ひとの痛みを
当事者に、なれるわけがない。だのに、当事者のことを分かっているかのように、振舞うのは、失礼なことでもあるし、「ええかっこし」であるとも言える。
分かっているのではない。無力感に打ちのめされた、と言えば、自己中心であるに過ぎないかもしれないが、正直なところ、そう言うのが、一番言いたいことに沿うような気がする。
1995年1月17日、未明のあの揺れは、まず私が気づいた。カタカタカタカタ……それが地震の最初の波による初期微動であることは、寝ぼけた頭にも認識された。――長い。震源は近くはない。だが、初期微動にしては、しつこく大きく揺れている。嫌な予感がした。突如、ドーンという音がして、真下から突き上げられるような衝撃を全身に受けた。
護るべき家族は、それまでに覆うようにも形作っていたが、隣部屋の子については、家具が倒れたり、飛んだりしなかったのは、幸運としか言いようがなかった。本などが飛び落ちてきたが、怪我をさせるほどのものではなかった。ただ、当時はいまのように薄型ではなかったため、テレビがもし落ちてきていたら、命に関わったことだろう。
テレビを点けたが、神戸からのみ、情報が入ってきていなかった。体には、まだあの衝撃が遺っていた。否、実はいまも、忘れはしない。
京都に住んでいたが、神戸はステキなデートの場所でもあった。神戸が、大好きだった。交通機関も、とてつもない被害を受けた。驚くほどの早い復旧と言われた新幹線も、三ヶ月もの間、動くことができなかった。
わずかな義捐金は出せたが、なにぶん貧しかったため、大した額ではなかった。避難所の赤ちゃんとその親のために、何かできれば、との思いだけだった。現地に行くのは、牧師や、一部の仲間に任せるしかなく、職場の現場をやっていくだけで精一杯だった。だから、思いはひとつ、「何もできなかった」、それだけである。
報道があると、その一つひとつに涙した。胸が苦しかった。でも、何もできなかった。無力感を味わいつつ、ただ祈り、伝えられるあの人たちの、見えない部分を想像して、苦しい気持ちになるばかりだった。
この無力感は、その後の大事故や災害のときも、同じように繰り返された。わずかに、熊本地震のときだけは、現地に足を運ぶチャンスがあった。少しだけ、できたことがあったかもしれないが、威張るようなことではなかった。
私は、自分がとても幸せだろうと感謝している。常に相応しい助けがあったからだ。経済的には、崖っぷちを歩いてきたようなところがある。だがぎりぎりのところで、不思議な助けがその都度あった。神の計画はパズルのようだ、と言われることがあるが、それが実によく分かる。子どもたちにも、裕福な感覚をもたせることは、できなかった。すべて私のせいである。だが、子どもたちはそれぞれ、私より立派な道を歩み始めている。妻については、内助などという言葉を向けること自体、失礼である。こちらが、ただの寄生虫のような生活であるとしか言いようがないものと思っている。
生活は支えられているが、それなりの苦労はあるし、なによりも、辛い思いをしたことが、魂から離れることがない。与えられていることへの感謝を忘れることはないが、このときにも辛い思いをしている人のことが、すぐに脳裏を駆け抜けるため、浮かれてしまうことは、基本的にないように思う。
自分が痛みをもっていたときには、ひとの痛みを引き受けるような説教ができた牧師がいた。だが、自分のその痛みが、あるとき消え去った。願いが叶ったのだ。うれしくてうれしくて、感謝の日々である。それはそうであろう。誰もが祝福した。
そのころから、説教が変質していった。喜びを語ることはもちろん構わないのだが、あまりに無邪気に、ぽんぽんと言い放つ雰囲気に変わっていったのだ。祈りは叶えられる、のように力強く語る傾向が強くなった。ポジティブなメッセージは、なにも悪いことではない。ただ、痛みを負う人の気持ちを引き受けたような、あの説教のハートが、見られなくなった。むしろ、これはこうだ、と上から決めていくようなふうにして、痛みを訴える者の心を否定し、抑えつけるような言動すら起こってきた。
そうすると、見えて然るべきものも、見えなくなってしまうのだろう。聖書からすればとんでもない事柄についても、見抜く目が失われてしまった。信じればうまくいくよ、式の発想しかなければ、それは必定の結果であったのかもしれない。あの、ひとの痛みに寄り添うようなメッセージは、もう戻ってこないのだろうか。
私の感覚でものを言うのは、よくないと思う。だから、基準を聖書に置いてくだされば、と願う。主イエスの語っていたことは、果たしてどちらのタイプだっただろうか。
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