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建築について素人は何を語れるのか

もくじ。
・建築について語りたくなるという衝動
・建築であり、かつ、卵とじそばである
・体験の図と地
・結局、建築を見たことについてどうして人に語りたくなるのか

以下、やや長文です。

建築について語りたくなるという衝動

TATÉ-MONOという建築紹介ブログを、わたくしは書いております。このブログを始めたのには理由がふたつあります。

ひとつは、こちらの記事でも書きました通り、自分がこれまで見てきた建物のアーカイヴみたいなものを作ってみたかったからです。もう一つの理由はフランス語作文能力の向上のため。わたくしは仏作文が非常に苦手なのですが、仏留学中の大学院生としてそれはまずい。そこで、とにかく無理矢理にでも日仏両言語で記事を書いて、仏作文アレルギーを克服したかったのです。(なお、上記ブログの仏語はネイティヴによる添削を受けていないものなので、誤りが大量にあるかと思います。あまりにも恥ずかしい明白なミスがもしありましたら、こっそりご通報いただけますと幸いに存じます…。)そのため『TATÉ-MONO』ブログは、データベース的なものを、自分にとって不自由な表現手段でしかない外国語で書いたものになっています。したがって淡泊で固くて短い記述ばかり。

しかし不思議なもので建築をいろいろ見て回っていると、その見学体験を言葉でもっと説明したくなる、という欲求をしばしば異様なほど感じます。建築を専門となさっている方々であれば、ひとつの建物を建材、構造、工法、納まり、さらには法律や政治といった多くの側面から、言葉を尽くして語ってみたくなるというのは当然だと思います。そして実際、建築のことについて語るときにプロの方々の語ることを拝読すると、その観察眼の精度と鋭さ、用いる言葉の現実感と重み、ときおり用いられる軽妙なレトリック等々に、いつも圧倒されます。

そうすると、自分のような門外漢の素人が建築について今さら何を語ることがあるというのか、とニヒルな気分になって野生のシカが落ち葉を踏み分けごく稀に訪れるくらいの人里離れた竹藪に小さな庵[いおり]を建ててそこで沈黙の裡に里芋の煮物でも作って隠遁したくなりたくもなるのですが、それでもわたくしも、自分の建築見学活動の報告をしてみたい、という気持ちが依然として存在し続ける。それは『TATÉ-MONO』ブログを書いても消えない。むしろ書き足りない気持ちが溜まってゆきます。では、そんなときにわたくしが語りたい、建築に関する事柄とは何なのだろう。そして、建築見学をした体験をなぜそんなに語りたく思うのだろう。

建築であり、かつ、卵とじそばである

それはたとえば、ある感じのいい建物を見学したあとの良い気分が持続した状態で入ったおそば屋さんでお昼に食べた卵とじそばがおいしかったときの、その卵とじそば、という出来事です。それは卵とじそばという現象であって客観的にはもちろん、建築見学と何の関係もないです。それはそうなのですが、しかし自分にとってはもう、その感じのいい建築とそのおいしい卵とじそばとの不即不離の観念連合が形成されてしまった以上、その建築は卵とじそばと地続きの存在として認識されたのです。わたくしがその建築について卵とじそば抜きで語ろうとすると何かそらぞらしい、本質的なものが欠落してしまったように感じられる。

そのとき、「感じのいい建築を見てから食べた卵とじそばが、すごくおいしかった」と書くことが、その建築についてわたくしが語れるほんとうの事柄である、としか思われないのです。少なくともわたくしがその建築について外壁塗装剤の成分とか、外観からは容易に伺えない構造的アクロバットとか、第一種低層住居専用地域における北側斜線制限への対処の妙とかを一知半解の知ったかぶりで書くより(本当はこうした事柄にも言及できるよう、もっと勉強すべきですが)、「その建築であり、かつ、卵とじそばである」という命題を書いた方がより嘘じゃないです。

体験の図と地

以上の例は半分冗談のたとえなのですが、ともかく、建物を見に行った体験は、その体験に付随する副次的事象から切り離しては語りがたい体験である、ということをよく感じます。見学した建築をそれ単体として取り上げようとする。するとその建築のコンテキストあるいは周辺的背景が、その建築自体について語るテキストに不可避にくっ付いてくる、ということです。

Giambattista Nolli, « Nuova Pianta di Roma » [public domain].
(出典:Wikimedia Commons。元画像の一部を引用。)

青木淳氏はある対談で、ジャンバティスタ・ノリの白黒反転地図 ↑ に触れながら、都市空間と建築物との関係における図と地の反転可能性について述べています(※)。図として浮かび上がって認識されがちな建物も、実は街路や広場などの開いた空間に対する地として両義的に存在しうる。と同時に、建物に対して背景(地)をなすとみなされがちな街の空間も、図として対象化されうる、という発想です。

この議論は建築見学体験にも当てはまるように思います。つまり、建築を見るという体験を取り巻く副次的体験も、非‐背景、あるいは図として、建築見学行為それ自体と同じ次元で扱いうる、と思えるのです。図でありかつ地でもある建物とそれ以外の空間。それら二つがひとつの街を形成している。建築を見るというひとつの体験も、それに類する形で成り立っているのではないでしょうか。

この背景(前景に反転可能な背景)は空間的背景だったり時間的背景だったりします。たとえば地下鉄を降りて地上口に至る階段を上っていて見上げると、徐々にまぶしく目当ての建物が視界に入ってくるというようなとき。その建物を語るとき、必要不可欠な要素としてテキストに組み込まれなければならないのは、地上出口階段という空間やさらには地下鉄駅についての描写です。

あるいはある建物を夕暮れ時に見学しているとき、薄暮の空にその建物のシルエットが仄暗く浮かんで、そのシルエットも、洗い流れるように光を失ってゆく空に次第に溶け込んでゆくかのように見える、と思った矢先に建物に明かりが灯ってまあきれい。というような体験をしたとき、後になってその建物について去来するイメージは、夕暮れ時の推移してゆく時間イメージと一体化したものになっているはずです。さらには同じ建物を今度は午前中のおだやかな青空の下でも見てみる。すると建物背景の時間的奥行きは増し、その奥行きが建物の輪郭を四次元的に明瞭ならしめ、その建物についての言説に作用を及ぼすはずです。

こうした建築見学体験の特異性は、そこの場所に、ひとつだけしか存在せず、しかもそこから動かせない、という多くの建築が持つ基本的な特徴に由来すると思われます。そのようなわけで建築を鑑賞するためには必ず自分が、そこの場所に出向かないといけない。歩いたり電車に乗ったり飛行機に乗ったりして。そして帰りの電車の時刻を気にしながら建築見学したり。しかも建物は基本的に屋外に存在するので、建築見学の日に雨が降ったり雪が降ったり極寒であったりしてもそれを耐え忍ばねばならない。また、その建物がおっかない地区にあったりすると、「こええよう」と思いながらそこに赴く羽目にもなる。そうした二次的経験もひっくるめてこその、建築見学なのだと思います。

結局、建築を見たことについてどうして人に語りたくなるのか

これまで申し上げてきた事情は、本や音楽や絵に接するときにもしばしば成立すると思います。この本のこの箇所を読んだとき自分は○△線に乗ってどこそこに向かっていたな。そのときは雨が降っていたなあ。と思い出すことで、読書体験のコンテキストが、その書物のテキストに思わぬ形でかぶさってくるというように。ただ、基本的には任意の場所と時間に読める書物や、外部的背景が多かれ少なかれ捨象された環境、つまり美術館や音楽堂、あるいは自室などで鑑賞することが一般的な絵画・音楽(あくまで一般的な)では、こうした現象がいつも起こるとは限りません。極端なはなし、音楽は暗闇の室内で微動だにせずとも鑑賞できます。その点、建築見学体験はやはり少し特殊です。

そこで最初の方で疑問に思ったこと、「どうして建築見学をした体験をやたらと語りたく思うのか」ということなのですが、これは多分、建築を見るという体験を思い起こすと、それに不可分な形で結び付いた他の色々な周辺的体験もつられて陸続と思い起こされ、そのイメージの湧出量が自分だけでは処理しきれないくらいに達するから、「ねえねえ聞いてよ、この間この建物見に行ったときさあ、建物自体ももちろんすごく良かったんだけど云々」という風にひとに話したくなるのだと、自分のなかで回答が出た気がします。

そういうわけでわたくしは、建築見学をしたときついでに何があったか、という「ついでに」の部分を、ついでじゃない部分にくっ付けた形で書いてみたいと思います。そのため、ごく個人的で何の役にも立たない表層的な記述が大半になるかと存じますが、ともかくなんか書いてみたくなったので書こうと思います。きっと、建物の「物」は物語の「物」と親和性を持った物であるに違いないです。

(※黒岩恭介、青木淳、「Dialogue:美術館建築研究――2 美術館の現場から」[対談]、『10+1 web site』、LIXIL出版。対談後半の、「都市における図と地の反転」の項。)
ところで上記のノリの地図画像、noteに貼り付けたら、なぜか色が薄くなった……。

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