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『寂聴 般若心経 生きるとは』(瀬戸内寂聴・中公文庫)

30年も前にベストセラーだったそうで、私も鈍い。やっと手にして読んだ。般若心経については何冊か解説書を開いたことがあるが、これがいちばん親しみがもてたし、分かった感覚がした。
 
最近は、寂聴さんについても知らない若い人が増えてきたと思うが、その説明はここでは割愛する。女性である。小説家である。いろいろあって、出家して僧となった。作家活動も続けており、本は非常によく読まれている。その寂聴さんの語る法話が集められた本である。一年間かけて般若心経について話したことをまとめている。
 
毎回少しずつ繙いていくのだが、話の前半かそれ以上は雑談めいている。話が実に巧い。思わず引き込まれる。そして無駄話のようなその話が、ちゃんとその日に説かれる般若心経のフレーズに当てはまっていく。しかも、前半がとても面白いので、般若心経の内容が、心にバンバンと入ってくるのだ。
 
そう。キリスト教の説教と、構造としては同じなのだ。何千人とこれを聞きにその寺に集まってきたというのだから、教会の礼拝で説教を語る方で、もし読まれたことがない人がいたら、ぜひお薦めしたい。
 
私の母は禅寺の生まれであった。小学生のとき、母に、般若心経を覚えるように勧められた。その前には姉たちからも、百人一首を覚えさせられていた前歴があるので、般若心経を覚えるくらいはそう難しくはなかった。お陰でいまでも唱えられる。もちろん意味は分からなかった。だが母にとり、般若心経はもっとも愛する言葉であったはずである。母が愛して止まなかった住職なる父が、きっと愛していたのだろうと推測する。
 
母は自分の死に装束も自ら用意していたが、同時に般若心経の写経を幾枚も用意していた。昔の寺というのは村の文化施設でもあり、書道を教えていたりもしたので、母も書が実に美しかった。私も書道だけは習わされた。結果的にこのことにはいたく感謝している。その美しい文字の写経とともに、母は旅立った。
 
父方は浄土真宗である。母の葬儀も浄土真宗の僧が呼ばれた。般若心経という経は、殆どすべての宗派にとり尊重されるもので、どの宗派であってもほぼ唱えて差し支えないものであるが、浄土真宗はこれを唱えない。プロテスタントとも比較される親鸞の思想からすれば、般若心経の内容は、むしろ退けたいような方向性をもつのである。それはちょうど、プロテスタント教会で、カトリックの一部の教義はどうしても受け容れられない、と考えているのと同様である。母の葬儀にも、般若心経が混じることはなかった。しかし、母は自ら書いた般若心経を棺に入れることを望み、晩年ずっと書き溜めていた。思えば、これは母なりの「抵抗」だったのではないか。
 
文庫の末尾のほうでは、それぞれの法話の、前振りのような部分を除いた、純粋な(?)般若心経の解説部分をつないだものが掲載されている。これは寺の印刷物に連載されていたものだそうで、ただ学びだけを、と思う方はこれを見るのもよいかもしれないが、私はせっかくの法話を味わわないのは損だと思う。そのうえで、どうか復習として最後のまとめをご覧になればいい。
 
いかにもの学的な雰囲気はない。また、寂聴さん自身の解釈というのもあるが、それはちゃんと分かるように書かれている。私は仏教の一部は、宗教と呼ぶべきものではなく、智慧とでも呼べばよいようなものではないかと考えている。あるいは、哲学と言えばよいだろうか。とくにこの般若心経は、妙に仏像を拝むような仏教とは違う、人生と世界についての思想という点では、短くもあるが、実にエッセンスの詰まった智慧であると思う。キリスト者も、どうそ安心して学ぶことができると見ている。教会の説教にも、奥深いところへの視点が与えられるのではないかと密かに考えているのだが、どうだろうか。

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