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Vtuberにみる未来

 最近になってVtuberをフォローしたり、配信を視聴したりしている新規ファンです。日本ならではのこの活動にものすごく共感および共鳴をしたので思うことを文章にします。

 Vtuberの名前を聞いたのは2016年。キズナアイのネット記事を見たときでした。当時、ニコニコ動画ユーザだった私は、初音ミクを中心としたボーカロイドブームのオタクでした。特に傾倒したのは彼女を自由に動かそうと有志が作成したプログラムであるMMDです。歌に映像(MTV)がつけられ、クリエーターが競い合います。

 私が求めたのは”まるで人間のように”動いて喋るプログラムでした。
そんな中、Vtuberのニュースを見た時「そりゃ喋るし、動くよね……」と冷めた目で見ていました。「プログラミングが面倒なので、魂インストールしました!!!!!!」と言われてもなぁと。

 そんな厄介オタク特有のマイナスイメージが徐々に氷解していったのが、男性Vtuberのでした。ライトノベル的世界観に登場する中世ファンタジースタイルだけではなく、様々な世界観のキャラクター。

 種族、地位、宗教。

 すべてのボーダーを超えたキャラクター達。

 特に面白いのが、大手事務所のライバーさんではないでしょうか。デビューにあたりユニット単位の共通点があっても所属するライバーの世界観は多種多様。高校生から会社員、研究者、一次産業従事者。騎士に、魔法使い、退魔に降魔に伏魔士。
 性別の垣根を越えた人たちまで。

 私はSNSで使われる多様性という言葉が嫌いでした。

 特にそれらを語るときに使われる「価値観のアップデート」と言う言葉が嫌いです。彼らが愛するのは何故か唐突に同性愛者になったり肌の色が変わったりする”とってつけた多様性”です。

 そんなものに頼らなくても日本の創作物には昔から普通に同性愛者も様々なものへの性愛がたくさんあったでしょう? 観音様に懸想したり、衆道の契りなんて言葉もありましたね。

 だからこそ、どんなVtuberのキャラクタも受け入れられる文化が日本に当然のようにできたのではないでしょうか。

 アニメアイコン的アバターをルッキズムと絡めて語る人も散見しました。しかしVtuberが眉目秀麗な姿であることで、外見的優位性が消滅した結果、キャラクタ本来の人間性の魅力がクローズアップされていることです。これこそ反ルッキズムへの提唱ではないでしょうか。人は見た目が9割は本当でした。その9割を捨て去った姿が、Vtuberの本来の姿であるように思うのです。

 最後の方は大言壮語、特筆大書になってしまいましたがなんのことはない。「推しのことを一生懸命に考えてみた」という話でしたが、皆さんが良くみるVtuberを教えていただければ幸いです。

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