見出し画像

記憶定着日記:二〇二三年五月

最近、noteで他の方をフォローしています。日記を読むことが一日の終わりの楽しみになっています。

今月のツイート

小説:大江健三郎『われらの時代』

 旅のおともの文庫本をちょうど旅の帰路で読み切った。旅先で「やばい、読み終えてしまう。読む本がなくなる」と焦って『叫び声』と『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を買い足したのだけど、結局そっちを読む時間はなかった。旅の荷物が増えただけだった。梅田の紀伊国屋書店でも追悼特集コーナーが設けられていました。

 『われらの時代』は中盤、八木沢という精力的な学生活動家が登場してから面白くなる。主人公の靖男のフランス行き=「出発」が揺らぎはじめるからだ。靖男は学生運動に参加せず情人との生活を送ってきた。そして八木沢が指導する政治活動に力を貸すことなく、そのまま日本をあとにすることになる。また、彼の知り合いであるアラブ人からの「連帯」の呼びかけられもするのだが、それは同時に靖男がフランス政府の力を借りて留学することを非難するものであった。

 終盤、情人・頼子から妊娠を知らされた靖男はつぎのように考える。

 おれは生きていない、おれは生きる試みをしたことがない、おれの父と母のどす黒い欲情の結果としての一つの生命の提示、やがてその終結、それだけがおれの反・意志的な生涯となるところだったのだ。そして今やおれはそれに抗らう唯一の機会に直面しているのだ。ああ、おれは出発したい、出発、それだけがおれに残された最後の生きる機会だ。

新潮文庫、196頁

しかし、かれはアラブ人への友情と連帯のためにフランス行きを断念することになる。八木沢は日本にのこる靖男を運動に誘うが、かれは断る。

「ぼくはフランスへ出発しようとしていたんだ、そして出発する、ということが、ぼくに様ざまの行動的な幻影をもたせたんだろう。アラブ人との連帯もその一つだ」と靖男は絶望的な自嘲の気持にとらえられていった。「出発しなくなってみると、ぼくには拘束されたり連帯したりすることがおっくうでたまらない」

同、271、272頁

 出発がもはや夢を見せなくなったことを言葉にして、物語は終わる。最後の数頁の強烈さは、もはや出発の意志もなく価値の源泉がなくなったそのあとの精神の行程だ。

 『叫び声』の感想。ヨットで船旅に出る予定の三人の青年(主人公、鷹男、虎)が共同生活を送るさま、そしてその破綻が描かれる。出発の前の猶予期間とその危機。

『芽むしり仔撃ち』の感化院の少年たち然り『洪水はわが魂に及び』の自由航海団然り、私は大江の描く集団がどうも好きなもので、『叫び声』に関しても共同生活のようすについ目がいってしまう。そして、共同生活を送る彼らは子供なのであり、その名前が端的に示すように動物みたいな存在なのだ。

 虎はじつに永いあいだシャワーをあびつづけていた、この冬の半ばちかい夜、数週前から故障して冷たい水しかでないシャワーを。結局、鷹男が起きあがって、虎の様子をみにいったが、ひとりでかえってくると、かれは眠ったふりをしている僕に、低い嘲弄的な、しかし奇妙に動物的な優しさをこめた声で、
「あいつは育ってないなあ、おれたちには弟みたいなもんだよ」といった。

講談社文芸文庫、123頁

「弟」と呼ばれる自分より遅れて生まれてきた存在は、その未熟な姿から人間が動物であることを知らせるのかもしれない。

 後半は、経済的な逼迫が物語をひっぱる力のひとつになっている。主人公たちをヨットの船旅に誘ったのはアメリカ人・ダリウスという人物で、彼の金でヨットが建造されいて彼が三人を養っていたのだが、そんな彼がいなくなってしまう。三人は生活費を稼がなくてはいけないしヨットの建設代も払わなくてはいけない。三人にとっては窮地なのだが、どうにかして金を工面しようとする姿はお話としては張りが出てきておもしろくなる。そして事態はどんどん悪化する……。

 もはや「共同生活」が跡形もなくなってしまった終盤、外国にいるダリウスから三人でパリに来るように誘う手紙が届く。しかしパリに行くことができる状況にあるのは靖男だけだった。パリに行く前の主人公と鷹男との最後の会話であるとか、デモと霧が広がるパリのカフェでのダリウスとの再会など、印象的な場面が続く。

 ダリウス・セルベゾフは僕に虎の死と呉鷹男の犯罪と裁判についてできるだけ細部にわたってくわしく話すことをもとめた。フランス語でそれを話すことは僕にとって苦行だった、日本語で話したにしてもそれは苦行だったろう。僕とダリウス・セルベゾフの坐っているテーブルには他に三つの椅子があった。そこに虎と鷹男、それに僕自身の幻影が坐って陪審員のように僕の物語をきいていた、青春の、みんな青春のはじめの三人の幻影が。これらもっとも苛酷な陪審員のまえで僕の物語は、つい虎と鷹男、それに僕自身にたいする弁護の響をおびてくるのだった。

同、206、207頁

この箇所なんかは映像が浮かんでくるほどで、少々ドラマチックすぎるかもしれないけれど、その「青春の幻影」の物語をここまで読んできた身にしてみれば感じ入らざるをえない箇所だ。

創世記はロマンだね。

 よい評判を聞いていたのでレーザーIMAX 3Dで鑑賞した。これで正解だった。追加料金を払った甲斐があるというものだ。終盤の長回し、「この最高のシーンが終わってくれるな……」と願いながら見ていた。ほんとにすごかった。

 ライムスター、若手とフィーチャリングしていってほしいぜ、という気持ち。

問題:公園での勧誘

 たぶん宗教か何かの団体の勧誘だった。女性が本題を話しはじめる前に私が遮ったので、結局なんだったかはわからない。

 キウイ味のパピコが美味しかったのにな。そのことについて女性と話せばよかったのかもしれない。高邁なふりをした宗教の理念よりも、利益追求の団体での自己実現よりも、キウイ味のパピコが美味しいことについて話せるただひとりの〈隣人〉がいることのほうが尊いのではないでしょうか。ねえ。こんどこのことを書いた本が出るんですよ。サイン会とトークショーもやります。ご友人を誘ってお越しください。

 ついでにいうと、パピコだけじゃなくてサクレのマンゴー味も美味しいです。ざんねんなことに近所のコンビニではもう置いてなかった。果肉がゴロゴロ入っていて、とろっとした甘さとシャーベットの清涼感がちょうどいい塩梅だった。

できるだけ無責任でいたいのにねえ

映画:『狼たちの午後』

 マルクス主義の批評家 フレデリック・ジェイムソンの『目に見えるものの署名』という映画の評論本があって、そこで『狼たちの午後』が取りあげられていたのをきっかけに見た。映画を見たあとにその批評文を読んだのだが、マルクス主義批評ぜんぜんわからんという結果になった。残念。

 映画本編はおもしろかったです。アル・パチーノが妻との電話で「頼むから黙って聞けよ!」と叫んでから途方に暮れるシーンがおもしろかった。ほとんど変顔だった。

映画:『ぼくらの七日間戦争』

 子どもが乗った戦車が出てくるところはオオッとなるわね。ただ、市街地を走るさまを見たかったのだけど、そんな規模の撮影はできないのだろう。結末については、「この子たちは花火を見られたらいいのかよ」という終わり方だった。

 アニメ版も見た。比較できたら面白いだろうと思って。邦ロックが流れるオープニングがはじまってあまりに新海誠すぎて笑ってしまった。ただ、『すずめの戸締り』と比べれば、日本の外国人労働者と性的マイノリティの表象をへんに躊躇していない点でいうと、本作のほうが進歩的もしくは別のことをやろうとしているといえる(それぞれ描写として十分とは思わないが、あくまで比較の話)

「ランタンと気球飛ばせればいいのかよ」という終わり方ではあった。

映画:『TAR ター』

 すごかった。ペダンチックな雰囲気にあてられちゃっただけな気もするが、にしてもヘンな映画だった。

 「指揮者は時間を動かす……とか興味深げに聞かなきゃいけない話をするな、知らない音楽家トリビアで小笑いを取るな、ドイツ語で話すなー!」という冒頭から、一転、ラストシーンの「うわーこういうのは知ってるけどさ……」みたいな光景。もはやハイカルチャーはありえず大衆文化が勢いを増している時代の変化? たしかに、夜まで楽譜を綿密に見直し、作曲者とは何であるかを団員に向けて話すターの姿は変わらない。でも、カメラに映す景色を変えたのは現代という時代特有のあの倫理的非難であるはずで……。そしてどういうつもりでトラップ音楽を流しているんだというエンドロール。

 ターが子供に話しかけるときに目線をその子よりも下にするためにしゃがむシーンがあったけど、下から見られていてもめちゃくちゃ怖いのですごいと思った。

5月なのに暑すぎる。まだ5月ですよ、いったいどうなっているんですか。

 『SIX HACK』の第一回を見たかぎりでの感想。拒否反応だけがある。しかし、上のツイートのような「美しいかそうでないか」という尺度をもちいて否定的評価をすることが私のしたいことなのかはわからない。

映画:『ワイルドスピード スーパーコンボ』

 敵役のサイボーグ、ブリクストンが乗っているバイクがかっこよかった。自由自在に変形するヤツ。

 最新作『ワイルドスピード ファイヤーブースト』の予習に……と思ったのだが、結局見に行っていない。前作『ジェットブレイク』も見たのに。映画館のスクリーンで編集のゆるいものを見せられたら普通に怒りをおぼえるのが目に見えているんですよね。だから映画館で見るのが億劫になる。いくらアクションシーンに力を入れているとしても、家で見るくらいがいいんですよ、たぶん。

シャニマス:アイドルのわがまま

 pSSR【はじけてスマイル】櫻木真乃の「緑色が運ぶ、夏の」での一場面。

 そういえば、ソロライブのタイトルを「我儘なまま」にしたのはすごい。アイドルなんですよ?彼女たちが主役なんだから、わがままだって許されて当然ですよね、ということなのだろうか。こういう意図なのかわからないけれど、にしても しびれちゃう。「儘」という漢字を使っているのもすごい。難しい漢字を使う。しびれちゃうってば。

小説:大江健三郎「大人向き」

 かなり好きだったのだが単行本に収録されていない作品だった。だからか、ネット上の感想が見つけられなかった。なぜ。

 序盤は、主人公たち東大法学部生、官僚になると決まっている「出世主義のランニング選手たち」の姿が描かれる。イキっている彼らのむんむんの空気感がおかしい。だが、女装して自殺した兄の思い出から、主人公のなかに同性愛の不安が浮かび上がってくる。そのあと話が展開していくのだが、二段組とはいえたった12ページに収められている。描写が足りず駆け足だという見方もできるかもしれないけれど、最小限の場面を積み重ねる圧縮度とその正確さは疑いようがないと思う。そして私はこういうリズムの話法をもった作品が好き。

ポッドキャスト:『Y2K新書』とエンタメ作品

 商業主義的なメジャー作品群が好きで語りたくてたまらないはずなのに、大手メディアはアカデミック、ハイセンス、あるいはサブカルなものでなければ語ることを許さない、という背理について、柚木麻子さんの訴え。好きなものを好きといってよい、という姿勢は喧伝されつつあったが、そこでいう「好きなもの」は限定されているという。

 シャニマスの話をします。三峰さんはときおり自分が好きなものを伝えることをためらうことがある。それを見て私なんかは、どんどん伝えていこうよ好きなものなんだから、みたいな見方をしていた。でもメディア上でそれを伝えること特有の困難を見逃していた。つまりそもそもメディア側が事前にハイセンス、サブカル、流行のどれかを「おすすめ」にあげてほしいという意図をもっていることの困難。三峰さんもきっとそれにぶつかっていたはずではないか?

 先月 気にしていた件の続報が出た。

 人と会う前、待ち合わせ場所に向かっているときの高揚感が詰まっている曲です。

 惜しいのは、サマーチューンだから聴ける季節が限定されている点だ。ライムスターさん、冬版の「into the night」も作ってください。

探偵ナイトスクープの感想。大学を中退して実家に戻る大学生が、近所の犬 キュウ太と散歩させてもらってお別れをいう依頼。

映画:『クリード 過去の逆襲』

 一作目の興奮の再来には届かずとも、デイミアンというキャラクターを生み出せたように、作品としての魅力は十分だった。ボクシングの試合シーンは、序盤の「勝ち筋が見えている」という編集や終盤の精神世界など、ケレン味のある演出が(監督の資質を表していて)押し出されていたけれど、私としては中盤のデイミアンのタイトルマッチがいちばんよかった。この試合はどうなるんだ、どこまで行くんだという緊張感。そして試合後のデイミアンへ向けるアドニスのまなざしは見事だった。

今月の下書き

 恰幅のいい少年が半短半パンの体育着の上に紺色のブレザーを羽織っていて、そういうのもあるのかと思った。体育祭の準備のときに見られそうな恰好だ。

いい着こなしだったので、印象に残った。

【殴打、その他の夢について】って「殴打=beat」だから浅倉さん特有の生命=鼓動する心臓のモチーフの関連なのかな。そうだとすると、やっぱ浅倉さんって〝ビート〟たけし=北野武の映画が好きなんだろうな(飛躍)

こういうこじつけを口にすることが癖になってしまった

問題:記事の文体と、自動翻訳

 私の書いたシャニマスnote記事を韓国語話者の方に読んでいただいたみたいだ。シャニマスプレイヤーだろうから日本語原文で私の記事を読んだのかもしれないけれど、自動翻訳を使ったりして読む人がいる可能性だってあるんだよな、と思った。
 じゃあ自動翻訳を使って読む人はどういう文章を私が書いたものとして受け取るんだろう?と思って、自分の記事を英語に自動翻訳してみたものを読んだ。すると、自分が目につく文章のくせがなくなっていて、いいじゃんと思った。

 今回読んでもらったこの感想記事の「自分が目につく文章のくせ」というのは、もろに蓮實エピゴーネンっぽい箇所のことをいっている。たとえば、前半の節の最後の段落とかの言い回しや、「落下」に注目する映画の見方など。さらにいえば、感覚と純粋という問題の立て方は柄谷の『ベルリン・天使の詩』論からもってきている。

 こういうのは一般に「ださい」「目も当てられない」とされる人文系オタクのふるまいの最たるものといえるが、だからといって削除してしまいたいと私が思っていないところがむずかしい。『ベルリン・天使の歌』と絡めて意味深な浅倉のコミュが出たらこういう文章を書いちゃうっていうのは誰かがやんなきゃいけなかったことなの。それを私がやったまでなの。と、開き直っているフシがある。

 さらに開き直るなら、みんなが思いつくことだからこそ最低限文句の出ないものを書こうという気合が生まれるものじゃないのか。映画が登場する浅倉透のコミュを元ネタの映画と比較して考えるというのは、すぐに出てくる発想だ(『ファイト・クラブ』のときも私はそれをやった)。だから、その初発のアイデアの単純さを補うくらいの内容にしないといけない。そこが頑張りどころなのではないのか。そして私はそれなりに頑張ったつもりで、削除する理由はない……。

 こうして自己正当化をしたうえにヘンな気合までも入れたりして、くせが目につく文章が生まれたわけだ。しかし、Googleに英訳してもらうとどうだろう。そういうことが一切気にならない。人文系云々の文脈が切断される。それどころか、「なんだうまく書けてるじゃん」と錯覚してしまう。危ない薬ですが同じような葛藤に苛まれている人は試してみてください。

功利主義を死後も貫徹するために、自分の遺体を医学解剖のさせたあと剥製にして飾らせたベンサムがいちばんリアルやわ

リアルやね。

問題:風呂と侵襲(性犯罪の例を出すので注意)

 人から風呂の話を聞くときに、その人の裸を想像する・してしまうことがある。
 この傾向にはジェンダーギャップがいくぶんか認められるだろう。つまり、私がこの社会でヘテロ男性であるからそういう傾向があるのかもしれない。ただし、あくまで傾向についてそういえるだけだ。想像すること自体はその人のジェンダーと無関係に可能である。
 問題の一つは、それを性的な興奮と結びつけることだろう。この想像についての拒否反応として、①「裸を想像するのはかまわないが、それで性的に興奮しないでほしい」という人と、②「そもそも裸を想像しないでほしい」というのに大きく分けられるだろうか。③どう想像して興奮しようと勝手だがそれを振舞いに見せないでほしい、というのもある。
 

 私は、特に性に関して、人が侵襲的なしかたで想像力をはたらかせてしまうことに興味がある。それはたとえるなら、「性の6時間」のようなゴシップ的な言説を生む土台となるような妄想である。

 風呂の場合の他にも、「今、何色の下着着てる?」といういたずら電話もその想像力の一例かと思い浮かんだ。だけど、あれは実際に下着の色を頭の中で想像しているわけではないですよね、おそらく。電話の相手が嫌悪や恐怖で動揺しているさまに優位な立場にたって興奮しているのかな。

問題:他人を不死にする

自分じゃなくて他の人を不死にできるとしたら、どうするかな。

 結局自分が死んでしまうので、ある意味では、〈不死になった他人〉は、〈自分が生きているあいだ生きていた他人〉と一緒のようなものになる。不死属性を付加させたところで私にとってあまり関係がない。他人だから当たり前か。世界はそういう存在を他人と呼ぶんだぜ。

 ただ、〈自分が生きているあいだは確実に生きている人間〉が自分以外にもう一人増えるのはちょっとうれしいかもしれない。

 あくまで私個人の問題関心としては、実在感が演出・マーケティングから倫理にスライドするという事態に興味がある。つまり倫理に関する問題として興味がある。やはりそれは、見ている現象は同じでも、ジェンダーアイデンティティ、その権利、その差別の問題として考える姿勢とは多少異なるものな気がする。

無理解で差別的な断罪でなく、忌避であるということに力点があるかしら。

労働力商品の広告屋となって2001年製労働者の販売促進キャンペーンを行わなければならないのだが、やっていない。

就職活動。

音楽:EASTA『T.U.R.N.』

EASTAの新譜『T.U.R.N.』を聴いた。
「I Decided」、ど直球のお別れソングだ。こんなに真摯に別れを歌ったラップがあっただろうか。
「HAPPY END2022」、「誰かが言った Everything's gonna be alright/その傍ら/誰かが言った売れることは一生無い」というフック。
「誰かが言った○○○」というくりかえしと、「be alright」と「一生無い」という反対の意味の語どうしのライムで、すでに対比が暗示されている。だから、もしかすると、その二つを接続する「その傍ら」はなくてもいいではないか。しかしある。私は合間に挟まるちょっと余分な感じがする「その傍ら」がチャーミングでいいなと思った。この曲のフックに「その傍ら」は不可欠だ。

 EASTAが出すアルバムは全曲ラップうまいし、最近はSkaaiがBonberoとフィーチャリングして新曲を出したし、活躍がうれしいね。

音楽、ラジオ:「After 6」のMV

 RHYMESTER「After 6」のMV、ライムスターメンバー(男性)に女性アナウンサーがぴたっとくっついているみたいな構図が多い。今だったらこう撮らないか少なくとも減らすだろうなあと見返していて思う。番組開始当初の2018年当時には、そういう点をまだ出演者、番組、映像制作陣等が意識していなかったのだろうけど。
 壮年のヒーローと彼を慕う若いヒロインみたいな旧来のイメージとしては映える映像になっているけれど、番組開始後の現在のイメージと離れている感じは否めない(しょうがないんですけどね)。現在のリスナーからすれば、たとえば、宇垣さんがDさんと日比さんを従えてドヤという顔をしているのが見たいとか、宇多丸さんと山本さんでバディを組んでもらうのがいいだろう、とか妄想する。

 番組開始時につくったんだからしょうがないんですけどね。来年の武道館、「After 6」with アトロクパートナー陣のステージやってくれないかな。そうしたら私の妄想した光景が見れるのでは?

江藤淳と正宗白鳥の対談というのを見て、「?」となった

同じ時代を生きていたのかというおどろき。

ANARCHY『NOISE CANCEL』(2021)のなかだと「Wat's time is it」が好きでこの曲単体で聴いていたんだけど、あらためてアルバムの流れで聴くと印象が変わる。地元の仲間のことをメロディアスに歌う「I'm here」、地元の〝リアル〟の悲壮さがただよう「Dog town」のあとで聴くと、さらに曲中のラッパー(≒ANARCHY)の置かれた状況の郷愁ともつかない哀しさの深みが増す。

「Wat's time is it」の曲中のラッパーはもう地元から離れてしまっていて、もはやハードな暮らしをしていた頃が遠い過去になってしまっている。「懐かしい街がファンタジー」のように感じているが、ギャングスタなラップをしている。ラッパーがホテルのスイートルームでやさぐれているのだが、『スタンド・バイ・ミー』のエンディングみたいな寂寥感がある。

 似たもの同士、同じもの同士で集まって和気あいあいすることがある。たとえば、教室のどこに座ってもよいとき男性の学生で固まるなど。彼らは同じ男性だったから集まったのだろう。でも、「同じであればうれしくなる」のがなぜかはわかっていない。これは不思議だね

互いに違うものを持っているから惹かれ合うという説明が他方ではあるのですが。

問題:口にすること

 私の実感では、会話というのは思いついた言葉を言うか言わないかを選択しつづけることであって、会話相手とのあいだでどういうコミュニケーションが行われているか、ということがなかなか意識に昇らない。そして言葉の選択に慎重になるあまり、会話をしていると、これは言わないでおこうみたいな言葉ばかりでずっと黙っていることになる。むしろこれは言わないでおこうと取っておいた言葉のほうが、会話を思い返したときの主な印象になっているときがある。本末転倒。
 そういう性格の持ち主だからか、「語らせる権力」みたいなのには ついついうっとりしてしまう。「言わないでおいた言葉」がなくなることはよいことだという気がしてしまうのだ。Twitterでつぶやけなかった下書きをこうしてnoteで書いているのも、少なからずそういう理由があると思う。
 「みんながみんなの思っていることを口に出す社会」は個人の内心の自由を認めない社会だ。それはディストピアのひとつの典型である。だけど、私の心の底ではそれがある種の理想に思えてならない。告白の内容が統治・処罰・加害に結びつかないかぎりではよいのでは、とどこかで思っている。

 こういう傾向は多少 私の嗜好とむすびついている。たとえば、山本直樹『ビリーバーズ』や、Awich「口に出して」に惹かれるところがあるのもそういう理由からだと思う。

 コミュニケーションの不能感から人類補完計画的な発想に向かう道もあるけれど、あの融合みたいな非言語的な一体感は違うなって思っています。他人の思考の「わかりがたさ」をなくしたいという方向ではない。

歌集を読むときの感覚を表現するときに「スワイプしてればなにか断片的で面白いものが流れてくるもの」としてTikTokを例に挙げて説明したけれど、何よりも先にTwitterが出てくるべきだった

どう考えても私はTLを眺めている感覚で歌集を読んでいるのに。気づけなかった。

 いかなる性格の文章であってもリズムを持たざるをえないとすると、どんな文章もすべてラップなのかもしれない。そのリズムが良いにせよ悪いにせよ、何かしらのリズムを持っているのだ。
 ラップとしての文章はきっと後ろに流れるビートにアプローチしているのではないだろうか。あるいはアカペラのように自分自身がビートとなっている。ひとつの文のまとまり=一曲にうちに文体の変化があったとすれば、それはラップのスタイルを変えたのだといえるかもしれない。もしくはそもそもビートチェンジが行われたのかもしれない。

 自分が書きそうな文章を書くことに飽きてきたので、もう少し意識的に変化をとりいれていきたい。もうちょっとブーンバップな感じでいきたい。

 使える接続詞を増やさないといけないなと思っている。どこかの文章術にもあるでしょう。接続詞の使い方をマスターせよ、みたいな。そうしないとロジカルな文章になりません、みたい。

 これは接続詞じゃなくて副詞の話だけども、柄谷の文章を読んでいるとその副詞の使用方法が伝染ってくる。「むろん」をやたら使いたくなるし(自分のレポートで意識せずに使っていた)、とくに例示でもないのに「たとえば」と切り出してしまう。文頭におく副詞はこのほかにもあるはずなのにその二つだけをメインエンジンにして文章を動かそうとしてしまうのだが、当然それでは無理が出てくる。

問題:転校生

 転校(生)に興味がある、というのは、転校とはヘテロトピアから別のヘテロトピアへの移動に興味があるということかもしれない。転校生は別のヘテロトピアからの使者。

 小・中学生のころの私の恋愛感情は、そのすべてに転校(生)が関係していた。偶然なのだろうが、気づいたときにはちょっと驚いた。私は転校をしたことがないので想像するしかないのだけど、転校生の当事者からすれば私のこういう謎の偏向は迷惑だったかもしれない。

 いったい何が人をして「しがない」と自称せしめるのか。

「しがない大学生」みたいなプロフィールを見かけると思う。

今月のファボ・ブックマーク

トランス差別。

 ベイダーは映画4作とTVアニメの一部にしか登場しないのに対して、オビ=ワンは映画6作に加えてTVアニメにもレギュラーで登場するので、オビ=ワンがいちばん多いはず、という推理。見事的中、正解しました。

今月はおしまい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?