5/3 「噺家は世情のあらで飯を食い」を再起動する

とにかく仕事が入らず、歴史上最大の不況です。この期間は生命維持に費やし来るべき時に向けて上質な睡眠をとるのもひとつの方策ですが、やはり今しかできない面白そうなことを考えてしまうのが芸人の性であります。
しかしそれは今即座にお金になるものではないので、当座のところはどうしましょうという状況は変わらないのです。

それでもまあ、生物として生きていくための不要不急のもの(!)を除けば、水を飲んでいくらかの栄養を摂取していけばこの世に存在していくことは可能です。ご飯を食べること、これが生きる条件でありまた働くことの目的でもあり。まさに飯を食うのはアルファにしてオメガであるわけです。(アルファにしてオメガの使い方を間違えているかもしれないけど、ここはアルファにしてオメガだと思う)

《噺家は世情のあらで飯を食い》
この川柳は大変に有名だと思うのですが、そこまで皆さん知っているかというとそうでもないような気もします。落語家(ちなみに噺家と落語家という呼称に関しては色々あるんですが全く同じ対象を指します)の糧であるネタは世の中のあらゆる出来事からこそぎ取ってきているということです。噺という字は口に新しいと書きますが、時事ネタなんてのは毎日更新して喋り続けろというわけです。このイメージはお分かり頂けると思います。

ただ、この川柳を文字通りにとった場合。「落語家のご飯のおかずは世情のアラだよ」という意味になります。
「アラ」というのは「魚のアラ」という意味以上のことはないそうです。頭とかエラとか、捨てちゃう、いらない無駄な部分。そこから、人や物事の悪いところも「アラ」と言うようになった。「アラさがし」なんて「アラ」を積極的に求める行為ですが、かなり悪意のあるパターンですよね。

魚のいらないところも良い出汁が出るもんだから、あら汁(180円)とかになるわけですね。それはいいとして、とにかく社会の隅々にまでアンテナを張り巡らせて、掴んだものを笑いの光のもとに調理しなおすというのが落語家の手腕センスであります。

この、世情、世間、社会、広くとれば世界ともいえるのが魚として表現されているのがこの川柳の面白いところです。イワシとかアジとか、そんなちっぽけな魚ではだめだ。

中国古典の一大ムーブである『荘子』のエピソードにて。
はるか北の果ての海に、鯤(こん)という体長は数千里に及ぶという巨大魚がいて、これがあるとき鵬という空を覆うほどの翼を持つ鳥に変化して南を目指して飛んでいくといいます。目的はわからぬが、このように大きな存在の意図など、ちっぽけな者には知りようもない。

願わくば僕は、この巨大な鯤のアラを調理したいのです。世界そのものを相手にして、そのアラから旨味を引き出してみたい。目的とか理由とかどうでもよくて、自己実現ですらなく。そうして、遠い遠いところに向かいたい。

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