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だれにも話してはいけない (マルコ8:27-9:13)

◆メシアの秘密
 
キリスト教は最初から、この福音を人々に告げ知らせよ、という方向性をもっていました。復活したイエスが「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と言ったことでそれは権威づけられ、またこの福音書が書かれる前にも、パウロがユダヤ文化の外の領域に福音を伝えていたのも確かです。
 
世界へ出て行って、この教えを伝える。いわゆる「世界宣教」という理念に基づいてのことでしたが、後々それが問題を起こします。政治的あるいは経済的状況とでもいいますが、本当に世界へ出て行くようになると、西欧社会の力は、各地の文化や文明を滅ぼすことに手を貸すようになりました。
 
聖書で挙げられている特定のタイプだから、と一部の人を差別し、殺してきた歴史をも、キリスト教はもっています。私たちは、聖書を伝えるという使命を受けていますが、こうした点も踏まえて伝えたいものだと思います。そうでないと、実に無責任で厚顔無恥だと見られているだけとなるかもしれません。
 
ともかく今日はその「伝える」という使命を受けてお話を始めます。福音を「伝える」ことの大切さは確かに理解できます。しかし、今日イエスが「だれにも話してはいけない」と戒めているのは、由々しきことです。どうして秘密にしなければならないのでしょうか。
 
マルコによる福音書には、このように「メシアの秘密」と呼ばれる考え方がある、などと言われることがあります。どうも20世紀初めに、これは教会が創作したエピソードだろうとする神学議論が現れたことに基づくようです。
 
イエスの時代、我こそはメシアだと名のる者が各地で現れていたことから、混乱を避けるためだとか、人々がイメージしているメシアとは違うことになるのだからとか、いろいろこの秘密の理由については語られますが、今日は私の受けた光の中でこの問題を捉えてみようと考えています。
 
私の語り方からすれば、いつもなら、そう言われた弟子の立場に立って、この物語の中に入り込んでいくことになるかと思われそうですが、今日は、マルコと呼ばれている筆記者に寄り添ってもみたいと考えています。私の信仰から聞こえた声をご紹介し、受けた恵みを分かち合えたら、と願っています。
 
◆聖書の核心
 
私たちが信仰のベースにしているこの「聖書」にまず注目します。聖書とは何でしょうか。
 
イエス自身は、「律法」と「預言者」と称することで、旧約聖書全体を知らせるようにしていました。「律法」は単に「法」と言ってもよいものであり、今風に捉えれば「法律」に相当しますが、どういうわけか特別に示すために「律法」という語をあてるようになっています。
 
「預言者」は、文字通り預言者、つまり神の言葉を聞いたという者が神の代理のようにして語ったものをいいます。いまの私たちからすれば、「預言書」と呼んだほうが分かりやすいような気がします。しばしばそれは、現状への批判であり、神の罰を掲げるようなものでした。他方、これから起こることという意味で、希望を語ることもしばしばありました。特にイスラエルが捕囚の憂き目に遭った後に、回復し復興されていくという希望の姿が語られるのは、慰めとなります。
 
後にこれらに加えて「歴史書」と「諸書」という分け方が旧約聖書になされました。イスラエルの歴史を綴ったものと、ほかに詩編や知恵を集めたようなものです。後者は、知恵文学などとも呼ばれますが、「その他」に近い雰囲気もあります。
 
これらは「聖書」の分類ですが、私たちがそれを受け止める時には、どんな姿勢で読むべきかということについて考えますと、たとえば律法だと、それは戒律のような掟として捉えるべきもののようにも見えます。他方、心が洗われるような美しい教えだと感じる人もいるでしょうし、単なる文献や歴史の本として見ることも可能です。聖書が他の宗教書と一線を画すのは、ひとつにはここです。阿弥陀仏が地上で何をしたという遺跡というようなものは考えられませんが、イスラエルの歴史は考古学的にも実際の歴史として刻まれたものが数多く確認されています。普通の世界史であるのです。
 
また、未来を予言するという書として捉える人もいるはずです。偏るとえらく神秘的な、オカルト的なものに成り下がりますが、警告と見るならば、人間の生き方や態度の取り方に広く影響を与えることでしょう。ほかにもたとえば文学的な関心をもつ人は、また違った味わい方があっても構わないだろうと思います。
 
新約聖書の場合には、「福音書」に加え、「書簡」という「手紙」の形式のものと、「黙示録」が目立った分類となるでしょうか。新約聖書は、イエスという人が現れたとき、それまでイスラエルに伝わっていた旧約聖書が指摘していたことを、この人が実現した、と受け止めたことで成立してまいす。パウロをはじめとして、手紙という形で仲間に語ったことが教理となりました。そこへ、マルコという名でまとめられた「福音書」が、画期的な働きをします。それはイエスの言葉や行動の記録を形にしました。それは信仰の内容となり、また生活の指針ともなりました。
 
四つの福音書のうち、このマルコが最初に形になったであろうことは、近年の研究によっとほぼ確実だと言われています。マタイやルカは、このマルコを下敷きにして、新たな資料を加えて、それぞれの視点からマルコと同様な作品をまとめたという説がいま一般的です。ヨハネもこれらを部分的に見ていたはずですが、さらに大きく異なる視点から類似の作品をつくりました。
 
福音書には、イエスの生涯が描かれています。生涯とはいえ、それは私たちが考える「伝記」とはやはり違います。
 
◆イエス・キリストとは誰か
 
福音種の主人公はもちろんイエス・キリストです。これは姓・名ではなく、山田・先生とでも呼ぶような意味合いをもっている言葉です。このイエス・キリストとは誰なのか。福音書を読んだ人が、どのように受け止めることを願いつつ記述しているのか。やはりその大きな目的は、十字架刑にあるのだろうと思います。分量的にもそこへ向かう一週間がクライマックスとして大きく取られています。また、これが書かれた当時、パウロがイエス・キリストの十字架と復活を大々的にユダヤ人にも外国人にも伝えていたのですから、教会の信仰はそこにひとつの焦点をもっていたとしか考えられないのです。
 
そのためキリスト教会には普通、十字架が掲げられており、目印となっています。教団や教派が異なっても、この点で異論をもつところとは、キリスト教会として交わることはできなくなっています。
 
本日開いた箇所は、マルコの福音書の中央辺りに位置しています。かの時代、かの地の文学的常識として、まとまりの中央に重要なことを置き、そこから前後に対称的に、関係することを置くというスタイルがありました。
 
ともかく今日開いた箇所にあるものを、大きく捉えてみましょう。それは、
 1 イエス・キリストとは誰か
 2 十字架と復活への言及
 3 イエスの姿の変貌
の三つの内容を私たちに見せています。
 
イエスは唐突に、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)と弟子たちに尋ねます。弟子たちは、洗礼者ヨハネ・エリヤ・預言者の一人などと口々に言います。どれもイエス先生を特別な方だと認めていることが伝わってきます。そこへペトロが「あなたは、メシアです」と答えます。「メシア」というのはヘブライ語で、それに当たるギリシア語が「キリスト」です。新約聖書ではここで「キリスト」という語を使っています。しかし、新共同訳以来、当時弟子たちが認識していた言葉は「キリスト」ではなく「メシア」であったはずだから、その時の理解からすると「メシア」と訳すべきだという考えで、「メシア」と訳されています。つまりペトロの解答は、正鵠を射ていたということになります。
 
それでイエスはペトロを褒めたか。結局誰の答えをも否定はしないままに、不思議なことを弟子たちに告げました。
 
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
 
なぜ黙っていろと厳しく警告したのでしょうか。一説には、メシアだという評判が拡がると、当局に目をつけられてしまうから、というものがあります。いずれ捕縛され死刑判決を受けるのですが、まだイエスには使命がありますから、まだしばらくの間、その時がくるまでは淡々と教えや癒しをなし、エルサレムで証しをしなければなりません。余計な波風は立てるべきではない、というのです。
 
それもあるでしょう。しかし、実はこの後すぐにもう一度、「だれにも話してはいけない」と命じる場面があります。イエスがメシアであることを秘密にすることが了解されていたとして、これを「メシアの秘密」と呼ぶことがあります。そのことについては冒頭でも触れました。その神学はともかくとして、イエス自身がこの福音書の中で、自分をメシアだとか神の子だとか言うことがないことを含めて、「だれにも話さないように」という強い命令があったことを一旦心に留めておきながら、先を読んでみようと思います。
 
◆十字架と復活
 
十字架刑へと進む記事は、時系列からするともちろん福音書の後半に並ぶことになります。しかし、その十字架ということが初めて登場するのが、福音書の中央付近にあたる本日のこの箇所であったのです。
 
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 
これに先立ち、「十字架」という語を出すことのないままに、その事実を告げる場面もありました。
 
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
 
先生が殺される。弟子たちにこの予告はあまりにも残酷でした。驚くほかなにもなかっただろうと思います。イエスはこれをあまりにもはっきり言ったので、とても冗談には受け止められなかったのです。こういうときに真っ先に意見を言うのはペトロです。皆を率いるリーダーの素質というものかもしれませんが、仲間の気持ちを代表するかのように、イエスに言葉を返します。先生、ちょっとこちらへ、と大勢の前で恥をかかせるようなことのないようにイエスとプライベートな空間をつくります。
 
このときペトロはイエスを「いさめ始めた」(8:32)のでした。訳語はひとつこれに決定してありますが、この語は、非難する・咎める・警告する・諭す・譴責するなど、強い意味合いが隠されているものと思われます。
 
イエスは、弟子たちにも聞こえるようにペトロを叱ります。「サタン」とまで呼び、それは神の思いと反対のことであることをはっきりさせます。マルコは詳しくその内容を記しませんが、「三日の後に復活する」(8:31)という点を聞いていないのか、という叱り方であったのかもしれません。あるいは、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)という思いで、ペトロが理解できないことを叱ったのかもしれません。ただ、それを理解しろというのは、無理というものです。
 
それは、福音書を読む私たちへの挑戦であるのかもしれません。イエスは殺されて、三日の後に復活することになっている。これに対してどう向き合うか、受け容れるか、問うているからです。
 
◆最初の違和感
 
ところがこうして話を辿ってくると、ちょっと違和感を覚えるところが出てきます。
 
まず「命」です。「命」という言葉に注意してください。このペトロからの非難とイエスの逆叱責の直後に、イエスは弟子たちと、そして群衆までも呼び集めて、こんなことを言っています。
 
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
 
ここに急に「命」という言葉が並ぶのです。さっと読むと、意味を解しかねます。命を救いたいとき命を失い、命を失うなら命を救う。もしかするとこれは逆説かしら、とは思います。しかし次に、命を失ったら得はない、命を買い戻すのに代価は支払えない、となると、もう分からなくなります。片や命を失っても救うといい、片や命を失ったらだめだと言っているのですから。
 
ここでは、二つの意味で「命」という語が使い分けられていることに気づく必要があります。同じ「命」の語を、別々の意味で使っているのです。言語ではどれも「プシュケー」です。聖書の世界では、これは肉体と魂とを分けない形での生命を考えるときによく使われます。しかし古代ギリシアでは、プラトン哲学で霊肉の二元論における「魂」のほうだけを表すことがありました。
 
そこで英語では、ひとつをlife、ひとつをsoulと訳語を替えて混乱を避けています。そのようにして読むと、こうなります。
 
8:35 自分のlifeを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにlifeを失う者は、それを救うのである。
 
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のsoulを失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分のsoulを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
 
たとえ人生という形での命は、福音のために失ったとしても、神の救いに与ることになる。しかし、自分の霊的な命を失うことがあってはならない。これならば、理解できます。
 
こうなると、ここではやはり、弟子たちの生き方に問いかけるということが起こっています。さらに言えば、この福音書を記した目的につながるものが見えてくると思います。マルコは、十字架と復活を大切なものとしてここで登場させてきましたが、それは、イエスの生涯の実際の十字架と復活をここから描いていくぞという予告となり、それに先立って、読者に、十字架があなたとどう関わるか、心の準備をしておくように、と問いかけているのではないかと思うのです。
 
だからこそ、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)というような誘いかけがなされているのだと、私は理解します。
 
◆二つ目の違和感
 
次に、変貌のシーンに目を移します。イエスの姿が白く輝くように変わったという話です。実に不思議な話です。これは何を言いたいのでしょうか。
 
六日の後という謎の日付がありますが、よく分かりません。もしかすると、出エジプト記でモーセが山に登って主と差し向かいで話をするときの次の場面を背景にもっているのかもしれません。
 
主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。(出エジプト24:16)
 
そうなるとますます、ここから大切なことが起こるのだぞという構えを読者はとることになります。まず、弟子たちを厳選します。「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」(9:2)、これはマルコが知る教会共同体にとり、重要人物たちです。この三人がこの後、「だれにも話してはいけない」と命じられたのだとすると、この三人だけがイエスと特別な秘密を共有していることになります。だからこの三人に教会でも権威があるのだということを示しているように見えるのです。
 
山の上は、もちろんモーセが十戒を受け取る山を暗示しますが、そこでモーセとエリヤの幻が現れます。旧約聖書の重要人物であり、律法と預言者を象徴しています。エリヤもまた、カルメル山で異教の祭司たちを絶滅させる活躍をしています。ユダヤ文化の中にいる人は誰でも、この二人の登場で色めきます。この場面は、旧約聖書がイエスに委ねていく様子を感じ、イエスが旧約聖書を受け継いだということを知ることになります。
 
そしてイエスについても、この「高い山」(9:2)での変貌の出来事は、大きな意味をもつことになるでしょう。モーセは十戒を受けた山から下りて、人々の中に入りました。エリヤも、カルメル山での活躍を終えて後、干魃の終わりを告げる雨の中を「裾をからげて」(列王記上18:46)走り降りて、再び世へ戻ります。イエスも、この山で姿を変えたところを弟子たちに見せた後、今度は十字架へ至る道を進むべく、世で癒しや教えの旅を続けることとなります。
 
でも、それにしても何故イエスは変身しなければならなかったのでしょうか。
 
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
 
◆マルコはあなたに告げた
 
今日開いた箇所の最初のところに戻りましょう。すでに触れましたが、イエスのほうから弟子たちに話題を振ります。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)。このときに、弟子たちはイエスを、「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」、そして「預言者の一人」だと口々に言いました。そのエリヤが、高い山の上で、真っ白になったイエスの前に現れたのを、三人の弟子たちは見ました。もちろん、モーセもそこに見えました。
 
モーセもエリヤも、そして洗礼者ヨハネも、この物語に描かれた時点、つまり弟子たちが問うたその時には、すでにイスラエルに現れていた人々です。いわば過去の歴史となっていますから、いまの出来事を変える力は直接的にはもちません。賽は投げられています。もう時は動いています。マルコは、そのような設定の「時」をここに描いています。
 
マルコは私たちに持ちかけています。私に突きつけています。もう、この出来事は、すでに始まっているのだよ、と。
 
9:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
 
このイエスの姿は、君にとってどうなんだい、と問いかけています。マルコは声を大にして言いたいのだと想像します。「私は示したよ」、そのイエスとは誰なんだい。「私は示したよ」、この方がここで明らかにして、やがてそこへ向かっていく、十字架とは何なんだい。君も、「自分の十字架を背負って」、このイエスについて行くのじゃないのかい。イエスの十字架とは何であるのか、君も、君の十字架を通して知るんだよ。君もそこで死ぬんだ。自分本位で、神を知らずに生きてきた自分が死んで、本当の命が何であるのかを、知ることになるんだよ。この世の「命」と、永遠の「命」とを、悟らない者には分からないような仕方で、問いの中に仕掛けながら、迫っているのです。
 
ただ、まだこれでは、どうしてイエスが白く輝いたのか、そのことはぴんときません。
 
◆復活のイエスに出会う
 
ここで思い出すべきは、マルコによる福音書が、後で書かれたほかの福音書と決定的に違う点です。マルコの福音書には、復活のシーンがないのです。マタイやルカ、ヨハネは、このマルコの煮え切らない姿勢にしびれを切らしたのか、あるいはちゃんと復活の場面を書かねばならないじゃないかとの使命感に燃えたのか、復活の物語をしっかり補います。たとえそれがお伽噺のように見えようとも、物語ります。でも最初のマルコにはそれがありません。昔からこれは、不思議なことだと思われ、いろいろな説があみだされ、論議されてきました。
 
私は、今日共にお読みしたような道を通って、このいわゆる変貌山での出来事に触れたとき、まさにイエスが白く輝いたのを見た思いがしました。不思議な出来事です。福音書の中央にあたる大切な場所で、なんだか唐突に現れた奇妙な記事です。けれども、「イエス・キリストとは誰か」「十字架と復活への言及」と辿ってきたとき、あるものを感じました。
 
これが、復活のイエスなのですはないか。栄光に輝く復活のイエスの姿を、マルコはここに垣間見せたのではないか。福音書の巻末には、墓が空だったというだけの、暗示的に復活が示されていたに過ぎませんが、この真ん中に、ちゃんと描かれていたのだ、と思いました。マルコの描く、イエスの復活の姿がここにあったのだ、と。
 
時間順がめちゃくちゃではないか、とお思いかもしれません。もう少しお付き合いください。私の幻を仮定した上で、経過を見てみましょう。この復活のイエスに出会った三人の弟子は、神の国を知ることになります。まだ自覚もありませんし、理解もありません。私たちキリスト者もまた、復活のイエスに出会ったからこそ、信仰に入っているはずです。でも理解できているとは言えません。彼らと同じです。ただ、私たちもまた、そのイエスを見たのです。三人のように、見たのです。見たからこそ、いまこうして毎週主を礼拝しているのではないのでしょうか。
 
イエスは、自分のことを「だれにも話さないように」(8:30)と言った後、さらに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9:9)と命じました。後者を論理的に同じ意味で言い換えてみましょう。復活するまでは話してはいけない、と言ったのですが、そのことは、「復活したら話してよい」ということを表しています。いえ、むしろ「復活したら、話しなさい」だったのだと私は信じます。
 
死者の中からの復活は、お伽噺の信仰でしょうか。いいえ、違います。自分を棄てて、自分の十字架を背負う人生を歩むのがキリスト者です。「生きているのは、もはやわたしではありません」(ガラテヤ2:20)と言ったパウロの心境と重なります。自分は、自分に死ぬのです。死んでいるのです。死んだ自分は、イエスの言葉の故に生かされます。新しい命に生きるようになりました。私もまた、ある意味で復活しました。起き上がって、歩くことができるようになりました。
 
そのとき、自分の経験したことを話しなさい。あなたの見た復活のイエスのことを話しなさい。イエスのことを話しなさい。
 
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。
 
これは何のためにここで言われたのでしょうか。イエスを話すことを恥じるなということではないでしょうか。
 
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
これは、命が与えられたのだということと、つながらないでしょうか。神の国が実現するのを、キリスト者は、滅びることのない命の中で、確かに見るのです。だから、さあいま話すのだ。あなたが出会ったイエスのことを、余すことなく話すがいい。復活のイエスに出会うまでは誰にも話してはならないし、第一話せやしません。しかし、復活のイエスと出会ったならば、話せます。すばらしい姿のイエスを体験したならば、誰にでも話せます。話すがいい、話すことができる、だから話しなさい。
 
さあ、イエスと出会ったからには、もうあなたは命が救われているのです。だから、戸惑う必要はない。イエスのことを、思い切り話すがいい。話すことが、できるのです。

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