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【殴打、その他の夢について】浅倉透の感想

殴打するアイドル

 「殴打」は、カメラによる撮影およびアイドル活動の比喩表現として語られる。シャッター音は打撃音と重なり、カメラを向けることは殴り・殴られることと重ねられる。雛菜さんをカメラで撮影することで浅倉さんは「殴ったり 殴られたり」することが「こういう感じ」であることを体感している。暴力や痛みによって得られる生き生きとした充実感、それに似たものを浅倉さんは撮影の最中に見出している。

 アイドル活動のメタファーとして暴力を捉える仕方は、もちろん元ネタと思しき映画『ファイト・クラブ』とはちがっている。『ファイト・クラブ』における暴力の表現は男性性の問題とわかちがたいものだ。「写像1」ではこの男性性の要素は見当たらない。浅倉さんは、この作品のマチズモへの風刺的な批判に共感を示すのでもなく、あるいはブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンが象徴するマッチョな方向にうっかり心酔するのでもない。すくなくとも浅倉さんが『ファイト・クラブ』におけるマチズモの問題の存在を了解している様子は描かれていない。殴り合いの理由を尋ねる雛菜さんの「なんで~?」という問いにたいして、浅倉さんは返答に窮している。

 「消費社会に生きる男たちが自らの生の実感の方法としてどうしようもない自己破壊をしている」という劇中の理由を浅倉さんは了解していない。しかし『ファイト・クラブ』の登場人物の抱える問題は、浅倉さんひいてはノクチルが置かれた状況に近い。退屈な日常を生きる高校生四人が自らの生を実感するべくアイドル活動に乗り出した様子を、私はノクチルに見出してきたのだから。そしてこの「写像1」は(マチズモを脱臭した限りで)ファイトクラブに集まる連中とノクチルとを重ねることを許している。たとえば以下のくだりからそういうふうに言えると思う。

浅倉さんが「見てよ、雛菜も」と言ったあと、雛菜さんが映る画面にフィルターがかかる。黄みがかったもの(*)と、それまで映画の場面(夜の裏路地、ビル群)を表していた暗い灰色のものだ。そして「あ」「雛菜」「が」「殴る ガツン」と続く。二人きりの教室でのカメラ遊びが、浅倉さんにとっては映画で見たような一対一の殴り合いのように感じられていることが示される。雛菜さんも殴り合いの輪に加わったのだ。「いけるなら もっと」と浅倉さんは加速していく。そして「殴ろう」という力強い意志の表明でコミュは閉じる。

ノクチルというファイトクラブ

 雛菜に『ファイト・クラブ』を見るように勧めることは、劇中でのファイト・クラブの会員になるように誘うことと同型の行為だ。互いに「殴打」し合う集まりへの招待。そしてそれは浅倉さんが雛菜さんら幼馴染をアイドルの世界に誘ったことともパラレルな行いだ。浅倉透を中心としたノクチルの結成。ノクチルが暗にアイドルとしての「殴打」の理念のもとに集った幼馴染四人からなるユニットであるならば、ノクチルを応援する私はラストの「殴ろう」という浅倉さんの意志を肯定するしかない。

 「写像1」を読んだあと、私は「殴打」が繰り広げられることを全面的に許してしまう。『ファイト・クラブ』と同様に、この幼馴染四人は退屈な日常のなかの疎外感からノクチルを結成した。ところがそのアイドル活動もほとんどが日常の学校生活と地続きのものであるかのようなようすだった。しかし、そのような日常が激しく渦巻く事態のうえに成立していることを、浅倉さんは発見している。GRADではそこに生物の食物連鎖があることを、LandingPointでは映画館の閉館の裏に資本の競争があることを。そして自分はその環境にアイドルとして投げ込まれていることを発見していたのだ。その環境は浅倉さんに「殴打」することを強いるものだ。ならば、浅倉透をアイドルとして応援する限り、その「殴ろう」という意志を否定することはできない。それが浅倉がアイドルとして存在しえる仕方なのだから。

(*ここだけで使われている黄色のフィルターは何を意味するのだろうか。
 『ファイト・クラブ』では次のようなくだりがある。劇中の人物タイラー・ダーデンが悪戯をするシーンだ。映写技師として働く彼は、家族連れで見るような映画のフィルムに一コマだけポルノ映画のフィルムをつなぐという遊びをしている。スクリーンに一瞬だけポルノの映像が映し出されて観客を戸惑わせて楽しんでいるのだという。
 その「一コマ」「一瞬」のポルノグラフィと対応するのが、ここで問題にしている一か所だけで用いられる黄色のフィルターの場面なのではないか。つまり、カメラを構えた浅倉さんの前に雛菜さんが被写体として立ち現れてくるとき、それは限りなくポルノグラフィに接近する事態であるという表現なのではないか。
 このような考察はコミュから過度にセンセーショナルなものを引き出そうとする私の曲解である可能性が大いにある。ただし【殴打、その他の夢について】が、『ファイト・クラブ』を念頭に置き、かつ撮影という「見る/見られる」関係が暴力性を孕みうるという認識のもとで語られたコミュである以上、このような解釈の余地は残されていると私は考えているのでここに記した)


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