらい」が正義となって暴走することも簡単に起こるわけです。
 
夏祭りがあります。古来、祭りは無礼講もよしとし、また羽目を外す機会でした。気分が昂揚するのは現代人も同じです。ふだんできないことも、勢いでやってしまいます。冷静にそれを見ている側からすれば、そこにあるのは無法地帯です。何かしら非常時になったとき、この騒ぎが拍車をかけるであろうことが目に見えます。こうした群衆が、正義の声を上げ、一致して権力に反対するようには到底思えません。おそらく、かつての戦時中も、そうだったのでしょう。
 
それは、教会であろうと、信仰者であろうと同じです。『別冊100分de名著 宗教とは何か』という、この6月に発行された本の中で、釈徹宗氏が、「信仰の加害者性」ということを指摘していました。信仰団体に入ることで、自分は何をしてもよいような特権をもつわけではないはずなのに、そのようになってしまう危険性を指摘していました。加害者として自分が行為している姿が、人間には見えなくなってしまうのです。
 

◆本当の被害者

それでいて、人は妙なものです。自分は被害者である、という顔をしたがるのです。自分は強いのだ、ということを示すほうが英雄的であるようですが、被害者面をして周囲の同意を得る方を、えてして採るのです。
 
なぜなら、悪いのは加害者であるからです。誰が見ても、加害者は悪い、という価値観を以て接してくれます。被害者の方が、正義とされます。だからまた、人は自分が加害者だと言われないようにしたい、と本能的に動きます。私は加害者ではない、ということが、すべての判断の前提になっています。
 
だから、私たちは自分の加害性に気づきません。イエスが逮捕されて、裁判を受けます。つい先ほど、エルサレムに来たイエスを見て、人々は熱狂的に歓迎しました。ローマ帝国の支配から人々を解放し、かつてのダビデ王国のような権威を再びもたらす期待の星・メシアとして、歓迎しました。その同じ群衆が、イエスがいとも簡単に当局に捕縛され、惨めな姿を晒すと、一斉に怒号を奏でます。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。
 
イエスは、被害者のフリをしたのでしょうか。「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」(詩編22:2)との祈りを、恰も演技であるかのように理解する人もします。逆に、それはイエスの弱さであり、イエスは神でなかった、と言いたい人もいます。
 
私はどちらにも賛同できません。もちろん、これは信仰の問題です。イエスの心を決定的に説明することなど、できないはずですし、してはならないと考えています。しかし、信仰の事柄ならば、その人の生き方のひとつとして、口にしてもよいと思います。私は、イエスはこのとき、真の被害者になったのだ、とだけ受け止めようとします。それは、加害性を全くもたない被害者だということです。
 
人間の被害者意識には、どこか嘘が混じります。時にそれは、えげつないほど加害性を隠したものにもなることをご紹介しました。しかし、人間はそんなに純粋に被害だけということにはならないのではないか、と思います。それは、現実の法的な争いの場で、被害者にも責任がある、などということを言いたいわけではありません。法的には、十分被害者であるべきです。しかし、人間にもし「原罪」というものがあることを信じるならば、そこには「純粋な被害」があるのではない、という、神学的とも言えるようなレベルで捉えているわけです。
 
イエスの死は、その意味で「純粋な被害」でした。だからこそ、その死には、人間すべての罪を担うものがあったと言えるのであり、罪の赦しというものが成り立つ出来事であったのだ、と言えるのではないでしょうか。イエスの十字架についての、ひとつの新たな角度からの信仰であるように、私は受け止めています。
 

◆偽の被害者

このイエスの苦しみを、自分の中に肌で感じるという人がいます。もちろん、イエスと同じ苦しみを経験することはできません。しかし、軽々しく口先だけで、さらりと「十字架、十字架」と言ってのけることがないか、自分の心と信仰を省みることが望ましいと思います。それは私には、「十字架につけろ」の連呼と同じように響くのです。
 
ですから、偽の「被害者」が巷に溢れます。これは一概には言えないのですが、どうも近年、若者が「打たれ弱い」との評判です。年配の人は、若者の扱いには気を使うと言います。少し厳しく言えば、会社を辞める。へたをすると逆ギレすることもあるのだとか。それよりも多いのが、上司に叱られて出勤できなくなったり、家に引っ込んでしまったり、という困った事態です。そうなると、中間管理職の責任とされます。自然と接し方も優しくなるでしょう。
 
デリケートな扱いをしないと、傷つく。そのとき、つねに「自分は被害者だ」という意識が働いていると思われます。そして、世の中も、そうした心を大切にせよ、と声を重ねます。マスコミがそのように広めればなおさらです。会社としてさほど不思議なことをしたわけではないのに、「ブラックだ」とレッテルを貼られることもあるだろうと思います。
 
と、これは若者批判をしていると勘違いされるかもしれません。そうではありません。私たち信仰者の中に、この「偽被害者」がいないかどうか、問い直す意味がある、と思うから言っているのです。それは、先に挙げた、口先だけでイエスの救いについて冗舌に語るようなことも、もちろん意味しています。しかしまた、自分は妙な信仰をもたされた、という視点をもつようになった人も、世の中にはいるわけです。
 
「宗教2世」という言葉で盛んにマスコミが騒いだこともそうでしょう。また、最初に純朴な信仰を与えられた後に、聖書を研究してゆくうちに、聖書にはそんな信仰は書かれていない、というように考え始め、自分は嘘の聖書を信じ込まされた、というように走り始める人もいると思います。中には、そのことがひとつの恨みのようになって、生涯をかけて聖書を研究する余りに、むしろ聖書を偶像視するか、あるいは聖書を読む自分というものを偶像のように扱ってしまうようになり、神とのつながりを見失ってしまうようなケースもあるかもしれません。
 
ある意味で、私もそのように別のことを信じ込まされようとした一人です。聖書を求めて足を踏み入れた教会に対して、純粋に従うように仕向けられました。但し私は、聖書にはその教団の教えは書かれていない、という方向で、むしろ聖書の信仰とそこにいたイエスにしがみついたのです。ただ、私はこのことを、「被害者」のようには捉えることがありませんでした。そこでこそ、人生最大の出会いがあったからです。また、神はすべてを益とする、ということを直に教えてもらえたと知ったからです。
 

◆なぜ私でなく

イエスの十字架を見上げます。たまらない気持ちになります。釘一本、この掌に打たれてみたとしたら、わたしはもうそれだけで耐えられないでしょう。しかし、福音書に書かれてあるようなプロセスであのような目に遭ったイエスを思うと、私などはそのイエスのつけられた十字架に磔にされて当然だというふうにしか思えません。
 
どうして私ではなく、あの方が犠牲になったのか。最高度の謎であります。
 
戦争の話から入りました。あのころの空気の中で、特攻隊に入り、お国のために、天皇のために死ぬことが人生だ、という視野しかもてなかった若者がたくさんいました。しかし、何らかの理由で実際に飛び立つことなく、戦争が終わり生き残ったという人も大勢います。こう思う方が少なからずいるそうです。「どうして私が死なず、あの仲間が死んだのか」と。
 
災害の体験の話が零れてくることがあります。自分は生きている。だが目の前であの人が流された。焼かれていった。どうして自分だけがこうして生き残っているのか。英語で「サバイバーズ・ギルト」と呼ぶそうです。生き残った自分に「罪がある」と考え、それから離れられなくなることです。
 
「サバイバーズ・ギルト」の状態の人に、周囲にいる人はなんとか慰めようとします。「これは運命だ」などという残酷なことを言う人はふつういないかもしれませんが、「がんばってこれを乗り越えましょう」とか、「あなたが生き残ったのにはきっと意味があるのです」とか、なんか言葉をかけないといけないと思う焦りから、たぶん言ってはならないことを言うことはあるかもしれません。
 
中には、キリスト者でもこの点で誤ります。「神は最善のことをしたのです」「耐えられないことは神はなさいません」というように、如何にも聖書を引用したかのような言葉で、自分の信仰を、激しく重みをかけて相手を打ちのめすことが、あり得るのです。
 
悩む者に上から目線で臨むそのようなことは、決して「寄り添う」ことにはなりません。そこで私はむしろ、その悩む者であろうと思います。「どうして私でなく、キリストが刑死したのか」と、十字架を見上げます。それはえらく高慢なように聞こえるかもしれません。どう見られても構いません。「どうしてキリストが」と十字架を見上げるとき、私の胸は痛みます。キリストの受けた痛みの1億分の1にもなりませんが、それでも痛みを覚えます。
 
もしあなたもそのような苦しみや痛みを感じたのであったら、私は思います、あなたはキリストの腕の中にある、あなたは救われている、と。
 
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
人が平和を造ることがあるとすれば、その痛みを常に感じつつ、イエス・キリストの道をとぼとぼと歩いていくこと以外には、ないのではないでしょうか。キリストの十字架を見上げ、その前にひとり立つ、そんな夏を、共に歩きませんか。神の前に、ひとり立つ者として。

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