女性差別を男性は免れているか
元総理で東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長だった人が、女性蔑視とも取れる発言が元で、ついに辞任した、のだった。
対して、言葉狩りではないか、単に叩いているだけだ、などという反発も上がる。中には、自分が差別的思想をもっているが故に潜在意識がこの弁護にしきりに回るような者もいた。
差別は、している者に自覚がないから差別となるのであって、本人を教育しようなどといっても難しい。正しい意味での「確信犯」なのだ。いろいろご意見があるだろうとは思うが、世間で議論されていることを再びここで繰り返すのであれば、書き記す意味がない。少し違う視点に立ってみよう。
恐らく今回の件で、自分の中にそういう差別の眼差しや考え方があるのではないか、と考えはじめた人がいるだろうと推測する。そういうところに思いを馳せる人は、ひとつの誠実さを持ち合わせていると思う。というのは、中には全くその気配がない人も見かけるからだ。自分はどうだろう、と問うことはまた、哲学のイロハでもあるし、聖書を生きる人の最低限の条件である。
キリスト教会の中からも、今回のことをけしからんと非難する声がよく出てくる。牧師と名のつく人々も、日ごろから政権関係を面白く思っていない故にか、それ見たことかと一斉砲撃してくることがしばしばである。もちろん、すべての人がそうだなどと言っているわけではないけれども。
が、今回気のせいか、女性蔑視云々という問題そのものについて、そういう非難の勢いが、あまり感じられないのである。気のせいだろうか。
ひとつの背景に触れてみる。もちろん、それはどこでもそうだというわけではない。「うちは違うぞ」という声が挙がってくるかもしれないが、そういうところは結構なことなので、それをとやかく言っているわけではないことをお断りしておく。
さて、それは、教会が女性をどのように扱っているだろうか、という点である。
たとえば、女性会(婦人会)と男性会(壮年会)のようにグループが分けられ、食事は女性が準備するもの、というふうに決まっていなかっただろうか。規則のことを言っているのではなく、習慣的に、なんとなくの暗黙の理解という意味である。新しく女性が教会に来るようになると、その食事班に当然のように導かれる、などというように。
女性の牧師を認めないところもある。カトリックの司祭はそうなっていて、改革の声もあるにはあるが、現実味は殆どないようだ。それは聖書に根拠がある、と言うのであろう。大相撲の土俵に女性が立つことが許されず、博多祇園山笠にしても京都の祇園祭にしても、女人禁制の掟は今なお生きている。世界遺産の沖ノ島も女性は入れず、山岳信仰における影響は今も残っているところがあるだろう。これらは、信仰の問題であるが故に、現代にも踏襲されているのだ、と見なされうる。だから教会も、そういうことなのだろうか。
子どもも含めてのことではあるが、ざっくりいこう。日本の人口の男女比を考えると、最近のある年だが、女性(その定義がまた問題を含むが、申し訳ない、ありていな意味での女性ということで進めさせて戴きたい)の割合は、全人口に対して51.1%くらいである。女性のほうが多い。次は、日本の国会議員における女性の比率を見る。最近のある年のデータで見ると、参議院が5人に1人、衆議院が10人に1人程度である。両議院を合わせると、全議員の14.4%が女性議員であった。この辺りの数字では、世界各国で統計をとると、150~170番あたりをうろうろしているようである。もし、国会議員が、人口比と同じ程度で女性がいることを100%であるという基準で割合を求めると、この国会議員においては、28.2%という数字が求められる。女性同数を基準として、達成率が28.2%というわけである。
別の言い方をすると、女性の議員は7人に1人なのである。そこで、教会の役員を考えてみよう。牧師と役員とを併せて、もしも7にんいるとすれば、1人いたとしたとき、ようやく国会議員のレベルだということである。だと、2人いたら少し政府に対して威張ることができるだろうか。
が、騙されてはいけない。教会員の男女比はどうだろうか。これはもちろん教会によりずいぶんと違う。ただ、新約聖書の時代もそうだと思われるが、女性の信徒は半数をかなり超えているように思えないだろうか。カトリックのほうはデータがあるようだ。ほぼ60%が女性だそうである。プロテスタントでは日本基督教団が2014年に出したデータがあり、それによると、各教区で女性の割合は65~70%の間くらいである。これを67.5%としてみよう。これで達成率28.2%を計算すると、19.0%となる。国会議員並の女性の存在感を示すためには、5人に1人の役員がいなければならないということになる。
5人に1人の役員がいる。それで、ようやく世界160位の国会議員の比率に追いつくというのが実情なのである。
しかし、教会において男女平等の数を成立させるためには、男性1に対して女性2の役員が適切であるということになる。こうした形で運営されている教会は、珍しいのではないだろうか。
また、説教を含め、「女性は……ですから」というような発言は、私は少なからずあると予想する。私は極力いつも気をつけているつもりだし、子どもたちに話をするときにも、そのように聞こえかねない話をするときには、必ず断りを入れるなど配慮しているが、その断り自体が差別感情であるかもしれないし、そもそも私が全く気づかないで、差別的に聞こえることや、差別意識から出る考え方を零しているかもしれないという懸念はいつも懐いている。かなり気を配っていても、男性である私は、男性優位の社会に育ち、その「恩恵」を受けて生活しているために、どうしても何らかの形で差別意識から見ているものがきっとあるだろうと悩んでいる。それを、そこまで気にしないというあり方で冗舌に話をしているとあらば、ふっと、チクリとする差別意識の表れを出しているという危険性は大きいのではないかと思うのである。
誠実な牧師は、意識的にか無意識的にか知らないが、このことに気づいているように見受けられる。その意識が、自分も女性蔑視と取られることをこれまで言ってきたぞ、との恐れに、こっそりと苛まれているのではないだろうか。それで、執拗に例の女性蔑視とされる発言そのものについては強く言えない、という心理が働いているのではないかと捉えているのである。
すっかり的を外しているのであれば、それはそれでいい。だが私が意識して考えて欲しいと願うのは、概ね男性がリードしている形の教会であるならば、女性蔑視あるいは差別意識は、「必ずある」という前提から問い直す必要がある、ということである。女性差別を、男性は、そして教会は、免れているのだろうか。せいぜい、他山の石として意識改革をすべき時なのではないだろうか。そんなことを、教会で真摯に話し合うことができたならば、教会はようやく世の中に追いつくことが、もしかするとできるかもしれないと感じる。
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