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結婚破り (出エジプト20:14, 申命記5:18)【十戒⑦】

◆性犯罪の事実

キリスト教は「愛の宗教」だと言われることがあります。眉に唾をつけておきましょう。皮肉かもしれません。キリスト教こそ、傲慢にもこれまで神の名を用いて戦争を起こしてきた張本人ではないか、と言う人がいます。言われてよいのです。言われなければなりません。
 
キリスト教が科学を生み出したが、その科学が自然を壊しているではないか。言われてよいのです。ギリシア文化も科学には大きく影響していますが、確かに神の栄光をあらわすために、熱心に科学を探究したのは事実です。もしこれに弁護してくれる人がいるとしたら、キリスト教の外部の人であってもらう必要があります。自己弁護は見苦しいし、傲慢につながります。
 
キリスト教自身が「愛」を強調してきた歴史があります。多くの先人たちが努力して、人を大切に扱おうとしたのも確かです。貧しい人々のために生涯を捧げたり、多くの孤児を育てたりしたクリスチャンが日本にもいます。でも、私たちが立派なことをしているようには言えないでしょうし、教会の看板が少し褒められたとしても、私たちが鼻高々に浮かれているわけにはゆきません。教会の人は、いい気になってはいけません。そういう態度は、聖書のスピリットから最も遠い者なのです。
 
さて、その「愛」なのですが、この言葉、どう思いますか。「アガペー」と「エロス」は、20世紀の神学者・ニーグレンが断言してすっかり有名になりましたが、あまり杓子定規に分ける必要はないように思われます。聖書はそのような簡単な公式で料理できるものではないのです。
 
それよりも、「愛」という言葉に、何かいかがわしさのようなものを覚える人はいませんか。キリスト教が「愛」を強調する前までは、「愛」という言葉は、もっと生々しいものでした。それはいまでも同じように言えます。「二人は朝まで愛し合った」と聞いて、何を想像しますか。「愛人」という言葉は、決してキリスト教の「愛の人」を表わすものではないでしょう。「愛欲」はもちろん、「恋愛」にも、キリスト教が掲げる愛のイメージは重ならないだろうと思います。
 
いま、いわゆる「性愛」のイメージで捉えられる「愛」に目を注いでみましょう。キリスト教世界でも、特に中世では、こうしたものは肉欲的だとして、激しく強い警戒をもちました。
 
いまでも、神父になったらその後結婚はできない、というのがカトリックの決まりです。そこには教義上の意味もあるのですが、それが原因かどうか分かりませんが、近年あちこちから、性犯罪の存在が明らかになってきています。報道されているよりも、もっとたくさんの事案があることが予想されます。
 
もちろん、プロテスタント教会にも、そういうことは多々あります。こちらは普通結婚は問題がないのであるにしても、児童買春事件が近年ありました。少し以前には、キリスト教のラジオ放送までしていた牧師による犯罪があり、死者まで出した深刻なものでした。ごく少数の例を大きく言うな、と言われるかもしれませんが、ハラスメントが表立った問題にもなっていることからしても、氷山の一角であると見たほうが適切であるようにも考えられます。
 
いわゆる犯罪とまでならなくても、性の問題はデリケートな問題です。以前、教会に交換講壇で訪れた牧師が、「言いにくいことかもしれないけれども、やはり誰かがこうしたことに触れなければならない」と前置きして、そういう問題を説教の中で取り上げたことがありました。結果的に、それはオブラートで包んだようなソフトなものでしたが、このような断りを入れる必要があるほどに、取り上げにくい問題なのです。タブー視されている問題なのです。そして実際、ほかに正面から取り上げたようなことを、私は知りません。
 
ただ、外国では、取り上げるところもあるといいます。『福音と世界』誌でここのところ連載されている「教会におけるマイクロアグレッション」の連載では、性差別の現状が厳しく問われています。
 

◆同性愛など

ところで、近年社会問題にもなっていることとして、同性愛などの「LGBTQ」と呼ばれる問題があります。最近当事者として発言力をもつようになった沖縄出身の牧師が、NHKの「こころの時代」で、一時間にわたりこの問題を語っていました。傍から見るのとは違い、差別を現に受けてきたこと、しかもキリスト教の牧師という立場に対する風当たりなどを含め、静かに語るその言葉には、胸を打つものがありました。
 
いまでは人口に膾炙するようになった「LGBTQ」という言葉は、同性愛と言いきることのできない多様性を含んだ人々のあり方を示すものと考えられています。これに対して一部の教会が「寄り添う」というような言い方を表明しています。それは結構なことです。でも、私は何かそこに無責任な忘却があるように思えてなりません。それは、彼らをそもそも痛めつけてきたのがキリスト教と教会であった、ということを棚に上げているように見えるからです。
 
彼らの味方をすると言うので在れば、まず明確な悔い改めをしなければ、キリスト教とは言えないと思うのです。だのに、ずっと以前から味方であったしお友だちだったのよ、のような顔をして、良い子を演ずるようなふうに、どうしても見えてしまう。でもそれは、断じてやってはならないことだと私自身は考えます。
 
どうして教会が彼らを痛めつけてきたのか。それは、聖書に書かれているからです。聖書を信じるとあらば、聖書にある記述をどう理解し適用するか、重大な問題にぶつかるのです。いまここでその規定を並べ立てることは致しません。誰でも簡単に、いくらでも見つかります。「律法」と呼ばれる規定を読めば必ず出会いますし、パウロの手紙の中でも露骨に出てきます。
 
たとえば律法の中には、「獣姦」と呼ばれるものにも言及があります。この言葉を、知らない人も少なくないかもしれませんね。それはまだかなり少数な例ではあるでしょうが、さて、LGBTQを多様性と歓迎する人々が、獣姦もまた多様性のひとつ、と歓迎するのかどうか、その話は私は知りません。ほかにも「屍姦」というものもありますが、これ以上は申しません。
 
聖書には同性愛を明らかに禁じた規定があり、それは死刑だ、としてさえいます。そのために、キリスト教会は、歴史の中で同性愛者を迫害してきました。聖書がそう言っているのであれば、それに同調して、誰もが平然とその「罪人」を断罪できます。異性愛者だけが正義であり、同性愛者を正々堂々といじめることができるのです。死刑にして当然だ、とさえ理解していたのです。
 
それに対して、特に近年、「いや、聖書は同性愛者を差別していない」と、聖書を擁護するような神学も生まれています。なんとか理屈をつけて、聖書の言いたいことは違うのだ、というふうに述べるのです。その姿勢を非難するつもりはありませんが、これもなんだか、自分は正義だという顔で言い放つべきことではないとは思いませんか。自分が痛めつけてきたことについての悔い改めを欠いては、どんな説明もできないのではないでしょうか。
 
聖書を根拠として、彼らを人間として扱ってこなかったのは、正にキリスト教なのです。「いや、それは昔のことでしょ。自分たちには関係がない」などとは言わないでください。それだったら、イエスの十字架がなぜいま私たちの救いになるのか、という問題にも響いてきます。自分には罪がない、と言い張るつもりなら、もはやキリスト教の救いなどというものは、いま存在しないことになってしまいます。
 
それに、昔のことではありません。つい最近まで、同性愛者は犯罪者であり、社会的地位も抹殺されていたのです。いまでは文豪として尊敬されているプルーストや、オスカー・ワイルドがどんなふうな目に遭っていたか、誰もが知っておくべきだろうと思います。
 
同性愛者が死刑になる国は、いまでも何カ国があります。死刑とまではしなくても、少なくとも犯罪とされるような国は、もっと数多く存在います。もしたとえ犯罪規定がないにしても、社会的な差別やいじめがある国となると、もう殆どの国がそうではないか、とすら思われます。
 
他方、聖書を信じることが第一だから、という言い方で、同性愛を認めない教会が、多数あります。なにも彼らを罵倒はしないし、礼拝に出席していても構わないが、と前置きした上ですが、それをよいとは思わないし、同性愛者の結婚式など絶対にできない、という姿勢の牧師や教団がたくさんあるわけです。そちらの方が平均的であるかもしれません。
 
愛し合うことを説きながらも、聖書の文句を基準として、同性愛は聖書からは赦されない、との態度をとるのですが、聖書をどう解釈するか、ということについては、イエスが手本を示してくれました。旧約の律法を挙げ、それを新たに規定し直しました。ファリサイ派などがそれを根拠に弱者を圧迫している様子を、徹底的に批判したのです。
 
ファリサイ派はそれなりに、聖書の規定を解釈し、その解釈が絶対正しいという前提で、弱者を弾き出していたので、それに対してイエスは明らかに怒っていたということになります。聖書に対する自分の解釈が決定的な規定だとしてしまい、それに合わないと見なした弱者を弾き出すのは、イエスの姿ではないように思えてなりません。
 
それに、私は強く思います。キリスト教では、よく「赦しなさい」と教えられます。でもなかなか赦せないよね、と私たちは互いに笑います。勘違いも甚だしいと思います。私たちは、赦す立場にいるのでしょうか。他人が私たちに対して悪いことをするのを見て、自分がそれを赦してやる、というような偉い立場にいるのでしょうか。むしろ私たちは、自分こそが常に赦されなければならない立場にいて、赦されることを求める者でしかないのではないでしょうか。それをすっかり忘れてはいないでしょうか。
 

◆汚らわしいのか

本日は、再び十戒に戻ってきました。途中で十字架と復活を挟んだため、少し間が空きましたが、十戒は順番どおり、続きを受け止めていきます。
 
姦淫してはならない。(出エジプト20:14)
 
これが軸です。性愛について少し触れてきましたが、本日のポイントは、その中でも「姦淫」にあります。言葉を知らない人もいるかもしれません。「不義」「密通」でもダメでしょうか。「不貞」も怪しいか。いまの時代では「不倫」なのでしょうね。しかも、それは悪いことというイメージがあまりないようです。時には「文化」にもなりました。
 
しかし、それはやはり問題です。世界各地でこれを禁ずる法律すらありますし、よくないことという慣習があるのは常識となっています。それのは、結婚制度や子孫の血統を崩すことになるからかもしれません。新約聖書では、マタイ伝5章で、イエスがこれを真っ向から取り上げています。

27:「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28:しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。
29:右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。
30:右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」
 
右目をえぐれとか、手を切り取れとか、酷く残酷です。文字通りそれをしろとイエスが言っているというよりも、そういう意義を噛みしめよ、と理解しましょう。でも、イエスは確かにそう言ったとされています。十戒の「姦淫するなかれ」を、さらに徹底したことになります。
 
この点を強調した現代のグループとして、統一協会が挙げられます。手を替え品を替え、姿を隠して金を集める姿勢は結成以来何も変わりませんが、純朴な羊が金を出させるのに都合がよいため、平和な家庭、純潔な生活、というのを看板にすることがあります。清い生活をしましょう、という触れ込みでよい人を演じます。しかも反共産主義を叫べば、与党政治家を味方につけることができます。広告塔に政治家が使えるため、安倍元首相はそれに乗せられてしまい、統一協会を狙う人の手により犠牲となってしまいました。
 
エホバの証人も、潔癖さを強調するところがあります。モルモン教も、戒律が厳しく、同様に潔癖であることをモットーとしています。皮肉なことに、「正統的キリスト教」と自称するグループが、性に関しては最も緩いように見えます。
 
けれども私は、その緩いことが、即座に悪いことだ、と言いたいわけではありません。これらの潔癖強調者たちは、性を汚らわしいもの、という前提で扱っているように思えるからです。少なくとも聖書において、そういうことは言えない、というのが、聖書を素直に読んだ結論だ、と考えるからです。
 

◆愛すること

そもそも、「産めよ増えよ」というのが、創世記のスタートからの祝福でした。性を厳格に抑圧することとは、どうもつながりません。
 
「雅歌」という書があります。旧約聖書の編集においても、これを採用するかどうか、最後まで議論があった、と言われています。けれども現に入っています。そこには神と人との間の関係が象徴されている、というふうに見る人の意見が勝ったのでしょう。そのように雅歌を読む人は、聖書を理屈で片付けることのない、霊的な捉え方のできる人であることが多いように思えます。ただ、あれはどう見ても、男女の愛の歌です。かなり艶っぽい詩となっていることは、一読すれば分かります。
 
創世記だけを見ても、人間の性的な部分が実によく描かれています。男を奪い合う場面、そのために媚薬をも用いるようなこと、妻を喪った男が娼婦に身をやつす話など、たくさんのドラマが見られます。一人の女性を愛するために、長い期間の労役に耐える男の話もありました。当時の女は、子を産んでなんぼという世界でありましたが、子を産むことが性的愛の結実であるとすれば、それを汚れのように決めつけて見ることは、根本的に間違っている、としか言いようがありません。
 
愛する、というのは、麗しい者です。預言者ホセアは、ほかの男に走り、その子まで産んだ妻を引き取り、愛し抜きます。もちろんそれは、背信のイスラエルを神が愛し抜くことのアレゴリーである、という解釈が可能であることは分かりますが、しかし預言者の書を比較しても、ホセアという人間のリアルさを完全に創作に過ぎない、などと断定する勇気は、普通もてないと思います。
 
イスラエルが最大に繁栄した時の王ソロモンには、千人の妻と側女がいたと書かれています。これが国を分裂させ、やがて滅ぼす源となったとも考えられるのですが、それは性愛のルーズさのためではないように描かれています。外国の女たちが、イスラエルに各国の神々を持ち込んだことが問題だったのです。
 
これは男同士の話ですが、ダビデとヨナタンの友情は、女の愛よりも強かったというように書かれてあります。本当にただの比喩だったのでしょうか。考える余地はあろうかと思います。
 
新約では、マルタとマリアという姉妹が登場し、比較的大きな役割を背負っています。イエスが生活面で頼っていたようです。しかし、いい年をした二人の姉妹が一緒に暮らしている、という情景は、なんだか不自然ではないでしょうか。二人とも夫を喪い、また姉妹として共に暮らしていたのでしょうか。そのとき、生活収入はどのようになっていたのでしょうか。
 
これらはいらない想像かもしれません。この二人とイエスは非常に親しかったわけですから、もしも、二人が血のつながりのある姉妹ではなかったのだとしたら、聖書の捉え方に大きな変換を呼ぶことにすらなる視点が与えられるかもしれません。特にカトリックは、「イエスの兄弟」という言い方は実際の兄弟ではないことを表わすこともある、と公式見解で解釈していますから、マルタとマリアの「姉妹」が実際の姉妹でなくても、何の不思議もない、といった想像をするのは、冒涜的でしょうか。
 

◆愛とは

ところで、この「愛」という日本語、今度は目を移してみます。いまの私たちは、男女の美しい愛を思い浮かべるかもしれませんし、さらに「博愛」というようなニュアンスで、人を助ける愛、という意味にも使うでしょう。「愛は地球を救う」のですし、「地球にやさしい」というスローガンもありました。
 
しかし、日本語の「愛」は、とてもとても博愛などと呼べるようなものを表せるものではありませんでした。日本語で元来「愛」というのは、物事に執着すること、偏愛することを示す傾向がありました。つまりは、欲望です。仏教では、そういう煩悩としての「愛」から離れることが必要だと考えられていました。ですからキリスト教の愛の意味ならば、むしろ「慈悲」と呼んだのです。
 
「愛」という字を、古文ではどのように読んだでしょうか。場面によって異なりますが、「かなし」という読みが古語辞典に登場します。悲しい意味ではありません。古典の先生からはお叱りを受けるかもしれませんが、私の感覚では、いまでいう「せつない」に近いようなものではないか、と思います。心が動かされ、思いがとめどなく溢れる様です。時にそれは「かわいい」ことにもなります。中学生に教える意味は、これです。そう言えば今でも「愛しい」と書けば「いとしい」と読みますね。
 
キリスト教が日本に伝来した頃、「愛」といま訳されている語について、先人たちは「御大切」と訳していたといいます。とてもとても「愛」などという語は使えなかったのです。それが、キリスト教が広まるにつれ、「愛」という語をいわば美徳へと昇格させて用いるようになるのでした。かつての「愛」の意味を変えたのは、キリスト教がそう訳したことに基づくのではないかと思われます。但し、その細かな経緯については、確かなことを私は知りませんので、ご存じの方は教えてください。
 
キリスト教の概念として「愛」という語が使われるようになるにあたり、当初はずいぶん文句が言われたのではないか、と私は想像しています。しかしいまは社会的にも認められるようになり、一般的にも、「愛」は自分を捨てるようなものとしてさえも受け止められるようになっています。
 
聖書の記事にしても、それは愛なのかどうか、いまから逆に問うべきことが見られるように思います。詳述はしませんが、怪力サムソンの場合はどうだったでしょうか。サムソンは最後、やはりデリラが好きだったのでしょうね。自分の身を滅ぼすことが分かっていながら、自分の弱点を打ち明けてしまったのです。
 
イエスの系図にバト・シェバという女の名があります。ダビデにとりバト・シェバとは何だったでしょうか。神の摂理でこの女からソロモン王が産まれることになるのですが、晩年ダビデは、このバト・シェバにいいように操られているのは確かです。ダビデの好色すら、神の摂理の手段であったのかどうか、そこは解釈の余地がきっとあるでしょう。
 
自分を犠牲にすることが、いまでいう「愛」に隠れているのでしょうか。そのためには、強い決意が必要なようです。いまでも「愛は意志である」と言われることがあります。たんなる好みや感情では貫けないものがあるのだ、と。古代ギリシアにおいては、近代人が使う意味での「意志」という言葉は使われていませんでした。「意志」は、非常に近代的な概念なのです。英語で意志を表わすwillが、そのまま「未来」という時制を表すものと変容したのも面白いところです。
 
しかし現代の私たちにとって、「愛は意志である」というのは、少し魅力的な考え方であるように思えます。神も、ある種の意志を以て、私たちを愛したのでしょうか。それを「契約」というような言葉で表現したのは、人間との関係を何らかの形で印象づけるためだったのかもしれません。人間はこの神と、離れることの赦されない強い結びつきの関係の中にあるのだ、という理解です。すると、その関係を破壊してしまうことは、非常に拙いことになります。「姦淫」と呼ばれるものは、神を裏切り、この関係を潰してしまうことになるのでしょう。
 

◆結婚破り

先に取り上げたように、イエスは、山上の説教において、手厳しいことを告げていました。旧約の律法の規定を新たな光で規定し直すということを、この山上の説教ではいくつか行っていますが、この姦淫については、目をえぐり出せとか、手を切り取れとか、男たちが震え上がるようなことが言われていました。思えば、この律法が男のみを相手にしているという意味で、現在のジェンダー基準からすれば問題なのですが、そこはいまは掘り下げないでおくことにします。
 
しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。(マタイ5:28)
 
余談ですが、1631年にロンドンで出版された欽定訳聖書は、「姦淫聖書」としてとみに有名です。英訳において、十戒の「汝、姦淫するなかれ」の「not」が抜け落ちてた出版されてしまったのです。「姦淫せよ」と、十戒が命じている。もちろんこれはスキャンダルとなり、出版社は仕事ができなくなり、罰金と焚書とが待っていました。しかしいまなお、少数ですが遺っているのだそうです。いったい幾らの値がついているか、私は知りません。
 
2023年末、岩波訳と呼ばれる「新約聖書翻訳委員会訳聖書」の改訂版が発行されました。30年前からも思い切った解釈と訳とで、世間に挑戦してきたわけですが、今回も一部において、大胆な変更を行っています。その一つがこのマタイ伝の姦淫にまつわるイエスの言葉でした。「姦淫」という語は、法律にはありますが、一般には殆ど使われないような気がします。一般に使われるのは、教会という場だけではないか、と。そこで岩波訳は、これを思い切って換えました。

「誰でもある女を見ながら、彼女への欲情を覚えてしまう者は、自分の心の中で既に彼女と結婚破りを犯したのである。」(マタイ5:28)
 
「姦淫」を「結婚破り」としたのです。これはなかなか面白い着想です。結婚はひとつの「契約」による制度です。この契約に基づく結婚制度を破壊する行為が、この「姦淫」とされるものだ、ということが強調されています。しかも、一読して意味が分かるようになっていると言えます。
 
預言者ホセアが、結婚した妻の不貞を赦したのは、神が人間を愛することを示したものだ、と先に取り上げました。つまり、結婚というものは、神と人との契約、神と人との結びつきの関係とパラレルに理解されるものだ、というわけです。
 
結婚。この制度がいまの社会で、揺らいでいます。結婚を増やし少子化対策を実施するために、毎月数百円の税金を増やして、資金を国民から普く拾うように政府は動いています。少子化対策として、子どもを育てる経済的な条件を考えることには、意味があるかもしれません。けれども、それがすべてではないし、私から見れば、それは根本的なものではありません。そもそも若い世代の「空気」が、子どもを産むという方向から、どんどん逸れているような気がしてならないのです。
 
もちろん、経済的な見通しも、影響しているとは思います。独りで生きるほうが楽だ。二人で暮らす金が足りない、という意味ではないように感じます。一人だと食っていけなくても、二人だと食っていける、という知恵がよく語られます。子どもにしても、一人の子よりも二人のほうが暮らしやすい、ということも、育てた身からすればひとつの真理であるように思えます。
 
私などは、金銭に無頓着で、妻に苦労をかけ通しです。正社員となつた経験がありません。子どもが三人もいて、いったいどうやって暮らしてきたのか、奇蹟のようなものです。でも、思い切って船出をしてみれば、なんとかこうやって生活してこれました。神の助けの故だ、と言ってしまえばそれまでですが、それにはもちろん、妻の苦労を始め、周りの多くの人々に助けられたからです。
 
しかし、そうした船出をしたいと思わないのが、昨今の風潮のようにも感じられます。時折善意から、「共に生きる」という言葉が口にされます。教会でも合言葉のように掲げられて心地よく響く言葉ですが、あいにく世の中では、「共に生きる」ということには良さを感じないでいるか、あるいはそんなものは夢のまた夢だ、としか考えられていないのではないか、と訝しく思います。
 
傷つきたくない、と思う。だからまた、誰かを傷つけたくない、とも思う。そのため、他人に対して思い切って踏み込むことができない。他人と強く関わらないほうが、精神的に楽だ。こうした心理は、確かにいまの世の中に流れているように思われます。これを推し量ることなく、金銭を与えれば少子化が解消されるはずだ、という見通しだけで税金を増やすというのは、果たしてどうなのでしょうか。現在子育てをしている人たちの助けになる分は、それはそれでよいと思いますが、結婚しないほうがいいとか、結婚しても子どもはいないほうがいいとか、そういう方向へ進む船は、なかなか針路を変えないような気がしてなりません。
 

◆イエス・キリストの愛

最近のアニメで、生活風景を描くものは、概して言葉遣いが丁寧です。子どもたちが互いに、「ですます」で話しています。人に刺激を与えるようなことは極力慎んでいるように見えます。思ったことをズバズバ言う役柄は、ちょっと困ったキャラか、型破りな主人公か、というところでしょうか。
 
そう、少々空気を乱す者であっても、ズバズバ口にするキャラが、物語の世界を打ち破ってゆきます。恋愛関係をつくる物語の中には、互いに言えないで視聴者をじらすタイプのものもありますが、それはじらすことが展開のウリになっているからで、結局どこかで踏み込むことで、二人の関係が新たな局面を迎えることになる設定になっています。
 
愛は、やはり踏み込むのです。愛は、ぶつかるのです。人格の中心のところで、愛は一線を超えていきます。ただのやさしさではありません。傷つけることもあります。傷つけられても、それだからこそ愛が生まれる、そんなあり方の中に、私は健全さを感じます。
 
イスラエルは、旧約の歴史の中で、神を裏切り続けました。しかしまた、預言者たちを通して、神に立ち帰ろうとしたことも度々あります。ユダの王の中には、神に帰ろうと呼びかけ、宗教的に評価される王が何人もいます。そんなことをしても、イスラエルは、不信の歴史を背負い、国はぼろぼろになりました。バビロンに捕囚され、神殿は破壊されてしまいます。
 
神は、そんなイスラエルを、それでも愛そうとした。そういう預言も多々ありました。神はイスラエルを、そして人間を、愛そうとして、こちらもまたぼろぼろになりました。イエス・キリストは、十字架の上で、ぼろぼろになりました。ある説教者の言葉を借りれば、「ボロ雑巾のように十字架に晒された」のでした。
 
私たちは、この十字架を知っています。そして、二千年の時を超えて、イエスをその十字架につけたのは、この私自身なのだ、ということを知っています。それでもなお、神が私の名を呼んで、救いの手を差し伸べていたことを知っている、それがキリスト者です。神はとことん、踏み込んでくるのです。
 
だったら、この神の愛に、背を向けるわけにはゆきません。神とのつながり、神からもちかけられた「結婚」に等しい契約を、破ることはできないのです。
 
神を愛する。難しいことです。神の愛に応える、それは簡単なことではありません。でも、隣りにいる人に向けて、神の愛を少しでも真似て、近づくことはどうでしょう。そうです。目の前の人を、愛すべき人を、愛そう、と努めたらよいのです。この人のためなら死んでもいい、というくらいの思いをもてるようになれたら、最高でしょう。
 
但し、あなたにそうやって愛することをもちかけて、あなたからお金を巻き上げようと企むような悪人の策略は見抜かなければなりません。そんな者のために、死んではなりません。賢く、気づかねばなりません。宗教の名前を掲げて、あなたを金づるにしか見ていない集団すら、現にあるからです。
 
しかし、イエス・キリストは、無償であなたを救いました。すべての人を愛し、十字架で命を棄てました。それから復活して、愛は滅びないことを示してくれました。この愛に、私たちはどう応えたらよいでしょうか。
 
それは、イエスと出会い、イエスの愛を全身で受け止めたあなたが、あなたなりに決めればよいことです。神のほかの、誰の指図も受けません。偉そうな顔をした先生の言葉を真に受ける必要もありません。あなたが、あなたと神との関係を破らないようにすると、よいのです。神は、約束を必ず守るお方なのですから。

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