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ひとを悪く思ってはいけないのか

論理正しくあればよいのだ。そういう感じで押し切ってくる人がいる。職場の上司であると、これはもう逆らえない。こうだからこうするはず。何故できないのか。何故そんなことを言ったり訊いたりするのか。
 
しかし、そこで繰り出される論理は、しばしば別の場面とは食い違うことがある。ある時にはAだから、と理由を付け、ある時にはAではないから、と理由を付ける。要するにその時々に、自分が言うことが正しいのであって、常に原則Aに基づいているのではないという展開である。たとえば、ミーティングで指示を出しているとき、「メモを取らなくていいのか」と怒鳴るときもあれば、それを覚えてこちらがメモを取っていると「メモなんかいいからちゃんと聞け」と怒鳴るというような具合である。
 
情況は目まぐるしく変化する。原則が常に正しいかどうかは確かに微妙である。だが、そういう時でも、それなりに何か考慮して判断するのが、職業人である。判断が誤っているということはもちろんあるし、それは指導して叱るべきだ。だが、つねに部下が誤りで上司が正しいという前提からものを言うような権威は、組織全体を誤らせるのではないだろうか。相手が何を考えてそうした判断をしたのか、というところに思いを馳せることのできない者は、リーダーシップをとっているようで、実はそうではない。組織の論理だ、仕事とはそういうものだ、という根拠で、常に自分のその都度思う正しさというものからしかものが言えないようでは、当人は正しいと考えているかもしれないが、自分だけは誤りというものがないという原則だけで動くことになり、それ自体が誤りとなるであろう。
 
なんのことはない。それはかつての自分なのである。自分がその時正しいと考えることを相手に突きつけることによって、他人を追い詰めてきた。これが正義だ、どうだ、と凄むのである。
 
そのような自分の姿を、いまは少しは相対化できるようになった。ひとつ抜け出たことは確かである。もちろん、昔のそのままに、一向に自分の愚かさに気づかないで「正義」を撒き散らしていることは、きっとあるだろう。気づかないという愚かさは、人間にはどこまでもつきまとうものだ。ただ、昔は全く気づくことがなかったのが、いまは少しは気づくことができるようになった、ということである。
 
人の悪いところを見てはいけない、などということを言いたいのではない。他人の悪いところを適切に判断しなければならない。それでも、それを何か原則から外れているではないか、と大上段に構えて責めまくるのではなく、悪を悪として判断することが必要だということである。私としては、かつては責めまくっていたのだから、これはそれとは違うレベルであるつもりである。
 
ひとを裁いてはいけない、というのがキリスト者の心に注入された、厳しい教えである。しかし、ひとを裁いているではないか、と責められるのを避けようとして、互いになあなあで間違いを間違いのまま許し合うという事態が、しばしば見られるのも事実である。そして間違いだと指摘すると、ひとを裁くな、という原則が振りかざされるようになる。まことに言論の不自由な集団となっていくことで、教会という組織は実は崩れていくことも、仕方がないと構えているかのようである。
 
そうだろうか。否は否、と口にすることこそが、求められているのではないだろうか。だから、「批判」の言葉を禁ずるような空間にしてはならない。「批判」は「非難」とは異なる。「批判」は感情は入らず、その事柄の適否を根拠を掲げつつ検討することである。「非難」はそれの反対で、一方的に悪口を言うことである。「非難」はよくない。だが、「批判」は必要である。さらに、その相手の人格を攻撃することはもちろん避けるべきだが、特にその人なりにその悪をなす何らかの理由や背景があるということ、時に考えがあってそのようにやっているということ、それを十分想像し、一定の配慮をすることは必要である。その上で、結局のところ相手を許しているという中で、「批判」をするのである。
 
そもそも、新約聖書の手紙を見るがいい。ちょっと「非難」にも見えるものもあるだろうが、「批判」に満ちているのは確かである。初期の教会には、ほんとうに分裂や背反、策略や威圧など、様々な危ない力が働いている様子が分かるだろう。いかにも美しい綺麗事が並んでいるわけではない。キリストが律法学者やファリサイ派の人々に、どれほど辛辣な言葉をぶつけているか。それを真似せよというものではないが、私たちには賢さも求められているのは確かである。ひとの人格や魂そのものへの言及や、弱い心の人の感情を掻き乱すことを推奨するわけではないが、事柄自体に関わる限り、否は否、と適切に告げられるような関係であってほしい。教会は、仲良し倶楽部ではないのだ。そして、感情によらず信仰に基づく建物が、そこに建て上げられていくものなのだ。

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