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『生きる勇気』(P.ティリッヒ・大木英夫訳・平凡社ライブラリー102)

ティリッヒとくれば、20世紀の神学者として、カール・バルトと並び称される偉大な人物であるという定評である。哲学を学んだとあって、その神学は哲学的思考に導かれている。本書も、非常に抽象的で、読むのに骨が折れた。殆ど何も具体的な事例が出てくることなく、比喩のようなものも感じられず、ひたすら抽象的に論じ続けるのである。
 
そのため、ここで感想を述べようにも、実に苦しいものとならざるをえない。内容を辿れば、ここにもひたすら抽象的な叙述が並ぶだけだからである。
 
あまり明確に定義されないままに「勇気」という言葉がテーマとして登場し、最後までその勢いは外れない。日本語の「勇気」とは何か違うニュアンスや背景があるのではないか、という気がしてならなかった。英語でそれは「Courage」が使われている。本書の内容からすると、そこには「にも拘わらず」という前提が備わっているように思われた。恐らく英語のこの語にも、そういう背景がありそうである。
 
ついでに原題は英語で「The Courage to Be」となっており、訳者も本文中でしきりに、「生きる勇気」に続いて「存在する勇気」という言葉を並べて置いていた。本のタイトルからして訳語がひとつに決しないというのは、いささか頼りないようでもあるが、実のところこれを訳し分けるのは困難であるであろうと思われる。聖書の中で同じ語を「信仰」と「信頼」その他の語とで訳し分けているのだが、いったいそれでよかったのかどうか、考慮しなければならない場面が多々ある。それならばいっそのこと、原語で示すか、複数の訳語を並べて置けば、あとは解釈する側で選択するという道があったとも言える。本書は、その後者の立場を貫いた。
 
思えば、シェイクスピアの中でもシーザーが「生きるべきか、死ぬべきか」と言ったという訳語は、英語で「To be」が使われていたはずだ。存在すること(be)を、「生きる」と表現することは、日本語には合っているのかもしれない。
 
だがそれは存在が基底にあるものだから、どうしても「無」という概念との対比を要するものとなる。本書でも、哲学史における「勇気」を辿った後、「無」との闘いが待ち受けていたと言える。
 
絶望が人に臨む。人はそこに無を覚える。だから、そこから「生きる勇気」へと立ち上がることについては、どんな人でもできることではないのかもしれない。しかし、その「絶望を受け入れる勇気」すらあるのだ、とティリッヒは構える。否、読者を励ましてゆく。それは決して、神秘思想で克服するというようなものではない。やはりそこに「にも拘わらず」というバネがあって然るべきなのである。
 
そのとき、やはり神学者であって、人格神との出会いというものが契機となることが登場してくる。何もそこでキリストの十字架が出てくるわけではないが、人間はそのような神との出会いを通して、救済へと導かれることを、実に抽象的に示していく。これは信仰をもつことを前提としているようなもので、そうでないとその道にはなかなか乗れないのではないかと思われるが、どうなのだろうか。
 
しかし、それはただ個人的に、神と向き合ってのみ可能になるようなものでもないはずだ。ちっぽけな自己というものが、単独で「にも拘わらず」の勇気を与えられることは容易ではない。その弱さは、大きな権力や勢力として覆い尽くそうとする社会の中に包まれてしまう虞がある。この危険性は十分に弁えていなければなるまい。小さな自己ではあるが、だからこそ、自分の小さな力で信仰するのだ、というような無理をすることはないのだ。
 
私たちの中に潜む懐疑にしろ、罪にしろ、無の深淵への恐怖であるにしろ、それらを振り払うように自分独りで暴れるというようなことは必要ない。神をなんとか信じるのだ、というような勇気が求められるのではないだろう。神はすでにある。自分の存在に先立って、神はそこに存在し、私を受け容れている。すてに受け容れているその神への信仰が、どんな「にも拘わらず」をも超えて、勇気をもたらしてくれるのだ。
 
私はここにいてよいのだ。こうして生かされているのだ。すべての否定的なものを見つめる勇気があれば、それを超える神の光を受ける道が残されている。本書の言葉や論理をそのまま受け継いで誰かに伝えても、それが勇気を与えることにはならないかもしれない。しかし、ここから刺激を受けて神との出会いを経験したならば、その者が、つまりこの私が、生きる勇気・存在する勇気を、誰かに伝えていくことはできるのではないか。また、そうしなければならないのではないか。それを教えられるような気がした。

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