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『神の国 説教』(及川信・一麦出版社)

体を壊しての中で、教会で説教を語り続ける。偶々その教会から転任してゆく頃に、ルカによる福音書から講解説教を展開した。今回、その中から特に「神の国」を含む聖書箇所から語られた説教だけが集められた。ユニークな編集である。
 
神の国。それは、神の支配を意味する語である。教会で説教を聞く者は誰でも知っている。土地のことを指す言葉ではない。そして、一般にしばしば「天国」と呼ばれているものがそれであることも、信徒には常識である。
 
死んだら行くところ、という理解を、キリスト者はしていない。それもあるだろうが、いまここにも、神と結びつき神に従う者にあっては、神の国を覚えて当然よいのである。
 
しかも、これはルカ伝である。いろいろ手を広げて、この福音書ではどうのこうの、と比較して説明する方法もあるだろうが、それは採らなかった。一人の福音書記者の視点に徹することで、その人に臨んだ神の真実と差し向かいになろうとするのである。これはよいことだと私は思う。客観的真理を目指すと思って、福音書全体からひとつの「まとめ」を抽出して示しても、それは、まるで10人の平均の顔をコンピュータで合成したようなものであって、そもそも誰の顔でもない。存在しない幻でしかないのだ。だが、ルカが直に出会った神の声というものは、ルカだけに徹したところには、きっとある。それを聞こうというのである。
 
その本筋もさることながら、私が注目したことがある。説教の中で、教会の歴史や実情を、半ばプライバシーを晒すような形で語ることがあると思われる。語るときには当然である。ただ、そのままこうして出版してしまったら、拙い店があるのは確かだろう。その拙いとは思えないような情報なのだが、「日本聾話学校」への献金がよくあるようなのである。個人的な指定献金であるのかもしれないが、教会からこうしたところへ気持ちが向くというのは、とても心強いと私は喜んだのである。
 
さて、神の国に関するこの人のメッセージであるが、そこらに転がっているありふれたものとは違うものを私は感じる。すでに何冊かこの人の説教集に触れているが、どう説明してよいか分からない魅力があるのだ。
 
時折ギリシア語の単語のニュアンスを説く、というのは多くの牧師がすることである。中には、ギリシア語など殆ど知らないのに、どこかで解説されていた意味を殊更に取り上げて格を付けようとする意図が見えることもある。誰もが知る薄っぺらい説明しかできないことは、聞く耳をもって聞けば分かる。だが、著者の場合は、しばしばこういう展開を見せる。ここでAと訳されているギリシア語は、別の箇所ではBと訳されている、だからこの語にはこのような豊かな意味があり、そこから感じられることを私はこのように受け取っている――。直に、福音と直面している驚きのようなものすらそこから伝わってくる。神と向き合って知らされた出来事を、共に感じることができるのである。
 
また、他の特徴としては、キリスト教や教会についての、適切な批判をもっていることである。世の中には、聖書そのものに矛先を向けて、歴史的なイエスはこんなことはしなかった、などと強弁する牧師もいる。信仰を語るという説教の真髄を棄ててしまう暴挙をなすのだが、ここは違う。信仰に立っている。その上で、キリスト教を冷静に見るのである。キリスト教が歴史の中で傲慢に振舞ってきたこと、聖書に基づくと言いながら人間味を以て、よくないことをしてきたこと、悪い影響を与えたこと、これを捉えている。私も正に、それと同じ地平を見ているために、言おうとしていることはよく分かる。
 
その点で著者は、たとえば「教会こそ、偽善者を産み出す所でもある」とまで言い切る。もちろん、悪口ではない。教会生活をする中で、信仰者がしばしば陥る心理や考え方について、しっかりと釘を刺しているのである。これもまた、私が繰り返し語っていることである。仲間内だから、よくないところがあっても認め、許し合うべきだ、とこうしたことを発言することを戒める指導者が多いのだが、それでは、不正を隠蔽するのが当然だ、という圧力の中でおとなしくしているどこかの会社と同じである。教会は、特に魂の問題を扱う。行動に出なくても、動機を探るのが聖書である。そこに、傲慢や不真実を導くものが芽生えてくることについて、鈍感であってはならない。著者は、そういうところをきちんと見ている。それを説教の中で、適切に指摘する。私がこの著者の説教を好むのは、そういうところであると言ってよいかもしれない。
 
もちろん、恵みはふんだんに受ける。その角度から見るのか、と教えられることが度々ある。十字架の場面で、太陽が暗くなったということで、直ちにそれは「日蝕」に違いないから、天文学的に日蝕の計算をすれば十字架の期日が分かるぞ、とした研究が多々あるけれども、著者に言わせればそれはある種の比喩のようなもので、イエスの死は光が一旦消えたということを知るべし、という記者のメッセージである、と読む。こうもはっきり、当たり前のことをぶつけてくる説教者は、そう多くはない。聖書と格闘し、聖書と真剣に向き合っているからこそ、十字架の場面に光のことを感じる心が働いたのであるに違いない。
 
神の国は、つまるところ十字架と復活なのであろう。だが、逆に言えば、十字架と復活だけを語れば福音になるのではない、ということにもなる。やはり神の国という視野がどうしても必要なのである。神の国というキーワードにより、福音書を読み解いていくことは、信仰の要であるはずなのだ。本書がそれを問いかけるために、「神の国」に的を絞り、ブレなかったのは、見事だと言わざるを得ない。
 
それでいて、表紙には中央に「愛」という文字のデザインが掲げられている。私はここに、著者の真意を見るような思いがした。この説教では、ことさらに「愛」は強調されない。殆どそれについて語っていない、とさえ言える。だが、神の国の中央には、命の木があり、そこにある実は、確かに「愛」なのであろう。イエスにしてみれば、十字架と復活というところからもたらされた愛である。では、人間からすればどうだろう。それは、本書からのメッセージを、ふんだんに受けるならば、読む者の心に及んでくる愛なのかもしれない。
 
以下、294頁からの引用を以て、本書のご紹介を終えることにする。
 
主イエスの十字架の死の姿を見、その言葉を聞くということは、新しい人間を造り出すこと、自分の罪を知り、「胸を打ちながら」その罪の赦しを求め始めることなのです。私たちも、この礼拝に於いて主イエスの姿を見、その言葉を聞かねば礼拝したことにはなりません。

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