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大学受験で思い出すこと

高校受験は、福岡では基本的に、あと公立高校入試を残すこととなった。大学入試は大きな山を越えたが、今後の合格発表により、それぞれの学生の今後の道が決定されてゆくこととなる。
 
高校生として、私は真面目に勉学をしなかった。音楽が楽しかった。かといって、腕前は何もなかったが、作詞作曲はお遊びのように続けていた。もしいまの時代に私が高校生だったら、ずっと能率のよう仕方で、見かけだけは高度なものができていただろう。YouTubeで、もしかしたら誰かの目に留ったかもしれない。
 
しかし悲しいことに、レコードのベースを最強にして繰り返し聞き、ベースパートのコピーをしたり、自分の曲でも、カセットテープで多重録音したりするような有様で、時間ばかりは使ったが、まともに何かが生まれたわけではなかった。
 
中学の数学では学内では誰にも負けなかったが、高校ではそうはいかなかった。それでも、数学のように解がきれいに決まるということは私にとり最大の魅力で、数学科しかないとでも思い、受験した。しかし、英語については、何の魅力も感じなくなっていたので、「分かった」感がなく、力不足は否めなかった。
 
浪人が決まった。予備校にも行かなかった。いわゆる宅浪である。というのは、金銭的な問題もあったが、方針が変わったからである。かねがね、高校の倫理が面白い、とは感じていた。だが、それが学問であるということには、気づいていなかったのだ。が、それに気づいた。理系しか頭になかった私が、哲学というものに目覚めたのだ。文系にいきなり転換するには、あまりにも準備不足だった。
 
受験の国語『学燈』という雑誌を頼りに、読むべき本のリストを制覇する勢いで、読書修行が始まった。哲学については、専門書が読めるはずがないが、西田幾多郎や倉田百三、安倍能成といったかつての哲学徒の必読書を繙くなどはした。
 
京都への憧れが起こり、目標は決まった。朝から晩まで、ストイックな生活を続けた。京大に合格した友人を夏休みに訪ね、京都の魅力を教えてもらった。熱意はますます増した。しかし、受験技術は素人考えでしかなかった。親には無理を言って受験までさせてもらったのに、最も憧れていた国立大学には届かなかった。
 
私立も受験していた。そこも京都だった。哲学科としては京都大学とつながりもある。福岡でも受験会場があったせいもあり、経済的には負担が少なく受験できた。また、学費も、他の私立大学よりは比較的低かった。それでも家計も顧みず両親には無理ばかり言ってわがままを通してもらったので、申し訳なくいまなら思うのばかりであるが、当時は自分にとり懸命であったのも確かである。
 
掃除洗濯はもちろんのこと、食事作りなど、未経験にも等しかった私だが、京都でひとり暮らしをすることとなった。その背景には、自分が生活の力を身につけなければ、自分はダメになる、と感じていたこともあった。できるだけ安いアパートを探した。銭湯などを利用すると、結局費用が多くかかる。かの友人の暮らしをモデルとして、風呂も洗濯場もある部屋を探したのだ。古い木造のアパートが見つかった。
 
母が部屋の整理のため、春休みに同行してくれた。生協でぼちぼち家具なども安く手に入れ始めたが、最初は正に段ボールのみかん箱で食事をした。母が置いていってくれた料理の本が頼りだった。私は、昼に安い食事をするほかは、全部自炊で賄った。京都は物価が高かった。当時でも牛乳や卵は200円なら安いうちだった。しかし、私は徹底的に費用を計算し、生活した。仕送りは限られている。食費は1日400円とした。外食を含めてである。他の費用も、光熱費何もかも数字に挙げ、毎月親に報告を続けた。
 
アルバイトは最初から始めた。これには恵まれた。アパートの家主が、高校生の息子に、家庭教師をしてくれないか、と言ってくれたのだ。週2回行く。そして、ちょうど家賃分の報酬をもらうこととなった。これは大きかった。また、家主は喫茶店も経営していたが、コーヒーならばいつでも顔パスで飲めるというプレゼントも与えられた。雇われた若い女性がひとりで店員として切り盛りしていたが、京都のことをいろいろ教えてもらった。
 
その後、あまりよく分からない学習塾で、小さいながらも集団に教える経験もしたし、そのフランチャイズ教室の母親が私を気に入ってくれて、もうその塾組織から離れるが、残って教えてくれと頼まれ、待遇が少しよくなった、ということもあった。
 
かと思えば、教授の知り合いで東山のええとこのお嬢さんの家庭教師の口が紹介されたが、1日で嫌われた。それでも、また別の祇園の食べ物やさんの息子のところで教えることが始まり、結構な報酬を戴いた。おまけに、仕事の後にはその食堂の食べ物をいつももらうことができた。いつもすみません、などと言うと、大将が「かまへん。売るほどあるんやから」と笑って出してくれた。
 
大阪のすぐ近くにまで、家庭教師に行くこともしばらくやっていた。大阪らしい地域の工場の経営のお宅だったが、高校生の兄弟が、ちょっと外に出にくいタイプの性格だったので、家まで来て教えてほしい、というものだった。大学の先輩の伝手でそこへ行くことになった。二人を教えることがしばらく続き、なかなかこれは鍛えられた。経済的にはずいぶん潤った。大阪のところまで行くので、このころ、大毎地下劇場で名画が上映されていると聞いて、会員になり、家庭教師の日に早く行って観るなどしていた。お陰で、白黒時代の名作などはたくさん観られた。会員だと、ずいぶん安く観ることができたのである。
 
家庭教師といっても、いまのように組織だったものではない。もちろんこちらがカリキュラムを考えることもあるが、中心は、生徒の要望に応え、質問を受けること、そして定期試験で好成績を挙げることだった。どの科目でも、何の分野でも、対応しなければならない。だから、ずいぶん鍛えられたというのである。このことは、実はこっそり、いまの仕事にも活かされている。いまの職場で、私ほど、どの科目でもどういう教室でも、やれる者はいない。ジョーカーみたいなものである。これは、時間割の調性が難しいところには、私を宛がうことが自由にできる、ということで、教室にとっては便利らしい。お陰で、簡単にはクビにならない、という状態が続いている。いや、明日はどうなるか知れないが。
 
とりとめもない思い出話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

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