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『「美味しい」とは何か』(源河亨・中公新書)

サブタイトルの「食からひもとく美学入門」は、まだよかった。帯に「ラーメンは芸術か?」と書いてある。これが一冊を貫いているところにまでは、読む前には気づかなかった。とにかく、ラーメンで話を押し通すのである。ラーメンに関心のない人は、読むのが辛かっただろうと思う。
 
議論は読みやすい。何が論点であるか、それに対して自分はどう思うか、これについて明確に打ち出していくからだ。新書もここまできたかと思わせるようだった。これで意味が分からないなどとは絶対に言わせない、という意気込みが伝わってきた。
 
「美味しい」と「まずい」は主観的な評価であり、客観的な基準はない。しばしば世間で言われる、こうした言い草は信用ならない、とするものらしい。それを通じて「美学」なるものの考え方を提示しようというのである。今どきの大学一年生あたりに問いかけるに相応しい問題だったかもしれない。目標は「美学」であるのだが、徹底して、味に関する問題提起や例外規定などを様々持ち出して、直感的な見解に異議を唱え、その根拠を挙げていく。それは人間の認識能力に関わる場合もあるが、概して私たちの受け取り方の事例の周辺を巡っているように見受けられる。
 
私は個人的に、美味しいという感覚が舌の味覚だけでつくられるなどとは微塵も思っていないので、本書の前半は退屈に感じた。味だけではないよ、他の感覚を伴う形で「美味しい」という判断ができていくのだよ、ということを言うために、くどいくらいに五感を一つひとつ実験めいた実例を以て議論していく。なんのことはない。目隠しをして何か食べさせられただけでも、それが何なのか、私たちはもう殆ど分からなくなる。その程度のことを思い起こせば、味覚が純粋に独立しているのではないことは簡単に想像できる。香りを切り離した食事など、まず考えられないではないか。新型コロナウイルス感染症がその症状として、味覚や嗅覚がおかしくなるということも言われていた。もしその経験のある人は、きっとそんな嫌な思いをしたことだろう。「砂を噛む」という言葉があるが、食事が食事らしくなくなる経験をしたのではないだろうか。
 
しかし、本書の意図は分かる。純粋主義だの主観主義だの、様々な立場の意見の観点を紹介し、そこからどんな世界が見えるか、どんな結論が導かれるのか、一つひとつ繙いていくのだ。傾向性だの相対性だの、抽象的な概念について、学生に教えていくには、これでよかったのだろうと思う。ひたすらラーメンであるが、それに徹しているだけに、その場面を知る人にとっては、とことん事例的に感じていくことができるだろうと思われる。
 
味わうには、知識も必要なのかどうか。私たちが、店の評判を聞いて出向くということが、今は普通になってきた。それが自分の感じるところからして同意できるか、人々の感覚が信じられなくなるか、その辺りも、実生活としては、案外「いろいろあるわな」というくらいで我慢していることだろう。だからまた、主観によるのだ、と自分を納得させるのかもしれないが、そもそも人の評判を半ば信じているからこそ、店を訪ねたということも自室であり、主観だけを原理としているわけではないことも確かである。
 
つまり、私たちはほどほどに、主観的だとも思い、客観的だとも思っているのが日常のようである。それが、「美学」というひとつの「学」となると、何らかの根拠と普遍性を要求される。となると、「美味しい」という言葉を用いる場面では、私たちは極端な原理で押し通すことをそもそもやっていないということになる。
 
カントの頃から、(学としての名前そのものはバウムガルテンに基づき、今の「エステ」の語源となる)「美学」は哲学のひとつの課題となった。それは「学」として成り立つのかどうか、という問いに基づくものだった。カントは音楽を評価しなかったし、宗教的に塑像や絵画を認めなかった文化もある。ふくよかな肉体を愛したルノワールもいれば、なんとか痩せないと可愛くないと悩むここ半世紀の女性の思いも、嘘ではない。そのように感じながらも、「学」はあくまでも、言語としてそれを論じなければならない。だから本書でも、メタファーという観点から、味を捉える現実にも注目する章がある。
 
そうして、行き着くところは、著者の狙いであろう、「美学」の幅広い分野、即ち「芸術」である。最終章は「芸術」への眼差しを読者に与え、その世界へと目を向けさせる。料理は芸術として可能かどうか。芸術は二度と同じものをつくることはできないというトークン的な把握も重ねながら、その問いについては、答えることはまだできない、という曖昧な中で議論が閉じられる。その意味では読者は消化不良に陥るとも言えるのであるが、それというのも「芸術」の定義も、「料理」の概念も、それほど明確ではないからだ。しかし、人間は食べてこそ生きている。原始的な食べ方も、火を用いるようになってからは、きっと革命的な変化があったものと思われる。各地の文化による違い、歴史的な中での違いなども踏まえると、人間の生活や生命そのものに関わる故に、本当に定義は不可能ではないかという懸念もある。著者にとっても、これからの課題なのであろう。だから、先に触れたように、大学生に、問題考察のための入口を調え、また諸概念を紹介するようなテクストとして、しかもとても丁寧で把握しやすい論述により、本書は役立つものではないかというように感じた。
 
ただ、私は最後の「芸術」に関する定義や検討のところで、気になったことがある。絵画なり音楽なり、その他様々な芸術が想定され、一定の「文化」を踏まえなければ、芸術作品をつくろうとする意図すら生まれないはずだ、と規定しているところである。
 
2019年から紹介され始めたのだろうか、Eテレで「no art,no life」という短い番組がある。登場するアーチストは、多くが何らかの障害を負い、心的症状や知能の問題を抱えながら、作品を生み出している。その様子が放映され、作品を私たちは見ることができる。理解できるかどうか、という一面もあるが、考えてみれば多くの芸術作品も、そうである。このアーチストたちは、果たして「文化」を踏まえているのだろうか。手にした画材や素材を使い、与えられた画用紙やキャンバスに、自分の描きたいものだけを描き、造りたいものだけを造っていく。彼らにとり、アートが人生のすべてであるかのように、楽しみながら、時に苦しみながら、何らかの形を生み出している。
 
貴族的な、あるいは何らかの特権的な才能や娯楽の中に包まれた「芸術」、それが現代的になると経済的な対象としても扱われるようになったわけだが、「no art,no life」のアーチストたちには、それらがまるでないと言えるように思う。これも「文化」なのだろうか。あるいはそれは「芸術」ではないのだろうか。「美学」を講ずる方々に、この番組の紹介する世界を、説明して戴きたいと私は願っている。

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