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ミスを思う

10年くらい前だったか、自分にミスが多くなったことを感じ始めた。生活上のこともそうだし、仕事の上でもそうだった。年齢によるものか、とも思った。以後、小さなことにもできるだけ気を付けるように心がけた。すると、慎重にすることで、ミスそのものは減った。
 
尤も、ミスというものは、自分で気づけばまだよいのであって、そもそも自分のミスに気づかない、というミスについては、どうしようもない。何か事が起こり、あるいは他人から指摘されて初めて知る、ということがあれば、それもまだよいのだ。問題は、指摘されもせず、つまり他人の我慢や非難の眼差しだけしかなくて、自分だけが気づいていないという事態である。それがきっと多々あるのだろう、と思うと、つくづく嫌になる。
 
本を読んでいても、読解力がない、と嘆くことが度々ある。小説の筋道が分からなくなる。著者の論じていることが理解できない。もちろん、逆のこともあるが、分からないということも少なくない。それは、書いた方が悪いのだ、などと嘯いているなら、それはそれでこちらの精神は安定するのかもしれないが、概ねそうではないのだろう、と思うと、自己嫌悪にまみれてゆくことになる。
 
何かを偉そうにこうした場で語っていても、しょせん独り善がりなのだろう、とも思えてくる。あまり伝えようという意識がなく、伝わればいいな、と思う程度であれば、現代の情報過多の中では、海の藻屑のようなものであろう。もちろん、全く届いていない、というわけでないことは分かっている。しかし、人気取りのようなことをしないし、文章を売ることを目的としているわけでもないから、自己満足の道楽である、と言われればそれまでである。
 
誰かの役に立つことはあるのだろうか。それは自分からは見えない。誰かの心を支えられたらいい、とも思うが、自分のやっていることがそれに値するとは自己評価していない。クリエイティブなことだろうか、と問われれば、それもまた否であろう。哲学を囓ったとはいえ、哲学をしているわけでもないし、神学の裾の先を触ったとはいえ、学問的に何か意味のあることをするわけでもない。
 
大学のとき、哲学は頑張って学んでいた。自分で言うのもおかしいが、かなりストイックに求めていたと思う。一時、留学の話もあった。だが、書は読めても話す能力や聞きとる才覚はなかったから、しょせん無理だと分かっていた。それを費用のせいにするなどという狡さだけはあったが、問題は中身だった。自分の中の問題を探究したいという気持ちは強かったが、学問的な目標はなかったし、技能もなかったわけで、要するにゴミの中で暮らしていたようなものだった。
 
それでも、聖書は暗闇の中に光を当ててくれた。光の来る方向を、見誤ることがないようにしてくれた。
 
自分にはミスはない。そんなふうに思うことだけは、避けたいと思っている。但し、すべてがミスだ、ミスだらけだ、とまで卑下はしたくないとも思う。自分は罪がない、と自分が決めることが傲慢であるけれども、自分のすべては罪のままだ、と自分で断罪するのも、神を信頼しない愚かなことであるのと、少し似ている。

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