2024-08「ガザ解放を訴えるタグ」

今月もまとめます。


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小説:『ロビンソン・クルーソー』とその関連作品

 ダニエル・デフォーの1719年の小説。ロビンソンは、難破した船から持ち出した聖書を読み、信仰を深める。無人島での生活が悲惨なものであっても、過去の罪深い生活よりもしあわせであると信じるに至る。彼が日記にしるす神への感謝は、無人島でも生き永らえられていることだけでなく、おのれの罪への自覚を可能にしてくれたことに向けられている。

 ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』は1967年の小説。『ロビンソン・クルーソー』を翻案し、あらたに哲学的な語りや性的な体験などが盛り込まれている。途中から島での生活に加わるフライデーの位置づけも大きく異なる。

 この作品をフランスの哲学者・ドゥルーズが論じた論考「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」と、それについて國分功一郎が書いた論考「無人島と砂漠」を読むことを目的とした読書だった。

 他者のいない世界では可能性のカテゴリーが喪失する。私が現に見ているコップ、他者はその裏面を見うる。ロビンソンが無人島で経験した知覚では、そのような一切の可能性がうばわれている。「島のものでわたしが見ないものは絶対的な未知なのだ」(邦訳59頁)。ロビンソンは現実に見えるコップをのみ知覚するほかない。

 けれど、ある一面では、現実性の全面化はつねに起きているものでしかないといえないだろうか。いや、このことは厳密には言語を用いて言うことはできない。言語は、可能性の全面化の装置とでもいうべきものだからだ。けれども、このことはどういうわけか各々の現実に伝わってしまうものでもある。ここでは他の現実として他者が出てくる。もちろんこの他者も結局のところ可能性のカテゴリーに属する。しかし、それは別に私の知覚の構造にならなくてもいい他者である。

 他者(の知覚)があるゆえに私(の知覚)があるという哲学説はそれでいい。ただ私はそこにおどろくべき事実を見出さないだけだ。私がおどろくのは、それを自己放棄の道徳説として語り直す言説のほうだ。そのような道徳運動に巻き込まないかたちで他者を考えることもできるかもしれないのに。

 1979年の東映の映画。看護師の姉妹が、売春をする舗装工をめぐって対立する物語。ラストは、姉が入浴中のところをメスを握った妹が襲って、姉妹が死闘をくりひろげる。

 脚本の中島丈博の作品として見るとおもしろい。故郷にいる肉親にたいする強烈な恥の意識などは『祭りの準備』と共通する。

 劇中、姉からのビンタをくらった妹が水溜まりに倒れるシーンがある。その勢いが予想の1.5倍くらいあり、ほとんどスライディングしている。吹っ飛ぶ妹のすがたを見ておどろいた。

シャニマス:【ア・冬優子イズム】黛冬優子

 わたし、キャラ画が出てこないコミュが好きでして。たとえば、【カラメル】樋口円香。なので、第3話がよかったです。その描写のしかたと、タイトルの意味とをつきあわせて考えたくなりますね。

音楽:LEX『力をくれ feat. ¥ellow Bucks』

 なんといおうと最初のショットがみごと。聖徳記念絵画館と日章旗を背に、道路の真ん中を踊るLEXにカメラがズームインする。

 MV監督のMESSが手がけた別のMV、Kaine dot Co「BROKEN HEART」では、東京都庁が背景になっていた。このMVをMESSは自身のベストワークに挙げているが、その理由は、ストリートと世間の関係性が映像に表現できているからだという。

 ストリートの生活者の空気やそこから出てきたスターの雄姿を映すにも、背後にはシンボルとなる建物がそびえている。LEXが「力をくれ/富士山 Japan」と歌い上げるこの楽曲のMVは、もちろんラッパーたちを取り巻く熱狂を映してもいるけれど、最初のショットはその熱狂にたいして距離をとった認識を示している。

 enza版のシャニマスに大富豪のミニゲームが追加された。何度かプレイしたのち、あれこれ考えるトランプゲームって苦手だな……となり、いまは全く関係のないアプリでソリティアを際限なくやり続けている。「2048」と交互にプレイしていると、ほんとうに際限がない。

 アップデートで「7渡し」と「5スキップ」が追加されたらしいけど、まだまだソリティアに夢中。シャニマスにソリティアも実装してください。トランプのグラフィックはもうあるんだから。おねがい。

 事務所のアイドルと一切口を利かず、黙々とソリティアをプレイするシャニP、そのすがたを見る勇気が、きみたちにはあるか。

映画:『幻の光』

 1995年の映画。是枝裕和監督の第一作目。能登が舞台であるため、能登半島地震の輪島支援としてBunkamuraル・シネマで再上映された。

 公開当時のパンフレットも再販されていた。紙面をスキャンして印刷し直したものらしい。記事のひとつである「監督の撮影ノート」に、車の撮り方がわからなかったので他の映画を参考にした旨が書かれていた。初の長編劇映画を試行錯誤の末に作りあげたのだという感慨とともに、たしかに、小津安二郎を参照しているだけでは車は撮れないよな、という納得があった。

 二回目の鑑賞になる。初見時は、自宅のモニターながらも、きれいなロングショットに見惚れていただけだったので、それを映画館のスクリーンで見ることができる喜びを味わいつつも、ドラマについてあらためて考えることができた。

 『幻の光』は、いってみれば人は過去をもつがゆえに孤独になり、しばしば過去の放つ光に誘われて消えていくというお話だ。これは、冒頭から橋を歩く祖母のように画面の奥に消えていくイメージでくりかえし示される。反対に、現在の世界に留まることは、人物が横方向に動く遠景のショットがこの世界に対置されている。たとえば、終盤の葬儀の列の移動。ここは大きなスクリーンで見られていちばんよかったところだ。

映画・小説:『われらの時代』、原作再読

 1959年、製作は日活。蔵原惟繕監督作品。情婦との関係に絶望しフランスへの出発を望む学生の兄・靖男と、ジャズバンド仲間とつるむ野性味ある弟・滋のお話。

 神保町シアターに初めて行った。劇中、フランス語の個人授業の講師役である靖男とその生徒の明子が喫茶店に入る。ウェイターが「ご注文は?」と尋ねるや否や二人が「お水でいいです」と即答する場面で、笑いが起こった。

 原作を読んだのは去年の5月。八木沢という登場人物の印象が強く残った。主人公・靖男の悲壮なようすと対照的に、八木沢は気持ちのいいやつだ。革命運動を組織しようとしている彼が60~70年代をいかに生きたかは知る由もないけれど。なお、映画版では神山繁がやや飄々とした感じで演じている。それはそれでよかった。

 あらためて原作を読みなおした。グロテスクなイメージをかきたてるどぎつい文章をぐいぐいと読むたのしさのなかに、アルジェリアのアラブ人との連帯と友情がすがすがしい。なかでも、靖男と八木沢とアラブ人の三人でプールで泳ぐ場面(第8章)。映画版にはない。

 八木沢と靖男とは、かれらのすぐ前で大げさなターンをして再び向こう側へ泳ぎわたって行くアラブ人を見ていた。そして八木沢は、太い首筋に水滴が頸かざりのように輪をつくっているのを指ではじきとばしながら快活に笑った。かれは得意そうだった。かれも、水のなかのアラブ人も真夏の昼にふさわしい裸をして陽にかがやくプールを享楽していた。靖男は自分の蒼白な顔や狭い肩幅、光に弱い眼を恥じいりたいような気持だった。

『われらの時代』新潮文庫、156頁

 いまプールで描かれる男たちの世界を理想化して語るには、ボーイズ・クラブ的なものを温存させる試みと区別する困難を避けては通れない。1959年の時点でフィルムにしておいてほしかったと未練がましく思う。

 別の話。再読して、大江健三郎が映画の比喩を使っている箇所が目に入った。次の箇所。

ああフランスへの出発、遠大な旅の計画、様ざまな日本的なものとの訣別、若い人間としてのおれの肉体と精神との回復! それはシネマスコープのように、靖男の眼の前にひろがって輝いている。喝采、そこへ登場する英雄ヒーローとしてのおれ!

同上、117、118頁(太字は引用者)

 シネマスコープが登場したのが1953年で、『われらの時代』は1959年出版。同年の映画版もシネマスコープで撮られている。

 大江健三郎の特に初期の作品に、映画の画角を比喩に用いるイメージがなかった。いまでいうと、「IMAXスクリーンのように目の前にひろがっている」のような比喩になるのだろうか。「シネラマのように」という言い回しはすでに誰かが使っているだろう。「ScreenXのように」はさすがに伝わらなさそう。

 アメリカの郊外の住宅地そのまんまのような風景。戦乱の銀河にあっても、地元の学校に通い、実家を出て別の惑星で就職する、みたいな人生を送っているウィルズ銀河市民がいるのだ。映像作品だと『アンド―』でもすこし描かれている。

映画:『ツイスターズ』、『ミナリ』

 リー・アイザック・チョン監督作品。主演のデイジー・エドガー=ジョーンズ、いい俳優ですね。衣装がよいことも相まって画面で輝いていた。

 宇多丸さんの映画評も併せてよかった。監督のキャリアについての説明が、単なる背景情報の補足にとどまらず、本作の味わうべきポイントを的確に指し示す評論になっている。つまり、ドラマパートにおける詩的で親密な語り口と地域への奉仕精神。

 2020年の映画。A24作品。ポールという人物がつよい印象をのこす。ポールは、韓国から移住してきた一家の畑仕事を助けてくれる。

 彼はよき働き手であり、常軌を逸したキリスト者だ。教会には通わず、自分の背より大きい十字架を担いで道を歩くポール。「It's Sunday, It's my church」と説明するポール。野菜が実ったことを確かめたあと、雲間から差す光を仰ぐポール。一家に交じった食卓でキムチをごちそうになって「汗をかくよ」といいながらハンカチで汗をぬぐうポール。そのとりだしたハンカチのまあしわくちゃなこと!

 フリッツ・ラングのフィルム・ノワール。殺人を犯した大学教授はその事実を隠し通せるのか……という犯罪映画。

 主人公のウォンリー先生のうっかり者ぐあいが楽しい。「おや、私は一度も〇〇とは言っていませんよ?」→ぎくり、の流れや、飲み物に毒薬を仕込んでハラハラなど、お馴染みのサスペンスの道具立てが味わえる。そして、私はラストの展開を知らずに見たのでふつうに驚いた。

 いろんな方向から楽しめる記事だ。

 今月の特集記事だと、これもすごかった。ヤスミノさんが自宅の鏡で変顔の練習をしている話もあった気がする。Webライターの必須技能なのか。

 1978年、日活の映画。沢田幸弘・石井聰亙そうご監督作品。元は石井聰亙(=岳龍)監督の8ミリ自主制作映画だということは後から知った。図らずも映画『箱男』の予習になった。

 九州の進学校が舞台の活劇。受験競争に限界を迎えた男子生徒・城野が校内にライフルをもちこみ籠城する。彼は最初に「数学できんのが何で悪い! 殺したる!」と叫びながら数学教師を射殺する。

 騒ぎは学校の外まで広がり、校舎の周囲に近所の野次馬、TV局の実況中継車、右翼の街宣車までもが押し寄せる。かれらが受験競争に喘ぐ生徒に同情をみせる様子に加えて、汗の止まらぬ真夏という舞台立てもあり、『狼たちの午後』のような展開になるのかと思ったりした。しかし城野は英雄視されることさえなかった。

シャニマス:『アイドルマスターシャイニーカラーズ 2nd Season 第二章』

とおまのの会話(6話)や、アンティーカの砂浜(7話)の場面がよかった。力の入った空の描写がドラマを支えていたと思う。だけど基本的に見ていてつらい気持ちになる。さすがに5話の小糸さんの勇姿にはうるっときたけれど!

fusetterの本文

 頭を抱えているとはいわない。困っている。これがもし、劇判をenza版のサントラに変えたファンメイド編集版が出たら、とか、別の2Dアニメ映画の企画が立ち上がったら、とかを考える。そのときに今回のシャニアニを困らずに相対化できるのではないか……。

 鑑賞後に困惑を味わうのはむしろうれしい。うれしくないのは、鑑賞の最中につらい気持ちになることだ。ただ、楽しいところだけを覚えて帰ってね!という作品ではないことは美点だといえるかもしれない。

映画:『箱男』

 石井岳龍監督作品。楽しみにしていた。

 事前のインタビューで監督が話していたように、葉子のキャラクター像にアレンジが加わっている。衣装の白衣を例にとっても、妙にてらてらしているが分厚い生地で、襟元がしっかりしている。また、主人公の男に接近して話をもちかけるときも、左右に動く葉子をカメラが追う。ある種の色仕掛けなのだが、男の視線を奪うことで主導権を握る場面になっている。

 また、これも監督の言葉どおり、娯楽作としての性格が強い。たとえば、手記の改竄というテーマがわかりやすく翻案されている。作中、箱男はノートに手記を書いている。そこに書き連ねられる独白はすなわち彼の自意識である。だとすると、他人による手記の改竄は自意識の壊滅的な混乱を意味する。本物の箱男を危機に陥れるために、偽・箱男は手記に手を加える。

 原作では、手記の断片がいくつか提示されるだけで、構造としてやや飲み込みづらい。それを、映画版では謎ガジェット一個で強引に説明してしまう。手記を改竄し、それが自分で書いたものであると騙すためには、筆跡がまったく同じでなくてはならない。そのために登場するのが、グローブ式の筆跡コピーマシーンだ。いかにも悪そうな顔をした浅野忠信がそれを身につけて手記を改竄するのだ。

 虚実が入り混じる構造をわかりやすく再解釈しつつも、その強引な歪さがおかしく、文芸映画と娯楽作それぞれの要素がほどよいバランスで共存している。

 P・はづき・千雪の飲み会が先んじてあったのか? 公式でそういう話ってあったっけ? 

 人がいないプールで泳ぎたい。誰もが豪邸に住みたがっているわけじゃないけど、わたしはプールつきの家には住みたい。

 今になって『キリンに雷が落ちてどうする』を買った。ウロマガ購読しているからいいだろ思ってた。買ったあとでも若干思う。読むのは楽しい。

下書き

おれんちの🦀のぬいぐるみは🦀歩きとかしねー

 内藤デザイン研究所のかにのぬいぐるみを二、三年愛でていたけれど、かに歩きをする姿を一度も想像したことがなかった。おれが知っているあいつは真正面をむいて動くんだ。

ようやく岡真理『ガザとは何か』を読んだ。

 昨年の10月ごろからは目の前のことで精いっぱいだったため、パレスチナ関係の情報を追えていなかった。Audibleのポッドキャストで、宇多丸がパレスチナやイスラエルについての関連書籍を紹介するのを聞いていたぐらいだ。

高架下の柱に、スプレーで「FREE GAZA」とタグが描かれている写真
あとはガザ解放を訴えるタグを見たりもした

 『ガザとは何か』を読んだあと、より関心が重なるところを勉強しようと思い、早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ:民族/国民のアポリア』を読んだ。アレントやブーバーが唱えた二民族共存国家論バイナショナリズムや、デリダのイスラエル講演、バトラーによるシオニズム批判など、いくつかの論考がまとめられている。思想にかぎらず、イスラエルがエチオピアからの移民を受け入れていることなど、知らないことだらけだ。

両替って、何。

 手形と現金の交換ではなく、1000円札一枚と100円玉10枚の交換。お金を崩すとは何か。

 蝉をズボンにくっつけたまま図書館に入館してしまった。検索機を操作していると下からジジッという音がして、椅子の下をのぞき込んだらカーペットの上に蝉が一匹転がっていた。職員にお願いして、蝉を紙にのせて逃がしてもらうまでを見守った。「お持ち帰りになりますか?」と尋ねられたが断った。

 職員の方に思いもよらぬ迷惑をかけてしまった。来館者が持ち込んだ蝉を逃がすのは通常の業務ではない。

ファボ

 フリーレンとマッツ・ミケルセンのツーショット。

 岡田将生が小林秀雄かーっ。

見たもの・読んだもの

本:濱口竜介『他なる映画と 2』

 おもしろい論考が詰まっている。なかでも「『東京物語』の原節子」がよい。

 どうでもいいこととして、この本を読んで、蓮實重彦『監督 小津安二郎』の英語訳の題名が『Directed by Yasujirō Ozu』であることを知った。エンドクレジットを題名にしとったんかい。「ヤスジロウ・オズ:ザ・ディレクター」だと思っていた。

音楽:小坂忠『ほうろう』

 泉麻人『昭和50年代東京日記』を読んで、小坂忠「しらけちまうぜ」という曲の存在を知った。今月は、その曲が収録されているアルバム『ほうろう』を聞いていた。

 細野晴臣が参加している。だとしたらはっぴいえんどやYMOの方面から知るルートがありそうなものだ。その辺りのことがぜんぜんわかっていないため、書籍からアクセスすることになる。

 小坂忠『ゆうがたラブ』といとうせいこう『ザ・プライベート・ショー』は同じ系譜にある、と思った。

詩:田村隆一

 日本の戦後詩のアンソロジーを読んでいたら、田村隆一の章になって「沈める寺」「言葉のない世界」が並んで収録されていた。立て続けにとんでもない詩を読まされた!と笑ってしまった(リンク先のNDLで読もう)

 そのあと、古本屋で講談社文芸文庫の『腐敗性物質』と思潮社『現代詩読本』の田村隆一の巻を買ったほか、図書館で全集の第一巻を借りた。現代詩はまったく知らないけれど、気になる奴が見つかれば早い。こっちのものだ。

 田村の詩は箴言や警句のようだ。詩を読むことと箴言集を読むことはちがうのだろうけれど、くり返しのリズムがある箴言集というジャンルがあるとすれば、それは私が読みたい理想の文章に限りなく近い。それを読んだり聴いたりして笑うのがいちばん愉しい。

 今月はこのあたりでおしまい。

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